日本史学習拾遺

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邪馬台国東遷はあったのか? 纏向学研究センター東京フォーラム その2

2014-12-14 21:47:55 | イベント
まさに師走真っ只中。学校行事やら、大学通信教育のレポートやら試験やらで身動きがとれず、久しぶりにこちらを更新します。

そういえば、東博の「日本国宝展」、終わってしまいましたが、そのチケットの半券を持っている人は、12月23日まで、総合文化展(平常展)を一般310円、大学生210円の割引料金で見ることができるそうです。普段より200円安いのですね。行ってみてはいかがでしょうか?

私もその国宝展の際に「チケットケース」なるもの(その時気に入った三千院の菩薩さまのデザイン)を購入し、たまたまそこにチケット半券を入れたままだったので、暇があったら、行ってまたミュージアムショップで買い物でもして来ようかなあ・・・とちらっと頭によぎりましたが、暇はあるかなあ?ちなみに私は大学生ですから210円です。



さて、11月16日にあった纏向学研究センター東京フォーラムの話題の続きです。
講演の2番目、「卑弥呼は伊都国から」(元國學院大學教授 柳田康雄さん)のお話から印象に残った点を書いておきます。

柳田さんは、九州・福岡県のご出身ということもあってか、邪馬台国や卑弥呼のルーツは九州にあるという強い思い入れが感じられる方でした。鏡の発掘についてはかなりの「当たり屋」だそうです。

平原王墓(福岡県)は、副葬された銅鏡などの製作年代から、卑弥呼共立直前から同時期の巫女王墓であるとのこと。

柳田さんは、ここが伊都国であるとしています。平原遺跡は中国鏡が大量に出土した大規模な遺跡です。要するに、ここの鏡の量は一番であって、2世紀終わり頃までは伊都国王が倭王であっただろうというのです。それが正しいかどうかはともかくとして、平原王墓の被葬者は女性=女王=巫女であるというような内容でレジュメにも書かれています。
どうして女性とわかるのか、今自分でよく確認していないので、後で調べるためにメモとして書いておきます。
男女の墓で、夫婦ではなくて父の横に娘?が埋葬されていたというようなことをおっしゃっていました。
足元に多量の銅鏡群が破砕されているのが特殊であるとのこと。
レジュメの結論は「卑弥呼は伊都国の平原巫女王の近親者から選ばれたと考えている」とあります。

その他、私のメモから・・・
「日本海の墳丘墓の被葬者は、鏡を持っていないのでヤマト王権に関わっていない」
「鏡を持っている地域に注目を」
「天竜川以東が狗奴国」これは、今日奈良大の科目修得試験を受けてきたその試験勉強の中でも、白石太一郎さんが狗奴国は濃尾平野を中心とした東日本の勢力であるという説を唱えているのに出会いました。そしてその勢力が前方後方墳を作っていると。

何しろ、柳田さんは、「鏡」に相当のこだわりがあるようでした。
卑弥呼の時代と、九州で鏡がたくさん見つかる時代のピークは少しずれている(九州は早い)かなあと私は今では考えています。

講演の3番目は、俳優の苅谷俊介さんでした。私は俳優さんはあまりよく知らないのですが、「花子とアン」やその他大河ドラマなどにもたくさん出ていらっしゃる方で、しかも考古学研究も熱心にされているようです。肩書は「日本考古学協会会員 俳優」とありました。講演も、お勉強されているんだなという雰囲気はありました。講演のタイトルは「東遷は本当にあったのか?」です。

レジュメで弥生から古墳時代の女性埋葬例を12例挙げています。弥生時代最大の墳丘墓、岡山県の楯築墳丘墓の被葬者も「熟年期の女性」とレジュメにあり、わざわざ下線が引いてありました(笑)。「熟年」って、考古学的に通じる用語なんだろうか?
「出土した歯牙は小ぶり」だから女性ということのようですが・・・これも自分で後で確認したいと思います。

苅谷さんの結論としては、まず、巫女的指導者の埋葬例は縄文時代から東日本に圧倒的に多い。
それから、楯築墳丘墓の被葬者が女性という根拠が少しまとめに書いてありました。
(以下引用)

『楯築墳丘墓の研究』1992を参考にすると、中心主体被葬者の頭位には翡翠製勾玉をはじめ大型の良質碧玉(青緑)があり頸飾や頭飾となる蓋然性が高く、その状況からも女性被葬者が妥当である。また小型弧帯文石(61cm)、大型弧帯文石(93cm)、特殊器台・特殊壺、円礫堆出土の人形土製品からは呪的要素が強く認められ、「宗教的呪術的王」である「特定巫女」と考えられる。縄文的精神性が感じられるのと同時に、この被葬者こそ、卑弥呼の同族で血縁関係のある人物に想定されるのではないだろうか。

(引用終わり)

そして、他に印象に残ったのは、邪馬台国東遷説について、
「大陸との交渉に最も有利な地を離れるという理由が見当たらないのが東遷説の欠点であろう。」

つまり、北九州は大陸との交渉に有利な土地であるのに、わざわざそこを離れて大和に移って来る必要はないだろうというのです。まあ、ごもっともです。
今日の試験勉強の中でも、邪馬台国の頃、近畿から北九州への土器の動きはあるが、北九州から近畿に来た土器は少ないという指摘が書いてある本を読みました。また、中国鏡の分布も、3世紀初頭を境に、九州北部中心から畿内中心に一変するのだそうです。

そういうわけで、柳田さんと苅谷さんの主張は全く違うのですが、次回は、この二人と寺沢薫さんを交えた「鼎談」の様子を紹介したいと思います。



写真は、会場に来ていた桜井市のマスコット・ゆるキャラ、ひみこちゃんです。桜井市は「ひみこの里」をいつの間にか標榜するようになっていました。
ひみこちゃん、かわいいですが、デモンストレーションが終わって引き上げる時に、たまたま私の後ろをつけて歩くような形になって、カッポ カッポ と歩く足音が威圧感があってけだるくて、外見はかわいいけど中の人は男性なんだろうな・・・ご苦労さまです。


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