デジカメぶらりぶらり

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2011-07-11 06:25:26 | Weblog
月が替わり、もう1年の折り返しである。節目の時だが、今年はおかしい。梅雨が明けないのに猛暑が襲う。節電の心構えにけんかを売るようなけしからぬ気候である。

もっとも、四季や暦は、われわれが勝手決めたこと。自然界そのものに規則正しい季節があるわけではない。時ならぬ酷暑が続くからといって、太陽を恨んでも仕方あるまい。

今年はもう一つ別の暦がある。「3.11」から始まる震災カレンダーで、あの日から重い時間が流れ始め、暮らしにのしかかっている。震災の暦は諸事、歩みがのろい。

あれから3カ月半。なお不明者が約7200人とは、どうしたことか。先が見えない原発事故の処理は、時間が逆戻りしたようである。木曜、金曜が休日で土日は仕事。そんな暦まででてきて、北陸の工場でも使われることになる。

ややこしい二つの暦だが、節電の夏を乗り切る知恵として上手に使いたいものである。慣れ親しむ暦によれば、7月1日は「氷室の日」。無病息災を願う節目の日である。

先のことになるのだろうが、震災が生んだ厄介な暦も無事に役目を終えることを念じたい。

遺産

2011-07-09 06:12:54 | Weblog
ユネスコの世界遺産にしたい宝物を、私たちも待っている。うらやみながら、奥州・平泉の登録決定に拍手を送りたい。

平泉を有名にしたのは、ご存じ源義経と松尾芭蕉。2人の力が合わさって、「夏草やつわものどもが夢の跡」の句が生まれた。知名度は抜群。だが、義経の悲劇も俳句の風流も知らない海外に価値を認めさせるには、随分骨が折れたことだろう。

今回の認定には大震災が大きな影響を与えたに違いない。被災した人たちが、争いも苦しみもない浄土の風景を誇らしく語る。光を抱いて苦難に耐える。義経を知らない外国人でも心がうたれぬはずはあるまい。

観光客が殺到する。とそろばんをはじく声がする。そんな特効薬ではないことは五箇山の合掌集落が教えてくれる。復旧、復興の励みになる、と認定の喜びが語られる。

この言葉こそ、耳を傾けたい。誰のための世界遺産か。まず地域の宝として根付くこと。観光商売はその次か、先を越されて悔しいが、平泉の認定は自分たちの宝を大切にすることを教えてくれる。

時間をかければ、輝きは増す。長丁場を覚悟の取り組みも、悪くはない。

梅雨

2011-07-07 07:50:32 | Weblog
梅雨だというのに、ゲリラ豪雨と猛暑である。アジサイをぬらしてしとしと降り続く風情は、どこにいってしまったのだろう。

四季が規則正しく巡るという「歳時記」の看板があやしくなってくる。季節の歩みは土地によって違う。地球環境がどうにかなって、四季もおかしくなったのか。

「青蛙おのれもペンキぬりたてか 芥川龍之介」という句がある。梅雨のゆううつをしばし忘れる愉快な句。もっとも、昨今の豪雨にはカエルも退散する。ペンキもすぐに乾くから、「塗り立て注意」のおかしみも薄れる。

時代によって句の味わいは変わる。別の愉快な句。「梅雨続く小錦十人いるような 坪内稔典」。巨漢力士を知る人は、ニヤリとさせられる。知らない世代には謎の句にしか映るまい。

さしずめ、賞味期限付きの名句か、うっとうしい人は、ほかにもいる。試みに、「顔も見たくない」時の人の名を「小錦」の代わりに詠んでみる。ピタリとはまりすぎて、何のおかしみも余韻もない。

首相まで居座るおかしな梅雨は、いつになったら明けるのだろう。


コメ

2011-07-05 07:43:51 | Weblog
日本のコメは、ひと夏置いたぐらいで腐るのだろうか。神社本庁が伊勢神宮から被災地支援として送られた御料米の一部を職員に配っていたという。

その理由が「梅雨のシーズンなので米がいたむ可能性があると判断した」と報じられた。「おそれもおおくも」と、時代がかった言葉は使いたくないが、伊勢神宮から預かった米を現地に届けず、一部を職員に配ったのは「おそれ」を知らぬようにさえみえる。

瑞穂(みずほ)の国、日本の原点は稲作であり、伊勢神宮は象徴である。稲は災害に遭いさえしなければ収穫は多く保存も利く。簡単に腐るようでは保存米など存在しない。それを知らないわけがない神社本庁が、何という言い訳をしたのかとの思いだ。

被災地では津波をかぶって塩害の及んだ田んぼが広がっている。どうやって塩分を除去できるのか、あるいはがれきを除くのか、今も必死の農民たちがいる。そのひとたちの苦労を思えば、仲間内で支援米「配給」などする気にはなれないはずだ。

時間の経過は日に日に被災地を思う想像力を弱くする。被災地を長く思い続ける大事さを、コメに気づかされた。

携帯

2011-07-03 07:56:27 | Weblog
「カルチャーショック」。北風抄にあった政治評論家の岩見隆夫氏の言葉である。ベテラン政治家が「大事なことはケータイで話す」と平然と言ったという。

便利な機能は人間の能力を退化させる。相手の表情を見ながら話す能力が、政治家から失われる日が近いようだ。ケータイ電話だけではない。パソコンに慣れ切った現代人の筆記能力や調べる能力も、同じ道を歩んでいる。

放送文化基金賞を受けたラジオのパーソナリティ・浜村淳さんがいる。口承伝説を記憶して「古事記」を生んだ飛鳥時代の稗田阿礼(ひえだのあれ)を記念する。「語り部賞」を受けた人である。

よく語るには良く聞くことだという。稗田阿礼は恐ろしいほどの記憶力だったという。阿礼だけの特性でなく、文字のなかった時代の人に共通した能力だったろう。文字がなければ記憶するしかない。

使わない機能は退化する。便利さに慣れたケータイ人間の想像力と言語能力は衰えて当然だ。「現代の語り部」を政治家に求めるのは酷だが、代わりにどの機能が発達するのか、考えると恐ろしい。

長生き

2011-07-01 07:16:37 | Weblog
ある仏教説話に、500年の長寿を保障された男の話がある。それだけ長生きできればうれしいに違いない。が、そうでない、250歳になったとたん、残りが半分しかなく「最期」に向かって転げ落ちる恐怖におののくという、長さの問題ではない。

250年後も1カ月後も同じだ。終わりの日が決まっていれば、その日に向かって進む1日が死の恐怖、どこかの国の首相が「最期の日」を明言しない気持ちも分からぬではない。

だれの人生にも「終わり」はある。それが、いつ来るか分からないからいい。余生が短くても長くても、最期の時を知らないから生きていける。

辞任する日を明言すればその瞬間から地獄が始まる。頂点から下り坂を見る寂しさがある。この日で終わる予定だった国会が大幅に延長される。下り坂の始まりを、単に先延ばしにするだけでは困る。

欲に限りはない。首相の延命などはもってのほかで、時計の針を逆に回すに等しい。日が沈み日は昇る。悲観することはないのだが、5年前から夏になると首相交代という「日没」を繰り返す政界が心配になる。