「正倉院展」の後、興福寺の南円堂に向かいます。南円堂は西国三十三ヶ所巡礼の9番札所にもなっており、いつも参拝者で賑わっています。
11月10日までの特別公開でこちら「南円堂」と「北円堂」内部が同時公開されています。
まずは「南円堂」(重要文化財)から。
弘仁4年(813)藤原冬嗣が父内麻呂追善のために建立したお堂です。藤原氏の氏神・春日大社との関係も深く、ご本尊の不空羂索観音は藤原氏の信仰の中心でした。
過去3度火災に遭い、現在の建物は寛保元年(1741)に立柱。平成8年(1996)には平成大修理が行われました。南円堂の建物は国の重要文化財です。
中の仏像は全て国宝で康慶一門の傑作です。
ご本尊の不空羂索観音は三目八臂(さんもくはっぴ)の坐像で仏師康慶とその弟子達が約15ヵ月をかけて造立したと言われています。
この尊像を契機に後の慶派の地盤を築いていくことになります。
また、四方を守護する四天王立像も4体ともに国宝で康慶一門の作です。
鎌倉時代の像で力強いお姿で、ご本尊をお守りしています。
以前は中金堂に安置されていましたが、近年の研究で南円堂にあった事が判明し、平成29 年に南円堂に安置され、今まであった四天王立像は中金堂に移されました。
次に「北円堂」(国宝)へ。
北円堂は、養老4年(720)に亡くなった藤原不比等の菩提を弔うために、元明太上天皇と元正天皇が発願し、長屋王に命じて不比等一周忌にあたる翌年8月3日に完成しています。つまり、北円堂は不比等の廟堂なのです。
北円堂も過去二度の火災にあい現在の建物は承元4年(1210)に再建されたものです。
現在、興福寺の伽藍の中では最古のお堂です。
北円堂の仏さまは、治承4年(1180)の平家による南都焼き討ち後に運慶一門により再興されました。
弥勒菩薩さまは56億7千万年後に我々を救済してくださる仏さまで、そのお姿がご本尊の弥勒如来坐像です。
ご本尊さまの台座内枠には9名の慶派仏師の名が墨書されています。
四天王立像(国宝)は木心乾漆造(もくしんかんしつづくり)で有名な興福寺の阿修羅像と同じ造り方です。
四天王の内、増長天と多聞天には、その台座裏の墨書から延暦10年(791)に造られ、もとは大安寺に伝来したことがわかっています。どういった経緯からかその後、興福寺に移っています。
木造 無著(むじゃく)菩提立像と世親(せしん)菩提立像は共に国宝で、運慶の代表作です。
おふたりは4〜5世紀頃の北インドの兄弟僧侶で法相教学の祖師として尊崇された方です。
運慶は理想的な仏教の求道者の姿として表現しており二体一組で優しさと厳しさを表しており、鎌倉時代彫刻の傑作の立像です。
学生時代は京都よりむしろ奈良に歴代のロマンを感じていて、市内中心部の興福寺や東大寺をはじめ、高畑にある新薬師寺、白毫寺、西の京にある薬師寺、唐招提寺を訪ねていました。
二上山の麓に伽藍を構える中将姫ゆかりの當麻寺や石光寺もお気に入りのお寺です。
次にまいまい京都のイベントに参加するため急ぎ近鉄電車に乗りました。
11月10日までの特別公開でこちら「南円堂」と「北円堂」内部が同時公開されています。
まずは「南円堂」(重要文化財)から。
弘仁4年(813)藤原冬嗣が父内麻呂追善のために建立したお堂です。藤原氏の氏神・春日大社との関係も深く、ご本尊の不空羂索観音は藤原氏の信仰の中心でした。
過去3度火災に遭い、現在の建物は寛保元年(1741)に立柱。平成8年(1996)には平成大修理が行われました。南円堂の建物は国の重要文化財です。
中の仏像は全て国宝で康慶一門の傑作です。
ご本尊の不空羂索観音は三目八臂(さんもくはっぴ)の坐像で仏師康慶とその弟子達が約15ヵ月をかけて造立したと言われています。
この尊像を契機に後の慶派の地盤を築いていくことになります。
また、四方を守護する四天王立像も4体ともに国宝で康慶一門の作です。
鎌倉時代の像で力強いお姿で、ご本尊をお守りしています。
以前は中金堂に安置されていましたが、近年の研究で南円堂にあった事が判明し、平成29 年に南円堂に安置され、今まであった四天王立像は中金堂に移されました。
次に「北円堂」(国宝)へ。
北円堂は、養老4年(720)に亡くなった藤原不比等の菩提を弔うために、元明太上天皇と元正天皇が発願し、長屋王に命じて不比等一周忌にあたる翌年8月3日に完成しています。つまり、北円堂は不比等の廟堂なのです。
北円堂も過去二度の火災にあい現在の建物は承元4年(1210)に再建されたものです。
現在、興福寺の伽藍の中では最古のお堂です。
北円堂の仏さまは、治承4年(1180)の平家による南都焼き討ち後に運慶一門により再興されました。
弥勒菩薩さまは56億7千万年後に我々を救済してくださる仏さまで、そのお姿がご本尊の弥勒如来坐像です。
ご本尊さまの台座内枠には9名の慶派仏師の名が墨書されています。
四天王立像(国宝)は木心乾漆造(もくしんかんしつづくり)で有名な興福寺の阿修羅像と同じ造り方です。
四天王の内、増長天と多聞天には、その台座裏の墨書から延暦10年(791)に造られ、もとは大安寺に伝来したことがわかっています。どういった経緯からかその後、興福寺に移っています。
木造 無著(むじゃく)菩提立像と世親(せしん)菩提立像は共に国宝で、運慶の代表作です。
おふたりは4〜5世紀頃の北インドの兄弟僧侶で法相教学の祖師として尊崇された方です。
運慶は理想的な仏教の求道者の姿として表現しており二体一組で優しさと厳しさを表しており、鎌倉時代彫刻の傑作の立像です。
学生時代は京都よりむしろ奈良に歴代のロマンを感じていて、市内中心部の興福寺や東大寺をはじめ、高畑にある新薬師寺、白毫寺、西の京にある薬師寺、唐招提寺を訪ねていました。
二上山の麓に伽藍を構える中将姫ゆかりの當麻寺や石光寺もお気に入りのお寺です。
次にまいまい京都のイベントに参加するため急ぎ近鉄電車に乗りました。