こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年3月4日 水曜日 音楽備忘録:ガムラン 1980-1982 その3

2015-03-04 23:59:35 | 音楽帳
今夜の月と梅
*たにんにはどーでもよいであろう(でよいのか)余談*
かがみを見るたびに「おいおい」となることが多い。
2013年夏以降から年末にかけて、母親が死の淵まで行く事態になり、私から視える周囲の風景が一変して見えるようになった。
「おいおい」と我に帰ったのはこのとき以降の心身状態。

昨年2014年は、睡眠導入剤を絶つことが出来た。元は町医者で10種類のヤクを投入され肝臓を壊すに至ってからの再生作業も、2mg1種類、一日一錠にという今。

昨年2014年から次第に現れ始めたのが、白髪だったり・激しい眼痛だったり・眉間の消えないシワだったり。こういうと何であるが、いくらつらいことがあっても我慢・辛抱だけは取り柄で、あまり歳を気にしないで生きてきたので、今になって「おいおい」となる。

年末から白髪は少し異様なほど加速度を増して、ヒゲなどに出てくる。成長激しい。
眼はすっかり”ローガンズ”で、スキッとする目薬は日常かかせない。

シワはある日、かがみで「なんでこんな場所に黒ずんだ煤(すす)が付いているんだ」とタオルで拭くが消えない。そこから数日後、やっとそれがシワなんだと気付く。
産んでくれた親のおかげで、皮膚だけはつるつるで生きてこれた。女性にうらやましいと言われることが多かったが、そういうものかと唖然とし、言葉を呑み込む。

心は『その程度、生きられることに比べれば』と言うが、それはそれで唸る。

救いと言えば、腫瘍が肥大化し悪性の疑いもあったが、MRI結果で「たぶん」と前置きをされたうえで「悪性とは思えない」という診断が下り、肥大化も一定レベルでとどまっていることから、いったん手術は保留となっている。小康状態というもの。

思い込みとしては、2013年後半日々切迫した状況の疲れが、2014年以降におっかぶさっているだろう、と勝手に解釈している。
それでも、それらは些細なことなんだろう。長年付き合えた仲間に囲まれて、今は私利私欲から解脱し合った者同士・良い距離を保ちながら、そういった人と経済合理性とは別のまじわりをしながら生きていられる。そのありがたさを「人事(じんじ)=ヒトゴト」という雨風の吹く中思う夜である。

*本題*
1980年ワールドツアーの反動と逆襲が、1981年「BGM」「テクノデリック」という2枚の作品に結実したYMO3人。
YMO破壊活動の最終幕としての「YMOウィンターライヴ1981」で、それまでのイエロー・マジックを当事者はこなごなにまですべてをぶち壊した。

明けた1982年は、YMOという名前はあれども、それぞれのソロ活動に入る。
3人それぞれの対立があって、この1982年にYMOは解散を決定される。

1982年春、私は寿司詰め山手線に毎朝揺られ・大塚駅で降り、駅前風俗街を抜けてばりばりの男子校に通い始めた。そんな春に「YENレーベル発足」を知る。
ここで細野さん&幸宏さん/教授という分裂が目に見える形で現れた。

アルファレコードからのごほうびとして、細野さんは自由に使えるLDKスタジオと自分のレーベル「YEN」を手に入れる。
そのレーベルから怒涛のような初回作品が発売されたのは、5月のこと。

細野さんの「はらいそ」以来の作品『フィルハーモニー』、ゲルニカの『改造への躍動』(細野さんプロデュース)、幸宏さんの『ボク、大丈夫。』、(立花)ハジメちゃんの初ソロ『H』(幸宏さんプロデュース)等々。。。

細野さんのフィルハーモニーは、やはり”民族音楽-現代音楽-リピートミュージック”という軌道上で創られた。制作途中で届いたサンプリングマシン「イミュレーター」と名機プロフィット5のみで制作されたという。
当たり前、に満足しない求道師・細野さんは、またもや大衆受けをしない音に踏み込んでいく。音楽雑誌には理解されず、セールスも度外視された世界。

当時夢中だったフィリップ・グラス、スティーヴ・ライヒ、マイケル・ナイマンなど「ミニマル・ミュージック」の要素と、それまでつちかってきた土地土地の民族音楽・エスニックな音楽が、この作品では細野さん流に調理されている。
そんな『フィルハーモニー』のA面3曲目にガムランが登場する。

曲は「ホタル~ルミネッセント」。この曲名はドラマ「北の国から」の蛍ちゃん(中島朋子)をイメージして付けたものだという。

(今夜は時間切れ)






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