京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

信貴山朝護孫子寺 聖徳太子御遺跡⑫

2021年07月07日 07時36分00秒 | 日記
 愛染堂勝鬘院を後に次に信貴山にある朝護孫子寺へとやって来ました。
国宝「朝護孫子寺絵伝」を所蔵されている事で有名です。



聖徳太子が物部守屋との戦いの前にこちらに来られ戦勝祈願をされました。
その時に毘沙門天王が現れ必勝の秘法を伝授され太子は見事に勝利されました。
その日は奇しくも寅の歳、寅の日、寅の刻でありました。

朝護孫子寺は醍醐天皇の病気平癒のために勅命により命運上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をされたところ、たちまちの内に平癒されたそうです。



先ずは開山堂へお祀りします。
江戸時代享保17年(1722)の建立で信貴山の開祖聖徳太子、真言宗宗祖弘法大師空海、中興開山命運上人と四国八十八ヶ所霊場のご本尊さまをお祀りしています。









ご覧の通り内部は須弥壇の岩座にそれぞれのご本尊さまがおられ、天井にも、それぞれのご本尊さまのご利益が溢れるかのように雲がたなびいています。



朝護孫子寺のシンボル的存在の「大寅」です。
「世界一の福寅」で首は電動で動くようになっています。





開祖の聖徳太子御像です。
太子の愛馬は"黒駒"ですが、こちらの像は白馬に騎乗されています。





本堂への途中には多くの子院があり宿坊も兼ねておられるお寺も多いです。





ご本尊の毘沙門天王は秘仏で毎年7月1日から5日までの五日間のみご開帳されます。



外陣からでは単眼鏡を通してもよく見えません。
内示まで入れる護符を頂き毘沙門天王の目の前でお詣りさせて頂きました。


(飛鳥園の写真から)

左脇侍には奥様の吉祥天が、右脇侍にはご子様の膳賦師童子がお祀りされていました。







信貴山の山頂が近いだけに風光明媚な風景です。

最後に霊宝館を見学します。









平安時代末期の絵巻物「信貴山縁起絵巻」(国宝)です。
霊宝館に展示されているのは複製品でオリジナルは奈良博に寄託されています。



御朱印を授与して頂き、次に聖徳太子の愛犬「雪丸」ゆかりの達磨寺(奈良県王寺)へと向かいます。




愛染堂勝鬘院 聖徳太子御遺跡

2021年07月06日 07時20分00秒 | 日記
 聖徳太子の御遺跡を訪ねて大阪市天王寺区にある愛染堂勝鬘院に来ました。
これで11ヶ所目になります。






地元だけに一度は訪ねていても良さそうな愛染さんですが、実は初めてお祀りします。



例年、大阪三大祭のトップを切って6月30日から7月2日の三日間開催される愛染祭ですが、今年はコロナ禍の中で規模を縮小して開催されました。(屋台や宝恵駕籠なども有りませんでした。)





徳川秀忠により再建された本堂です。

寺名からご本尊が愛染明王である事は分かりますが「勝鬘院」がその後に付くのは聖徳太子がこの場所で「勝鬘経」の経典を人々に講じられた場所に当たるからです。



もしかすると聖徳太子が推古天皇や蘇我馬子の前で講じた「勝鬘経講讃図」はこの地かもしれないですね。






ご本尊の愛染明王は秘仏で毎年の愛染明王の大縁日にあたる愛染まつりの期間(6月30〜7月2日)と新春ご開帳(1月1日〜7日)の年間10日間しかご開帳されません。

今年は聖徳太子1400年の大遠忌にあたり、また、JR西日本とのタイアップもあり6月から7月の土・日曜に特別ご開帳が行われています。







最初の多宝塔は推古天皇元年(593)に聖徳太子により建立されましたが織田信長による石山本願寺攻めの際に焼失、慶長2年(1597)に豊臣秀吉夢により再建されました。







内部には秀吉が戦勝祈願のために造像させた尊像が描かれています。(非公開)

大阪市内では最古の木造建築物で国の重要文化財に指定されています。


前日までの「愛染まつり」の後片付けの真っ最中でした。





御朱印を授与して頂き、次にご本尊の毘沙門天像がご開帳されている信貴山朝護孫子寺へと向かいます。





太秦広隆寺 聖徳太子御遺跡⑩

2021年07月05日 17時33分15秒 | 日記
 本家尾張屋さんで美味しい宝来蕎麦を頂き、京都バスで太秦広隆寺へと来ました。









今年は聖徳太子1400年大御忌の年で太子ゆかりの地を巡っていて広隆寺で10ヶ所目になります。

立派な仁王門が迎えてくれます。

広隆寺の歴史は古く、推古天皇11年(603)に建立された山城国最古の寺院であり、聖徳太子建立七大寺のひとつに数えられています。





薬師三尊を中央に弘法大師、理源大師聖宝、道昌僧都をお祀りしています。







地蔵堂です。
弘法大師が諸人安産、子孫繁栄、しいては国家繁栄の願いでご製作になられた腹帯地蔵尊です。







上宮王院太子殿です。
江戸時代の享保15年(1730)に再建されたお堂で名前の通り聖徳太子がご本尊(像高148cm)です。

歴代天皇が"即位の大礼"に御着用される香櫨染御袍(こうろぜんごほう)が即位後に下賜され、一代を通じて聖徳太子像に着せられています。
この慣わしは平安時代から現代にまで続いています。

この聖徳太子像は秘仏で毎年11月22日のみ開扉されます。



この黄櫨染を現在に復活復元されたのが嵐山で工房を持たれている染色作家の奥田祐斎さんです。



桂宮院本堂(国宝)です。(非公開)
境内の西側にあり塀で囲まれているので外部からは見えません。

法隆寺夢殿と同じく八角円堂ですが屋根は檜皮葺です。



ご本尊は聖徳太子半跏像(鎌倉時代・重文)ですが、現在は霊宝殿に移されています。



最後は霊宝殿です。





「広隆寺資材交替実録帳」(国宝)に掲載の二体ある弥勒菩薩半跏思惟像の内の「宝冠弥勒」と呼ばれれる弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)です。
赤松材の一木造で7世紀の制作とされていますが、飛鳥時代の木造仏像はほとんど例外なくクスノキ材が使われている事から朝鮮半年からの渡来仏との説が有力になっていました。

ところが昭和43年(1968)に内刳(うちぐり)の背板が赤松ではなくクスノキに似た広葉樹である事が判明し、国内制作説も有力になっているそうです。





もう一体の弥勒菩薩半跏像(国宝)です。
「広隆寺資材交替実録帳」に「在薬師仏殿之内」との記述があり「宝髻(ほうけい)弥勒」を指すとされています。



阿弥陀如来坐像(国宝)。
講堂のご本尊で像高261.5cmで説法院を結び、「資材帳」によれば承和年間840年頃の制作とされています。





不空羂索観音像(国宝)。
像高313.6cmもある大きな観音像で講堂に安置されていました。
奈良末期から平安初期の制作とされています。



千手観音立像(国宝)。
像高266cmで講堂にお祀りされていた観音さまです。
平安時代初期(9世紀)の制作です。



二躰の弥勒菩薩半跏思惟像を守護されている12躰の十二神将も全てが国宝です。

仏像が17躰、広隆寺資財交替帳及び広隆寺縁起資財帳の文書2件、桂宮殿本堂の20点もの国宝、48点の重文を所蔵されています。



なお、宝物殿内は撮影禁止なので殿内の写真はネットからの転載です。









奈良西大寺

2021年07月05日 10時04分00秒 | 日記
 奈良市にある西大寺は奈良時代天平宝字8年(764)に藤原仲麻呂の乱の平定を祈願し、また、鎮護国家の勅願によって称徳天皇により創建されたのが始まります。



記録には7尺の金銅四天王像の造立を発願されました。





広大な境内地を誇り、薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西に塔が建ち、四王堂院、十一面院など100を越える堂宇がたち並び、南都七大寺のひとつに数えられる大寺院でした。



しかし、都が平安京へと遷都すると次第に寺勢は衰えていきます。

鎌倉時代半ばに復興したのが"叡尊上人"です。
叡尊は文暦2年(1502)に入寺し、戒律振興や救貧施設などの宗教活動の拠点てして再生していきます。






境内には基壇や礎石が残り往時の繁栄が偲ばれます。



西大寺で最も有名な行事は毎年春と秋に行われる「大茶盛式」ですね。
叡尊が伽藍復興のお礼に八幡神社に献茶した余服を、民衆に振る舞った事に由来しる茶儀で以降、800年も続いている行事です。





愛染堂のご本尊秘仏愛染明王坐像(重文)です。
年に2回、1月15日〜2月4日と10月25日〜11月15日の間にご開帳されます。





文珠菩薩騎獅像です。
知恵を少しでも頂けるようにお願いしました。




聚宝館には国宝・重文を含む多くの彫刻や絵画、工芸の名品が収蔵されています。



目玉は鎌倉時代の金銅宝塔(国宝)ですね。
非常に精巧に細工され、技量の高さをかんじます。









聚宝館以外のものを胸含まれていますが、平安時代から江戸時代にかけての彫刻、絵画、工芸の名品を多數鑑賞しました。

西大寺の寺名は知っていましたが、「近鉄大和西大寺駅」は今までは"通過点の駅"や"乗継ぎの駅"のイメージが強く今まで未訪問でした。



境内に今も残る基壇や伽藍石を見ていると西大寺の往時の姿を思います。
そして、鎌倉時代に西大寺を中興された叡尊の信念を感じます。

なお、仏さまの写真は購入した絵葉書から転載しました。












太秦広隆寺 聖徳太子御遺跡⑩

2021年07月03日 20時40分25秒 | 日記
 本家尾張屋さんで美味しい宝来蕎麦を頂き、京都バスで太秦広隆寺へと来ました。









今年は聖徳太子1400年大御忌の年で太子ゆかりの地を巡っていて広隆寺で10ヶ所目になります。

立派な仁王門が迎えてくれます。

広隆寺の歴史は古く、推古天皇11年(603)に建立された山城国最古の寺院であり、聖徳太子建立七大寺のひとつに数えられています。





薬師三尊を中央に弘法大師、理源大師聖宝、道昌僧都をお祀りしています。







地蔵堂です。
弘法大師が諸人安産、子孫繁栄、しいては国家繁栄の願いでご製作になられた腹帯地蔵尊です。







上宮王院太子殿です。
江戸時代の享保15年(1730)に再建されたお堂で名前の通り聖徳太子がご本尊(像高148cm)です。

歴代天皇が"即位の大礼"に御着用される香櫨染御袍(こうろぜんごほう)が即位後に下賜され、一代を通じて聖徳太子像に着せられています。
この慣わしは平安時代から現代にまで続いています。

この聖徳太子像は秘仏で毎年11月22日のみ開扉されます。



この黄櫨染を現在に復活復元されたのが嵐山で工房を持たれている染色作家の奥田祐斎さんです。



桂宮院本堂(国宝)です。(非公開)
境内の西側にあり塀で囲まれているので外部からは見えません。

法隆寺夢殿と同じく八角円堂ですが屋根は檜皮葺です。



ご本尊は聖徳太子半跏像(鎌倉時代・重文)ですが、現在は霊宝殿に移されています。



最後は霊宝殿です。





「広隆寺資材交替実録帳」(国宝)に掲載の二体ある弥勒菩薩半跏思惟像の内の「宝冠弥勒」と呼ばれれる弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)です。
赤松材の一木造で7世紀の制作とされていますが、飛鳥時代の木造仏像はほとんど例外なくクスノキ材が使われている事から朝鮮半年からの渡来仏との説が有力になっていました。

ところが昭和43年(1968)に内刳(うちぐり)の背板が赤松ではなくクスノキに似た広葉樹である事が判明し、国内制作説も有力になっているそうです。





もう一体の弥勒菩薩半跏像(国宝)です。
「広隆寺資材交替実録帳」に「在薬師仏殿之内」との記述があり「宝髻(ほうけい)弥勒」を指すとされています。



阿弥陀如来坐像(国宝)。
講堂のご本尊で像高261.5cmで説法院を結び、「資材帳」によれば承和年間840年頃の制作とされています。





不空羂索観音像(国宝)。
像高313.6cmもある大きな観音像で講堂に安置されていました。
奈良末期から平安初期の制作とされています。



千手観音立像(国宝)。
像高266cmで講堂にお祀りされていた観音さまです。
平安時代初期(9世紀)の制作です。



二躰の弥勒菩薩半跏思惟像を守護されている12躰の十二神将も全てが国宝です。

仏像が17躰、広隆寺資財交替帳及び広隆寺縁起資財帳の文書2件、桂宮殿本堂の20点もの国宝、48点の重文を所蔵されています。



なお、宝物殿内は撮影禁止なので殿内の写真はネットからの転載です。