黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「死」の季節

2007-12-17 23:25:31 | 近況
 この10日間で3件の葬儀に参列した。義兄の奥さんと知り合いの母親、それに叔父が亡くなっての葬儀。それに加えて、僕らがそういう世代なのかも知れないが、今年僕の家に配達された「喪中通知」の葉書は、優に30枚を超える。毎年300枚ぐらい年賀状を書いているので、その1割の人が「喪中」にある、ということになる。これからは、増えることはあっても減ることはないのではないかと思うと、何だか淋しい気がする。
 それにしても10日で3回の葬儀、急激に寒くなると年寄りは持ちこたえられなくなるからこの時期には重なるのかも知れないが、こう立て続けに葬儀が続くと、否が応でも「死」について考えざるを得ない。特に、長崎県の佐世保で起こった猟銃乱射事件で「理不尽な死」を遂げた若い女性と犯人の友人とされた人のことを思うと、いかにも「死」が軽く扱われているのではないか、と思わざるを得ない。
 今年の7月に亡くなった作家の小田実は、1945年8月13日(敗戦の2日前)の大阪大空襲で犠牲となった人の死について「難死」(理不尽な死・無意味なし、というような意味)という言い方をして、「戦争反対」の立場からその人たちの死を強いた軍部や政府に対して「異議申し立て」を行ったが、僕らは現在「難死」ならざる「軽死」の時代を生きている、と言えるのかも知れない。いかにも人の「生命」が鴻毛より軽いように思える時代を僕らは生きているとしか思えない、この「軽い時代」。
 1987年に海燕新人賞を受賞した吉本ばなな(現:よしもとばなな)の「キッチン」の冒頭は、唯一の身内であった祖母が死んだとき、主人公の桜井みかげが「びっくりした」と言う言い方をしたことが記されていたが、唯一のに寄進が死んで自分が天涯孤独の身になりながら、祖母の死を「びっくりした」という言い方でしか受け入れられない世代の出現、それが「現代」を表徴するものであるとしたら、僕らは何とも悲しい時代を生きている、と言わなければならない。
 こんな時代だからこそ、年寄りには値千金の「年金」に対して、金持ちである政治家たちは、平気で「消えた年金」に対する公約を破り、最高責任者まで「我関せず」といった姿を平気でさらけ出すのである。みんなが醜態を去れけ出して平然としている時代、どこかおかしいのではないか、と思う。