こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2012年11月3日 土曜日 ジョイ・ディヴィジョン 「クローサー」

2012-11-03 19:09:37 | 音楽帳


寺山修司さんの本に、彼が好きだった言葉を集めたものがあった。
今、ゴミ屋敷のどこかにまぎれてしまったが。

外国の誰かのセリフ。
戦争下や法律においてすら、芸術家はその外側に置いてくれ、といった内容のコトバだった。

音楽で言えば、基本、音楽と音楽家は関係が無い。
わかりやすく言えば、音楽家の人間性と創られた音楽を一緒にするな、ということ。

今はおとなしくなった坂本龍一が、どーしようもなく女好きで険悪な性格であったが(自分も同じだが)、それでも自分は彼の創った音楽は後世に残るものだと考えるし、
その音楽側からの視点で、今でも自分は坂本龍一が好きであるし、愛している。

***

よく善人とか悪人という区分けがあるが、人間そのものの根源が偶然産まれた不具の生命体。
源流を見れば、善人も悪人もない。
極論だが、そう考えるときも多い。
あくまで人間界の中で、という狭義世界で言えば、明らかなる悪人は存在しうるが、じゃあ善人は?
といえば、複雑めいているし、関係性の中での認識次第という状況次第なのだろう。
産まれる時代を間違った人も多いが、それはそうとて、産まれた/というかこの世に放り出されたからには、生きねばなるまい。

***

かつて80年代の終わりに、80年代の代表アルバム10枚なるものが、ミュージックマガジンで掲載されてあきれた。
やはり、ここにもジョイ・ディヴィジョンの「クローサー」が選ばれていた。

死んだ人を痛む気持ちと、音楽を音楽として捉える行為は別物である。
B面最後の2曲以外は特段なんてことはないアルバム。
80年代の10枚なんて冗談じゃない。

誰かさんのように、激しく生きて夭折すれば、英雄になれるとでも思う思考に対する嫌悪が、自分は去らない。

***

最近、ミニレコーダーで外で音楽を聴くように再びなった自分。
ずーっと嫌悪に包まれていたジョイ・ディヴィジョンの「クローサー」が、中に入ったアルバムのめぐり合わせで偶然出てきた。
しばらくぶりに聴く「クローサー」は、なかなか良く、繰り返し聴いた。

このアルバムを永遠に葬ろうとしていた自分が、これだけの回数を聴いたのは、発表後初めてのこと。
だからと言って、ジョイ・ディヴィジョンが特別優れた音楽を創っていたとは思わない。
さまざまな優れた音楽がある中での、興味の一端に過ぎない。
たぶん、電車や社会の雑踏の中で聴いている、というものが1つ大きく影響しているとは思うが。

「彼」の死も時代性も社会からも隔絶され、マスメディアに接する時間を減らし・追いかけずに遠くのモノとして見やる生活に居る2012年。
今、この地点で聴いた「クローサー」は悪くないな、と思った。

死のうが、ドラッグをやろうが、病気であろうが。。。
人から分離された音楽そのものを、耳を傾けて聴くのみ。
おのれの体内で聴くのみ。

■Joy Division 「Heart & Soul」■
コメント (1)
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