工房八重の部屋

京都の紹介、日々の出来事や思いを綴ってます

本能寺はビルの谷間にあり、広大な敷き地に末寺92もあった面影は無い!

2011年02月06日 | Weblog
大河ドラマで、本能寺の変が、放送されるので、青春時代の思い出深い、本能寺に、

40数年振りに、行ってみました。

市役所前の御池通に面して、若き頃、洋裁を勉強した、藤川学園の校舎はまだありました。

校舎の裏が、本能寺で、いつも境内を、教室の窓から、眺めたりしたものです!

織田信長は、日承に帰依して、本能寺を上洛中の宿所としていたが、1582年6月21日

(天正10年6月2日)、信長が明智光秀率いる軍勢に包囲され、自刃する事件が起き

(本能寺の変)、その際、堂宇を焼失しました。

1587年(天正15年)豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へと、移転されて、

5年後には伽藍も再建され、現在の御池通と、京都市役所を含む、広大な敷地がありました。

江戸時代には、末寺92を数える大寺院になっていた。 という本能寺ですが、現在は

境内は、ビルの谷間にあり、塔頭は七寺のみです。

七寺の塔頭の後は、墓になっていて、千坪は越えているくらいの広い墓地は、ビルの中の墓地

で、ビルと墓との、ミスマッチの、ビックリするような光景でした。

信長の遺体は、発見されなかったので、全国に墓があると、大徳寺の総見院の信長一族の墓

にお参りした際に、聞いていましたが、本能寺には、廟とお墓がありました!

守衛さんから、色々興味深いお話を伺って、思い出深い、本能寺を、後にしました。


旧藤川学園の校舎は、本能寺文化会館になっていました。
卒業してまもなく、短大になるために、白川通に校舎を建て、移転されて、
現在は短大コースは無くなり、4年制の京都造形大学になっています。


御池通からの入口


本堂


展示会が開催されていて、信長や森蘭丸の刀や茶器が展示されていました。


七寺の塔頭が並んでいる!


境内
秀吉によって移転再建された本能寺は、現在の御池通と、京都市役所を含む、広大な敷地で、
江戸時代には、末寺92を数える大寺院になっていた。 現在は境内は、ビルの谷間にあり、
塔頭は七寺のみです。


七寺の塔頭の後は、墓になっていて、千坪は越えているくらいの、広い墓地はビルの中の墓地
で、ビルと墓との、ミスマッチの、ビックリするような光景でした。


信長廟


廟の奥には、信長の墓がありました


本能寺の変、戦没者の合祀墓


寺町通にある門


本能寺の門がある寺町商店街