テクノ~ニューウェイブ命の自分にとって、いわゆる「ロック」と呼ばれるものがキライで、当時のジョン・ライドンではないが「ロックで無ければ何でもいい」という位、「ロック」というスタイルに対する生理的嫌悪感は強烈にあった。
ギターをかきならす・ドラムを汗かいて「とにかく・思い切り」叩く。
などという行為・行動そのものだけで、既に瞬間的に拒否反応を起こした。
そういった身体運動を「素直に出すこと」に対する形式的音楽への不信感は、少年の私の中では大きかった。
当時の私にとって「ロック」とは旧態依然の極めて古くさいありきたりの形式パターンにのりながら、【あたかも戦闘的なふりをした欺瞞に満ちたオンガク】であった。
<しかし80年代自体が行き詰まりと閉塞感を抱えた「ビョーキ」の季節だったが・・。>
わたしは友人や世間から、へンなオンガクを聞く辺境の人という被差別人種とされながらも、自分の趣味嗜好の突き進む地点を信じてやまなかった。
より差別化され、より新しく・より未開の地を探し、不安な未来に転がっていく、ニューウェイブが信じられた。そんな信じる彼らに傾倒していった。
またそれは私の上の世代、旧世代への謀反・「共生」の絶対的拒否を意味していた。
わたしには6つ離れた兄がいたが、その兄へのコンプレックスがその裏には無意識にあった。
より現在から遠く、よりアバンギャルドな地平へ、とひたすら突き進む意識。
強迫観念にかられて、意識は無理をしていた。
ポップスへの拒否ではなく、あくまで「ロック」への断固とした拒否であった。
同世代ではあるが、電気グルーヴのそれぞれが「当時、何がヒットしていたのかわからない」といいピエールさんがヒット曲で持っているレコードは一風堂の「すみれセプテンバーラブ」しかないという。
わたしは、静岡にいた彼らのように、正直そこまで情報を隔絶出来る状況にもいなかったし、赤坂の小学校・中学校に通う自分は、通りを歩くオモテ舞台の音楽もそれはそれで知ってはいたが、その中に自分の嗜好との接点をもてる音を見いだすことが出来ずにモンモンとシャバで生きていた。
現実に埋没した自分を別世界にいざなう事が音楽とするならば、なぜ「ロック」はその嫌悪すべき現実をなぜかえすような所にとどまろうとするのか?
私には理解出来なかったし、それらが売れるメジャーだからということであることないこと言いながら、そういうガラクタ音楽を支援する方向荷担する音楽関係者に対してふざけるなという怒りは大きかった。当時の業界のあり方は、マーケット規模の小ささから、そのあり方はやむを得なかったのかもしれないが。
今では考えられないが、YMOが出て以降、シンセ自体使うだけで冷たい音楽、生きていない、躍動感が無い、末には悪魔の音楽のごとき表現をするやつがいた。
わたしはマニアックなので、雑誌なども資料としてとって保管しているが、どんなヤツ、どんな評論家がどんなとんでもないことを言っていたか今でもわかるし、明らかに日の下にさらすことだって出来る。当時の被差別少年の恨みは消えない。3つ子の魂100まで、この恨みはらさでおくべきかだ。
中学1年生~3年生の自分は暗い生活ながら、転がっていくよりアヴァンギャルドな地平を見ていた。それは未来だったかもしれない。細野さんの本にある「地平線の階段」が当時の自分には見えたんだ。
25年前の当時の少年の私に聞くと、彼は吐き捨てるように答えた。
「ロックよ。黙って静かに死ねさらせ!」と。
今もその魂は自分の中にある。
ギターをかきならす・ドラムを汗かいて「とにかく・思い切り」叩く。
などという行為・行動そのものだけで、既に瞬間的に拒否反応を起こした。
そういった身体運動を「素直に出すこと」に対する形式的音楽への不信感は、少年の私の中では大きかった。
当時の私にとって「ロック」とは旧態依然の極めて古くさいありきたりの形式パターンにのりながら、【あたかも戦闘的なふりをした欺瞞に満ちたオンガク】であった。
<しかし80年代自体が行き詰まりと閉塞感を抱えた「ビョーキ」の季節だったが・・。>
わたしは友人や世間から、へンなオンガクを聞く辺境の人という被差別人種とされながらも、自分の趣味嗜好の突き進む地点を信じてやまなかった。
より差別化され、より新しく・より未開の地を探し、不安な未来に転がっていく、ニューウェイブが信じられた。そんな信じる彼らに傾倒していった。
またそれは私の上の世代、旧世代への謀反・「共生」の絶対的拒否を意味していた。
わたしには6つ離れた兄がいたが、その兄へのコンプレックスがその裏には無意識にあった。
より現在から遠く、よりアバンギャルドな地平へ、とひたすら突き進む意識。
強迫観念にかられて、意識は無理をしていた。
ポップスへの拒否ではなく、あくまで「ロック」への断固とした拒否であった。
同世代ではあるが、電気グルーヴのそれぞれが「当時、何がヒットしていたのかわからない」といいピエールさんがヒット曲で持っているレコードは一風堂の「すみれセプテンバーラブ」しかないという。
わたしは、静岡にいた彼らのように、正直そこまで情報を隔絶出来る状況にもいなかったし、赤坂の小学校・中学校に通う自分は、通りを歩くオモテ舞台の音楽もそれはそれで知ってはいたが、その中に自分の嗜好との接点をもてる音を見いだすことが出来ずにモンモンとシャバで生きていた。
現実に埋没した自分を別世界にいざなう事が音楽とするならば、なぜ「ロック」はその嫌悪すべき現実をなぜかえすような所にとどまろうとするのか?
私には理解出来なかったし、それらが売れるメジャーだからということであることないこと言いながら、そういうガラクタ音楽を支援する方向荷担する音楽関係者に対してふざけるなという怒りは大きかった。当時の業界のあり方は、マーケット規模の小ささから、そのあり方はやむを得なかったのかもしれないが。
今では考えられないが、YMOが出て以降、シンセ自体使うだけで冷たい音楽、生きていない、躍動感が無い、末には悪魔の音楽のごとき表現をするやつがいた。
わたしはマニアックなので、雑誌なども資料としてとって保管しているが、どんなヤツ、どんな評論家がどんなとんでもないことを言っていたか今でもわかるし、明らかに日の下にさらすことだって出来る。当時の被差別少年の恨みは消えない。3つ子の魂100まで、この恨みはらさでおくべきかだ。
中学1年生~3年生の自分は暗い生活ながら、転がっていくよりアヴァンギャルドな地平を見ていた。それは未来だったかもしれない。細野さんの本にある「地平線の階段」が当時の自分には見えたんだ。
25年前の当時の少年の私に聞くと、彼は吐き捨てるように答えた。
「ロックよ。黙って静かに死ねさらせ!」と。
今もその魂は自分の中にある。