こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年3月31日 火曜日 「1982年1~2月の断片」5

2015-03-31 22:28:47 | 音楽帳
エレヴェーターを出ると、トーキングヘッズが、フル・ヴォリュウムで、私を打ちのめした。
メイドが何か言ったが、何を言っているのか、まるで聞こえなかった。私も何か言ったが、私自身、何を言っているのかよく聞こえなかった。私がポケットから探偵免許を出して、彼女に翳(かざ)した。

それを持って、彼女が奥へ消えた。
ステレオの音がやっと止まった。


こんな朗読が深夜23時を回り、午前0時を指す間際にラジオから流れていた。
矢作俊彦がシナリオを書いた「マンハッタン・オプ」の一節。
当時、FM東京の15分番組で、ハードボイルド小説のラジオドラマとして月曜日から金曜日まで放送されていた。

こういった小説の中に出るくらい、トーキングヘッズは(康夫ちゃんの「なんとなくクリスタル」ではないが)使われるアイテムだった。康夫ちゃんと並べるのはいかがか?と思うが、場を表現する一つのアイテムであった。
元々、この小説はニューヨークはマンハッタンを舞台としているので、トーキングヘッズが欠かせないアイテムだったが、ただの”ふぁっしょん”じゃなかった。

イラストレーターの吉田カツさんは、ニューヨークをよく描いていたが、彼の話しを聞いてうなづいたのが、スラム街を歩いていると道端で鳴るラジカセからトーキングヘッズが掛かり、黒人が踊り狂っているというシーン。
こういった話しはほかの人の話しにもよく出てきており、当時のトーキングヘッズがどのような「イカす」存在だったかが現実に分かったものである。ニューヨーク文化の一端を彼らはになっていた。

ヘッズヘッズと盛んに言っているが、その作品は当然「リメイン・イン・ライト」のことである。
1980年、歴史的レコードとライヴ。

■トーキングヘッズ 「シティーズ」1980ライヴ■

1981~1982年への流れの中で、YMO3人が分裂をあらわにしていくように、トーキングヘッズも個々の活動に入っていく。
デヴィッド・バーンはトワイラ・サープの舞台音楽に入り込み、ジェリー・ハリスンは「赤と黒」というソロアルバムを出す。そして。。。ゆくゆく結婚するクリス・フランツとティナ・ウェイマスは”トム・トム・クラブ”というユニットを結成する。

トム・トム・クラブは、ウェイマスと姉妹の3人の女性を中心としたかわいらしいユニット。
そのヒットシングル「おしゃべり魔女」を初めて聴いてエアチェックしたのは、1981年12月~1982年1月のこと。ラップとテクノやファンクが合体したこのヒット曲は、(「リメイン・・・」における)トーキングヘッズ的であり、ダンスミュージックとしてもすぐれたもので、未だ多くの人に聴かれている。

トム・トム・クラブは、実質2枚のアルバムを発表した。
すぐれた曲も「んんん~」と琴線には触れない曲もあったが、未だによく聴く曲があり、mp3プレイヤーから時折顔を出す。

キング・クリムソン、ピンク・フロイド等々聴き込み、どっぷり暗黒世界に入り過ぎたときには、サーモスタットとしてこういう音楽を聴く。
あまり苦悩ばかり抱えていると、眉間のシワもよりひどくなる一方なので、緩和剤としている。

■トム・トム・クラブ 「悪魔のラヴソング」1981年12月■












コメント (4)
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