こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年3月21日 土曜日 「春分の日」

2015-03-21 23:59:15 | 写真日和

師走に「一年は早いですねえ」という常套句を”あいそ”で必ず使う者ほど信用ならない人はいないが、それは別として、個人の体内感覚として、今年の月日の速さは異常である。
もう3月が終わろうとしている。

つぼみはふくらんでいたのだが、やっと近所のもくれんもきれいな花を開いた。赤紫と白。
梅は場所によっては、こないだの雨で散っているけど、種類によってはこれからが本番という樹も多い。



昨夜帰宅が0時を回った。好きなインパルスのコントを暗闇で見て明け方になって眠りに堕ちた。
いざ目覚めると、一週間の溜まった疲れが押し寄せて立ち上がれない。
朝、TBSラジオで堀尾さん&長峰さんの放送を掛けながら横になってお茶を飲みウトウト。
次に目覚めると、永さん&外山さんのラジオになっている。

悶々と寝たり起きたり苦しんでいるうちに昼。
不調感から脱せられず、そのまま久米さんの「ラジオなんですけど」に突入。
ごはんを食べて、お風呂に入り、外にやっと出られたのは15時。
外は春特有のぼんやりした陽気。不明瞭で調子狂う。最近またもや現れ出した離人感覚の一部はこの陽気のせい。

カメラを持って歩き出すが、いまいち精神がドライヴしない。
バスを使いつつ街を歩くが、色も風景もぼんやり濁っている。歩いているうち、腰痛がひどくなり歩けなくなる。





夕方、店員さんの真面目さが好きでよく入る古本屋さん。二冊買う。

読みたいと思いつつ見送ったものをメモする。ドストエフスキー、河合隼雄、田辺聖子、宮台真司、小林弘幸、”ぶたぶたの本屋さん”、アッコちゃん、丸尾末広、寺山修司。

池田清彦さんという方と、本を通じて初めて出会う。構造主義生物学の路を歩く教授。
お店で本を選ぶとき、ぱらぱらとめくったページの文章に、今日買うべきと判断した一節。

ごく一部、本のイントロ。
「小学生の頃、夜中にふと目が醒めて、やがて自分も死んでしまうんだと思ったら、恐ろしくて涙が出てきた経験をおもちの方は案外多いのではないだろうか。案外どころではなく、この国では一度としてそういう経験をしなかった人の方がむしろ稀かもしれない。大人になって日常の様々な雑事にまぎれているうち、人はだんだん純粋な死の恐怖を忘れてくる。いや、そういう言い方は正確ではないな。正確には忘れたフリをするようになると言うべきか。
五十歳を過ぎても、純粋に死ぬのがこわいと言い切れる哲学者の中島義道のような素直な人は別格として、多くの人は、死ぬのがこわいと口にするのは何となくはばかられるような気持ちになってくる。社会というのは純粋な恐怖と純粋な欲望を隠蔽する装置であるから・・・」

自分の中で、この数年よみがえってきた事柄とリンクする。
今、半隠遁できているのも含め、影響を受けた中島義道さんを引き合いに出していることも、この本を手に取った理由の一つ。







歩き出したときはコートも暑いくらいだったのが、夕方からは着てきてよかったという具合の冷え込みになる。

■The pop group 「We are all prostitutes」1980■

おれたちは娼婦だ
あらゆる人に値段がついてる

おれたちはみんな娼婦
みんな値札をぶら下げている

生き延びるために、いつわりを学ぼうとする
侵略 競争 野望 消費者ファシズム

資本主義は、地上で最も野蛮な宗教
デパートはわれわれの時代の大聖堂
自動車の大群もその大義に殉じる殉教者

子供たちはおれたちに反抗し、立ち上がるだろう
なぜなら、おれたちは責められるべき者
なぜなら、罪があるのは、おれたち一人一人だから

かれらはおれたちに新しい名前をさずけるだろう
おれらの名前は、偽善者・偽善者・偽善者


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2015年3月20日 金曜日深夜 音楽備忘録:イーノへの想い

2015-03-21 01:03:11 | 音楽帳

ブライアン・イーノの「アナザー・グリーン・ワールド」を、先週末から聴いている。
久しぶりに聴く作品だが、相変わらずの「天上の音楽」ぶりで、時を越えた素晴らしさを覚えた。
14~15歳に、イーノに出会った時から何も変わっていない。

この作品に出会ったのも、1981年から1982年への流れの中でのこと。
1981年秋に親父からの指令で、兄が弟である自分に勉強を教える、という夜を過ごしていたが、深夜のつくえ・灯りの下を囲んで、お互いの反目するわだかまりが溶け、次第に音楽の話しばかりをする夜となっていった。
そこで当時イーノに興味を抱いていた自分に兄が貸してくれたのが、「アナザー・グリーン・ワールド」「ロウ」「ヒーローズ」といったLPレコードだったり、「リメイン・イン・ライト」「ブッシュ・オブ・ゴースツ」「ビフォア&アフター・サイエンス」のカセットテープだったりした。

「アナザー・グリーン・ワールド」は小品集とでもいおうか、短い曲がたくさん入った作品。それら一曲一曲が、すべてイーノにしか出来ないアイデアを凝縮した実験の産物であり、作品の時代は逆だが、教授の「音楽図鑑」みたいである。

***

よく実験音楽という言葉を使うと、まるでそれは楽器が持つ機能の披露発表会だったり、実験過程そのものを楽しむというものが多いのだが、イーノにとっての「実験」は意味が異なる。

オルタナティヴ・ワールド、異界に入り込むために、さまざまな実験道具を作り・用いて、イメージに描いた音楽に辿り着くための慎重なセッティングをスタジオで行う。その過程を経て、偶発性・予測外の出来事というチカラを引き込みながら、自分以外の要素とまじわった経過が音となっていく。
その1つは、テープレコーダーの研究から作ったテープループやそこにエコーやリヴァーヴといったエフェクターを絡めて自動生成される音楽。これが一番最初にアンビエント作品となった「ディスクリート・ミュージック」へと結実した。
それは、エリック・サティが夢見て創った“ナイフとフォークと混じりあうようなドリーミーな音楽”を想起させるもの。

住む環境や文化がいくら異なろうとも、音に込められたスピリッツは、意思として伝わってくる。音楽というものはそのようなもの。
イーノとの出会いは、同じような想いを抱いて生きている/生きてきた方々との邂逅の場と回路を開いてくれた。

「アナザー・グリーン・ワールド」におけるイーノが神がかり的なのは、顕微鏡を覗くように細かく聴けば多重構造で同じフレーズが演奏されているのだけど、まったく「実験」という感覚からは遠く、有機的な「音楽」に昇華されているので、そういった機械的なものを感じないところ。
「樹」を見て、さらに「森」までも見てますよ、ということがよく分かる。
構成部品のちぐはぐさを残さずに、一つの有機的整合性が保たれた、永久に劣化しない音楽。

A面、B面、それぞれ完璧なまでに曲順構成が考えつくされており、見事な配列となっている。大きな川の流れのようにストーリーがあり、頭脳で作られたものではない自然さがある。

「アナザー・グリーン・ワールド」には数曲、イーノ自らが歌うヴォーカル曲も入っている。イーノのヴォーカルは決して「うまい/ヘタ」というたぐいのものでは無いけども、素朴な味わいがある。
イーノの音楽に時折見られる素朴さは、歌謡曲・流行歌を知らずに育った坂本龍一の「左うでの夢」などに顔を出す素朴さにもよく似ていて味わいあるもの。
イーノが持つ牧歌的な側面、生地(せいち)のフォークロアの匂いがする。

イーノはインテリなのだが、知的なものを度外視したところで音は穏やかに鳴っており、優しさや温かみまである。

■Brian Eno 「Everything Merges With The Night」1975■











ロザリー 一晩中あなたを待っていた
いや、いつからかはっきりとはし得ぬ程

何年もの夜を過ごしたことだろう
過ぎてゆく時を数えながら すべては夜の中に融けてゆく

私は海辺に立ちつくしていた
これまで出会った人々の違いを 思い出そうとして成さずに

あの去年の9月より前に起こったことを 私は何一つ思い出せない

火山の麓のサンティアゴは
海に浮かぶクッションのように漂って

未だにそこでは私は眠ったことが無いものの すべては夜の雷鳴だ


ロザリー
私達はあの夏をずっと語り過ごした

服についた麦藁を互いに取りあっては
ごらん、そよぐ風は 何とやわらいできたことだろう

すべてはあの夜に途切れてしまった
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