東国原宮崎県知事が口走ったからだと思うが、最近の若者たちの言動について苦々しく思っている(と思われる)壮年たち=普通の人(庶民)による「徴兵制が必要」という発言に接することが、最近相次いだ。もちろん、彼らは決して好戦者というわけではない。ほぼ僕と同じ年頃だから、父親が戦争を体験している世代で、その意味では決して現在の「平和」に不満を持っているわけではない。
にもかかわらず、「徴兵制が必要」と言うのは、なぜか。主要には、東国原宮崎県知事がその発言の「真意」を聞かれて苦し紛れに弁明したように、最近の若者たちが余りに「だらしない」から、ということなのだろが、しかし、そのような言い方に説得力が果たしてあるか? よく言われることであるが、いつの時代でも年配者からみると若者は「足らない部分」を多く持っていると感じられるものである。それは、親が子に対して持つ「不満」や「不安」と同質なものと言っていいだろう。その意味では、「私たちの時代は、こうであったのに、今の若者たちは……」という言い方は、全く説得力を持たない。
だから、「徴兵制云々」という発言が問題なのは、そのような若者がどうのこうのということではなく、あの日本の近代が必然化した戦争が終わって62年、軍隊が決して若者の体と精神を「健全」に育てる場所などではなく、あくまでも「敵」、あるいは敵国人(非戦闘員)を殺傷する組織であることを、多くの人が忘れ去ってしまっている点にある。そのために、軍隊というところは「訓練」を強いる閉鎖組織であり、そのために「敵」だけでなく「味方」も傷つける場所であることを、私たちは明記すべきである。このことは、野間宏の「真空地帯」や大西巨人の「神聖喜劇」が明確に語っている。
折しも、今年(12月)は、「南京事件70周年」という記念すべき年である。僕もそのことについて、中国の「世界文学」という魯迅が最初に発行した雑誌(中国社会科学院外国文学研究所発行)に寄稿したが、「加害」の側である日本でどれほどの人が「70周年」を意識しているか。「加害」の現実を見つめることによってしか、それは「思想化」されないにも関わらず、である。小林よしのりなどという漫画家が跋扈し、また石原慎太郎東京都知事などが躍起となって「南京大虐殺はなかった」とデマゴギーを振りまいて、一定程度の人気を博しているのも、僕らが「南京事件」をはじめとするアジア・太平洋戦争における日本の「加害」責任を相対化=思想化してこなかったからではないのか。
「徴兵制が必要」という発言も、みなそのような「あったことをなかったようにする」日本人の態度が引き起こしたことなのではないか、と思わざるを得ない。若者云々は、現象面しかみない本質からはずれた「言い訳」に過ぎない。そのことを僕らは十分に知った上で、改めて「新テロ特措法」の制定に躍起になっている現在の政権が、いかに危うい橋を渡ろうとしているかについて考えなければいけないのではないか、と思う。
そんなことを考えていると、今読み直している「村上龍」の苛立ちが、本当によくわかるような気がする。彼は、おろそかにできない現代作家の一人である。確かに、そのように実感される。
にもかかわらず、「徴兵制が必要」と言うのは、なぜか。主要には、東国原宮崎県知事がその発言の「真意」を聞かれて苦し紛れに弁明したように、最近の若者たちが余りに「だらしない」から、ということなのだろが、しかし、そのような言い方に説得力が果たしてあるか? よく言われることであるが、いつの時代でも年配者からみると若者は「足らない部分」を多く持っていると感じられるものである。それは、親が子に対して持つ「不満」や「不安」と同質なものと言っていいだろう。その意味では、「私たちの時代は、こうであったのに、今の若者たちは……」という言い方は、全く説得力を持たない。
だから、「徴兵制云々」という発言が問題なのは、そのような若者がどうのこうのということではなく、あの日本の近代が必然化した戦争が終わって62年、軍隊が決して若者の体と精神を「健全」に育てる場所などではなく、あくまでも「敵」、あるいは敵国人(非戦闘員)を殺傷する組織であることを、多くの人が忘れ去ってしまっている点にある。そのために、軍隊というところは「訓練」を強いる閉鎖組織であり、そのために「敵」だけでなく「味方」も傷つける場所であることを、私たちは明記すべきである。このことは、野間宏の「真空地帯」や大西巨人の「神聖喜劇」が明確に語っている。
折しも、今年(12月)は、「南京事件70周年」という記念すべき年である。僕もそのことについて、中国の「世界文学」という魯迅が最初に発行した雑誌(中国社会科学院外国文学研究所発行)に寄稿したが、「加害」の側である日本でどれほどの人が「70周年」を意識しているか。「加害」の現実を見つめることによってしか、それは「思想化」されないにも関わらず、である。小林よしのりなどという漫画家が跋扈し、また石原慎太郎東京都知事などが躍起となって「南京大虐殺はなかった」とデマゴギーを振りまいて、一定程度の人気を博しているのも、僕らが「南京事件」をはじめとするアジア・太平洋戦争における日本の「加害」責任を相対化=思想化してこなかったからではないのか。
「徴兵制が必要」という発言も、みなそのような「あったことをなかったようにする」日本人の態度が引き起こしたことなのではないか、と思わざるを得ない。若者云々は、現象面しかみない本質からはずれた「言い訳」に過ぎない。そのことを僕らは十分に知った上で、改めて「新テロ特措法」の制定に躍起になっている現在の政権が、いかに危うい橋を渡ろうとしているかについて考えなければいけないのではないか、と思う。
そんなことを考えていると、今読み直している「村上龍」の苛立ちが、本当によくわかるような気がする。彼は、おろそかにできない現代作家の一人である。確かに、そのように実感される。
軍隊では「女々しさ」をもちいて、混乱を誘います。「殺せないのか、お前は女か!母ちゃんのおっぱいでも吸ってな!」このような、女性蔑視の思想が軍隊には必要で、女であることは人ではないことを意味します。それにより相手の思考をパニックにさせ、マシーンやロボットにしてしまいます。
兵士の欲しいテロリスト集団が、子どもを拉致して兵士にしてしまう問題が深刻になっています。そして、もっとも恐ろしいのが拉致した子どもの村で、その子どもに家族(多くの場合が母親)を殺害させます。人間性の排除がまず必要なのです。
野間宏や大西巨人を恥ずかしことですが知りませんでした。しかし、黒古先生の仰るように「国家の根本的問題を撃」つ「軍隊を描く」作品の重要性は間違いなくあると思います。暴力の構造こそをわたしたちは問い直さなければならないと切に思います。
いい加減にしなさい、黒古。
いい加減にしなさい、黒古。
いい加減にしなさい、黒古。
いい加減にしなさい、黒古。