大晦日/今朝の俳句
◆
2012年(平成24年)
12月31日(月)
※No.1149※
◆
※今日の記念日※
■ 大晦日→大つごもり・大三十日(おおにそか)。
1年の最後の日を「大晦日〔おおみそか〕」または「大晦〔おおつごもり〕」とも呼びます。
「晦日〔みそか〕」とは毎月の末日のことです。
一方「晦〔つごもり〕」とは、“月が隠れる日”すなわち「月隠〔つきごもり〕」が訛ったもので、どちらも毎月の末日を指します。
“1年の最後の特別な末日”を表すため、末日を表す2つの言葉のそれぞれ「大」を付けて「大晦日」「大晦」と言います。
■ 除夜。
大晦日の夜のこと。
かつては一年の神「歳神」を迎えるために朝まで眠らずに過ごす習慣があった。
除夜には各家庭で年越し蕎麦が食べられ、寺では除夜の鐘が撞かれる。
除夜の鐘は108回撞かれる。
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根のそれぞれに苦楽・不苦・不楽があって18類、この18類それぞれに浄・染があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、これは人間の煩悩の数を表すとされている。
また、月の数12、二十四節気の数24、七十二候の数72を足した数が108となり、1年間を表しているとの説もある。
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
http://www.nnh.to/12/30.html
◆
※今朝の俳句※
山国の炉火あかあかと大晦日
滝沢伊代次
感慨も悔恨もなく大晦日
塩川 雄三
行く年やわれにもひとり女弟子
富田 木歩
■ 一碧楼忌。
俳人・中塚一碧楼[なかつかいっぺきろう]の1946(昭和21)年の忌日。
岡山県浅口郡玉島町(現・岡山県倉敷市玉島勇崎)の旧家で製塩業等を営む実業家・中塚銀太の四男に生れる。
1900年(明治33年)岡山中学(現・岡山県立岡山朝日高校)入学。1906年(明治39年)中学卒業の年に洗礼を受けクリスチャンとなる。翌、1907年(明治40年)早稲田大学商科に入学する。大学時代は飯田蛇笏に兄事し俳句を学ぶ。早稲田吟社にも一時参加。後に早大を中退し帰郷。
帰郷後の一碧楼は守旧的な『国民俳壇』の句風よりも、新傾向俳句運動を展開する河東碧梧桐の『日本俳句』に傾倒。1908年(明治41年)から日本俳句に投句を始める。1909年(明治42年)城崎温泉に碧梧桐を尋ね15日間にわたり師弟は俳句を作り続ける。この際、碧梧桐より「半ば自覚せぬ天才の煥発である」と評される。
1910年(明治43年)兵庫県飾磨郡(現・兵庫県姫路市)で素麺問屋を営む濱田家の婿養子となる。碧梧桐の弟子ではあったが碧梧桐が荻原井泉水らと出版する俳誌『層雲』には参加せず、『自選俳句』を郷里にて出版。翌1911年(明治44年)には再び早稲田大学文科に入学する。この年『試作』を創刊して一時碧梧桐から遠ざかった。のち1912年(大正元年)早大を再び中退し帰郷。新聞『日本』俳句欄に投句。新傾向の作家として頭角を表す。
1915年(大正4年)碧梧桐を主宰として俳誌『海紅(かいこう)』を創刊。層雲と並び自由律俳句の中心誌となる。のち碧梧桐が海紅を去り一碧楼が主宰者となる。また、『朝日俳壇』選者もつとめた。
第二次大戦の終戦間もない1946年(昭和21年)大晦日、59歳でその生涯を閉じた。
『』
《参考文献 [編集]》
瓜生敏一/著 『中塚一碧楼-俳句と恋に賭けた前半生』 桜楓社 1986年
森脇正之/編 『俳人中塚一碧楼』 倉敷文庫刊行会 1980年
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
http://www.nnh.to/12/30.html
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
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12月31日(月)
※No.1149※
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※今日の記念日※
■ 大晦日→大つごもり・大三十日(おおにそか)。
1年の最後の日を「大晦日〔おおみそか〕」または「大晦〔おおつごもり〕」とも呼びます。
「晦日〔みそか〕」とは毎月の末日のことです。
一方「晦〔つごもり〕」とは、“月が隠れる日”すなわち「月隠〔つきごもり〕」が訛ったもので、どちらも毎月の末日を指します。
“1年の最後の特別な末日”を表すため、末日を表す2つの言葉のそれぞれ「大」を付けて「大晦日」「大晦」と言います。
■ 除夜。
大晦日の夜のこと。
かつては一年の神「歳神」を迎えるために朝まで眠らずに過ごす習慣があった。
除夜には各家庭で年越し蕎麦が食べられ、寺では除夜の鐘が撞かれる。
除夜の鐘は108回撞かれる。
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根のそれぞれに苦楽・不苦・不楽があって18類、この18類それぞれに浄・染があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、これは人間の煩悩の数を表すとされている。
また、月の数12、二十四節気の数24、七十二候の数72を足した数が108となり、1年間を表しているとの説もある。
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
http://www.nnh.to/12/30.html
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※今朝の俳句※
山国の炉火あかあかと大晦日
滝沢伊代次
感慨も悔恨もなく大晦日
塩川 雄三
行く年やわれにもひとり女弟子
富田 木歩
■ 一碧楼忌。
俳人・中塚一碧楼[なかつかいっぺきろう]の1946(昭和21)年の忌日。
岡山県浅口郡玉島町(現・岡山県倉敷市玉島勇崎)の旧家で製塩業等を営む実業家・中塚銀太の四男に生れる。
1900年(明治33年)岡山中学(現・岡山県立岡山朝日高校)入学。1906年(明治39年)中学卒業の年に洗礼を受けクリスチャンとなる。翌、1907年(明治40年)早稲田大学商科に入学する。大学時代は飯田蛇笏に兄事し俳句を学ぶ。早稲田吟社にも一時参加。後に早大を中退し帰郷。
帰郷後の一碧楼は守旧的な『国民俳壇』の句風よりも、新傾向俳句運動を展開する河東碧梧桐の『日本俳句』に傾倒。1908年(明治41年)から日本俳句に投句を始める。1909年(明治42年)城崎温泉に碧梧桐を尋ね15日間にわたり師弟は俳句を作り続ける。この際、碧梧桐より「半ば自覚せぬ天才の煥発である」と評される。
1910年(明治43年)兵庫県飾磨郡(現・兵庫県姫路市)で素麺問屋を営む濱田家の婿養子となる。碧梧桐の弟子ではあったが碧梧桐が荻原井泉水らと出版する俳誌『層雲』には参加せず、『自選俳句』を郷里にて出版。翌1911年(明治44年)には再び早稲田大学文科に入学する。この年『試作』を創刊して一時碧梧桐から遠ざかった。のち1912年(大正元年)早大を再び中退し帰郷。新聞『日本』俳句欄に投句。新傾向の作家として頭角を表す。
1915年(大正4年)碧梧桐を主宰として俳誌『海紅(かいこう)』を創刊。層雲と並び自由律俳句の中心誌となる。のち碧梧桐が海紅を去り一碧楼が主宰者となる。また、『朝日俳壇』選者もつとめた。
第二次大戦の終戦間もない1946年(昭和21年)大晦日、59歳でその生涯を閉じた。
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《参考文献 [編集]》
瓜生敏一/著 『中塚一碧楼-俳句と恋に賭けた前半生』 桜楓社 1986年
森脇正之/編 『俳人中塚一碧楼』 倉敷文庫刊行会 1980年
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
http://www.nnh.to/12/30.html
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
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