
昨夜、うすーい麦焼酎のお湯割りを呑んでいた。
いくら呑んでもキリが無くて、ぼーっと痛飲しているうちに、時は夜中2時を過ぎていた。
今夜、仕事場を出て歩き出すと、大つぶのポツポツとした雨が降り出した。
駅を降りても傘は無いので、濡れて帰る。
***
12月から1月にかけて、言語化しずらい事態ばかりが続く。
しかし、「生きられる幸福を何かに込めねばならぬ」と毎日思うだけで、へっぴり腰。
大瀧詠一さんについて、自分は語るだけの経験をしてきていない。
1981年「ロング・ヴァケイション」があちこちで鳴る中、とんがった当時の自分は「何がヒットアルバムだ」と、YMO・ニューウェイヴ・テクノ一辺倒。
はっぴいえんども、自分にとっては細野さんのもの。
YMOが基点となり、細野さんの源流を知る中で、体内になじんだもの。
なにせ、1981年3月21日は、YMO「BGM」の発売日。
大瀧さんの「ロング・ヴァケイション」も同じ日の発売。
元は一緒だった細野さんと大瀧さんは、こんな時代に、真逆の世界に居た。
***
「生きられる幸福を何かに込めねばならぬ」。そう思っている。
しかし、それだけではウソだろう。
大瀧さんの存在を、当時好まなかったにしろ、時代を共にした登場人物が不在になる恐怖を覚えた。
脳裡にピンク・フロイドのアルバム「狂気(ザ・ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン)」に入った「タイム」がよぎったのも事実。
もっともっとの核心は、実は怖くて言語化できないもの。
***
細野さんは、今、どんな想いをしてるのだろうか?
大瀧さんのことからよぎったのが、細野さんの心労への心配。(山下達郎さんのこともよぎったが)
それは、私には分からない。
大瀧さん・細野さん、2人の間の機微・距離感。それはお互いにしか分かりえない。
しかし、今まで音楽を聴いてきた中で、分かっていることもある。
2人の性格・「ソリ」は水と油。ゆえに、一緒に作品を創ることもまれであった。
ライバルともいえるし、お互いがお互いを意識して、共にセッションすることを忌避していたのは、目に見えている。
***
私に映るのは、大瀧さんは趣味人。別段、音楽を創らなくても苦悶することはない。
細野さんも音楽に対して趣味人である。
しかしながら、様々な葛藤と取り組み、大きなヤマをいくつも超えてきた。
細野さんの作品には、いつも、その時点・その時点でぶち当たってしまった事態に対しての、徹夜含む濃密な時間を掛けて作り出された集積体が有る。
それを私は聴いて愉しみながらも、痛々しさも感じてきた。共に生きてきた。
それを細野さんは望んでいた訳では無い。乗った船は、実に困難なる道のりであり、それを越えるために、また新しい地に向かう、という旅路の連続。
やっと細野さんが思うような、フラットで自由で楽しい音楽演奏に辿り着いたのは、この10年。
***
音楽の神様・細野さんの「いま」を、一緒に共有できる幸福。
近時のライヴ、作品「ヘヴンリー・ミュージック」、そして、FM番組「デイジー・ホリデー」。
特に細野さんの家に居るような気持ちで耳を傾ける、くつろいだ空間である「デイジー・ホリデー」は格別である。
だが、それも一応は、おおやけに開かれた番組ラジオ。
そこで、大瀧さんのことを語らずには済ませられない。それを細野さんに要求するのは酷であるのに。
そんな折、何も語らずにはいられないので。。。と、「デイジー・ホリデー」で大瀧さんのことについて、細野さんは語り出した。
初めて大瀧さんに出会った頃のことから始まり。
放送で知ったのは、2013年11月に大瀧さんに取材に行かれる方に、ことづてで細野さんは「ソロアルバムを創って欲しい。そこには全面的に手伝うよ。」
それに対して、大瀧さんが取材の方に返した言葉は「それは、細野流のあいさつだよ。」真意は別のことかもしれないが。
ここで分かるのは、昔も今も、2人がじかに会う、というには、合い間と距離があるということ。
よく年賀状に「また逢いましょうね」「どうしてる?」とはあれども、だからといって会うことは無いのだな。。。という関係性を思わせる。
結果的に大瀧さんと細野さんが再び時間をおいて、新しい何かを創る機会は無かった。
「ロング・ヴァケイション」の、あのジャケット、あの極楽な世界には惹かれていた。
しかし、当時の私の中では否定せざるを得なかった。そういうめぐり合わせというのは、音楽にはあるのだ。
***
ムーンライダーズ、はっぴいえんど、と続いて。
昨夜、突然、佐久間正英さんまでもが亡くなってしまったことを知り、「痛い」とそれから数分。目を開けられなかった。
なんともむごい。
オリジナルのプラスチックスさえもが成立しなくなってしまった。
頼むから、もうこれ以上、勘弁願いたい。天よ、どうかご加護を。
■ポール・ハードキャッスル 「レインフォレスト」1984■