京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

奈良興福寺 国宝特別公開(南円堂・北円堂)

2019年10月31日 06時12分11秒 | 日記
「正倉院展」の後、興福寺の南円堂に向かいます。南円堂は西国三十三ヶ所巡礼の9番札所にもなっており、いつも参拝者で賑わっています。





11月10日までの特別公開でこちら「南円堂」と「北円堂」内部が同時公開されています。





まずは「南円堂」(重要文化財)から。
弘仁4年(813)藤原冬嗣が父内麻呂追善のために建立したお堂です。藤原氏の氏神・春日大社との関係も深く、ご本尊の不空羂索観音は藤原氏の信仰の中心でした。
過去3度火災に遭い、現在の建物は寛保元年(1741)に立柱。平成8年(1996)には平成大修理が行われました。南円堂の建物は国の重要文化財です。





中の仏像は全て国宝で康慶一門の傑作です。
ご本尊の不空羂索観音は三目八臂(さんもくはっぴ)の坐像で仏師康慶とその弟子達が約15ヵ月をかけて造立したと言われています。
この尊像を契機に後の慶派の地盤を築いていくことになります。

また、四方を守護する四天王立像も4体ともに国宝で康慶一門の作です。
鎌倉時代の像で力強いお姿で、ご本尊をお守りしています。

以前は中金堂に安置されていましたが、近年の研究で南円堂にあった事が判明し、平成29 年に南円堂に安置され、今まであった四天王立像は中金堂に移されました。

次に「北円堂」(国宝)へ。



北円堂は、養老4年(720)に亡くなった藤原不比等の菩提を弔うために、元明太上天皇と元正天皇が発願し、長屋王に命じて不比等一周忌にあたる翌年8月3日に完成しています。つまり、北円堂は不比等の廟堂なのです。

北円堂も過去二度の火災にあい現在の建物は承元4年(1210)に再建されたものです。
現在、興福寺の伽藍の中では最古のお堂です。





北円堂の仏さまは、治承4年(1180)の平家による南都焼き討ち後に運慶一門により再興されました。
弥勒菩薩さまは56億7千万年後に我々を救済してくださる仏さまで、そのお姿がご本尊の弥勒如来坐像です。
ご本尊さまの台座内枠には9名の慶派仏師の名が墨書されています。

四天王立像(国宝)は木心乾漆造(もくしんかんしつづくり)で有名な興福寺の阿修羅像と同じ造り方です。

四天王の内、増長天と多聞天には、その台座裏の墨書から延暦10年(791)に造られ、もとは大安寺に伝来したことがわかっています。どういった経緯からかその後、興福寺に移っています。

木造 無著(むじゃく)菩提立像と世親(せしん)菩提立像は共に国宝で、運慶の代表作です。
おふたりは4〜5世紀頃の北インドの兄弟僧侶で法相教学の祖師として尊崇された方です。

運慶は理想的な仏教の求道者の姿として表現しており二体一組で優しさと厳しさを表しており、鎌倉時代彫刻の傑作の立像です。

学生時代は京都よりむしろ奈良に歴代のロマンを感じていて、市内中心部の興福寺や東大寺をはじめ、高畑にある新薬師寺、白毫寺、西の京にある薬師寺、唐招提寺を訪ねていました。

二上山の麓に伽藍を構える中将姫ゆかりの當麻寺や石光寺もお気に入りのお寺です。

次にまいまい京都のイベントに参加するため急ぎ近鉄電車に乗りました。





第71回 正倉院展(奈良国立博物館)

2019年10月30日 06時15分38秒 | 日記
 今日、10月27日は、奈良国立博物館で本日から開催の「第71回 正倉院展」に行ってきました。 
今上天皇陛下のご即位を記念し会期も3日間延長されています。



昭和21年(1946)に初開催されて以降、今年で71回目を迎える奈良の初秋の恒例行事です。

正倉院正倉の中は北倉、中倉、南倉に分かれており、聖武天皇、光明皇后の遺品は北倉に納められていました。
その宝物を1300年と言う途方もない年月を守り伝えて来た先人の努力、執念、義務感にただただ感服するばりです。
近年の研究では、高床式の校倉造りの他に、宝物を入れていた檜木の唐櫃に大きな秘密があるようです。唐櫃の中は年間を通して湿度が一定に保たれ、宝物の保管には最適な入れ物なのです。
改めて、先人達の自然、気候風土の知識の豊富さに感嘆します。



天平美人、樹下美人として知られる「鳥毛立女屏風(とりげりゅうじょのびょうぶ)」(北倉)の6扇が一度に公開されるのは初めての事ではないでしょうか?

七條刺納樹皮色袈裟(しちじょうしのうじゅひしょくのけさ)(北倉)は国家珍宝帳」の筆頭に掲げられた袈裟のひとつで実際に聖武天皇が身に付けられた可能性が高い物と言われています。その後、歴代の天皇が使われたようです。

粉地彩絵八角几(ふんじさいえのはっかくき)(中倉)は、仏さまに供物をお供えする際のお盆のようなものです。

「紫檀金鈿柄香炉(しだんきんでんのえこうろ)」(南倉)は、大仏開眼供養の際に使われたものでしょうか?荘厳を極めた装飾が施された仏具です。多くの人の関心を集めていました。
仏具とは思えない美しさです。





螺鈿箱(中倉)
紺玉帯残欠を納めるための螺鈿細工の美しく豪華な箱です。

赤漆文觀木御厨子(せきしつぶんかんぼくのおんずし)(北倉)は聖武天皇、光明皇后にとって大切なものを納めていた厨子です。

金銀花盤(きんぎんかばん)(南倉)は真ん中に大きく鹿がデザインされ中国・唐時代の高度な工芸技術を伝える宝物です。





また、撥鏤尺(ばちるのしゃく)も紅牙と緑牙の両方が出陳されていました。目盛りが彫刻されていないので装飾品なのでしょう!

今回は41品もの宝物が出陳され、そのうちの4件は初出陳です。
初日の土曜日でもあり、混雑を覚悟していましたが比較的ゆったりと鑑賞することが出来ました。

しかし、鑑賞したのはほんのひと握りで正倉院全体では9000件もの宝物があるそうです。

1階に戻り南側のテラスで呈茶をされていたので、美しい庭園を眺めながら一服頂きました。





記念に「鳥毛立女屏風」のポストカードと、紅牙撥鏤尺と緑牙撥鏤尺のクリアファイルを購入しました。





例年の傾向ですが、会期の後になるほど混雑します。出来るなら会期前半の9時の開館前に行かれるか、オータムレイトを利用されるのがいいと思います。

ちなみにオータムレイトは閉館時間の1時間30分前からのみ入館できるチケットです。
閉館時間は18時。
但し、金、土、日曜、祝日は20時です。

次に興福寺国宝特別拝観で「南円堂」と「北円堂」の拝観に向かいます。




「京都市指定の文化財」京都市歴史資料館

2019年10月29日 07時55分37秒 | 日記
 10月20日の「御土居を見て歩き」の後、寺町丸太町を少し上がった所にある京都市歴史資料館に来ました。









この地は、藤原道長が法成寺を建立した場所で仏教の末法思想を反映し、九体阿弥陀堂を始め金堂、薬師堂、釈迦堂、五重塔など諸堂が並び立っていた場所です。

玄関前には鉢植えの藤袴が咲いていました。最近、寺町通では昔には京都の街中でも見られた藤袴を復活させる運動が盛り上がってきており行願寺(革堂)の境内でもたくさんの藤袴を見ることが出来るようになってきました。

京都市歴史資料館では企画展「京都市指定の文化財」が今日まで行われています。(ギリギリでした!)



十念寺が所蔵されている曾我蕭白筆の雲龍図です。
「奇想」の画家として知られる蕭白の作品は活動拠点であった伊勢に多く残り、こちらは京都市内に残る貴重な障壁画です。以前にあるイベントで鑑賞しました。



伏見区醍醐寺の北にある赤間薬師堂に伝わる木造薬師如来坐像です。
源平の戦いを避けるためこちらに移されため、「赤間薬師」と呼ばれています。
ある財団の招待事業で一度、お詣りした事があります。



木造千手観音立像。
清涼寺(嵯峨釈迦堂)の西側 愛宕街道沿いにある慈眼堂のご本尊で近くの小倉山に山荘を構え隠棲した藤原定家の念持仏と言われています。
今も地域の方々が保存会を作られお守りされています。



木造十一面観音立像。
京都六地蔵巡りのひとつ南区鳥羽街道沿いにある浄禅寺が所蔵される観音さまです。
一木造りで頭髪の一部に乾漆を使い盛り上げ形成、表面は漆箔で仕上げられた均整のとれた観音さまです。

その他に、建仁寺四頭茶礼関連道具、朝鮮通信使関連資料、鳥羽離宮金剛心院出土品、祇園祭蟷螂山御所車及びかまきり人形などが展示されていました。 

これだけの充実した内容で入館料は無料です。(有難い事です。)

この後に京博の「佐竹本三十三歌仙絵と王朝の美」展に向かいました。



白州正子が愛した十一面観音像を求めて⑩櫟野寺(らくやじ)

2019年10月27日 08時48分27秒 | 日記
 油日神社を後に、3km弱の距離を徒歩でやって来たのが櫟野寺(らくやじ)です。





ご本尊の十一面観音さまは33年毎にしかご開帳がない秘仏で白州正子さんが訪れた際にも厨子の扉を開けられる事はなかったようです。

昨年は33年毎のご本尊さま大開帳の年で大変な数の参拝者が訪れたようです。
しかし、現住職の代になり春と秋の一定期間に特別公開をされるようになりました。
今回は、その特別公開期間ですので、有難い事にご本尊さまにお詣りが叶いました。

伝教大師最澄が根本中堂の用材を得るために、甲賀郡杣庄で霊夢を感じ、櫟(いちい)の生木に彫刻し、安置されたのが櫟野寺のご本尊十一面観音さまです。



この大きなご本尊さまは坐高が3mあまりの一木造りで丈六の仏さまです。
一木造りには定義があり頭と胴体が繋がっていれば腕などは寄木でも一木造りとなります。 

また、丈六の定義も髪の毛の生え際から測るのだそうです。仏さまは頭上部分がそれぞれ高さが違うからです。

また、平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂が鈴鹿の山賊追討にあたり、こちらの十一面観音さまに祈られ見事に群賊を平定された事から祈願寺とされ七堂伽藍を整備されました。

また、家来に命じ、国技の相撲を奉納された故事に基づき今も10月18日に奉納相撲が行われています。境内には立派な土俵があります。









ご覧のように多くの重要文化財の仏像を所蔵されています。

次回は、奈良県桜井市にある聖林寺と談山神社を訪ねる予定です。

白州正子が愛した十一面観音像を求めて⑨油日(あぶらひ)神社

2019年10月26日 07時38分56秒 | 日記
10月24日は、よみうり文化センターの講座の第3回目「かくれ里」に天台文化の栄華を訪ねてで滋賀県甲賀市にある油日(あぶらひ)神社を訪ねました。





油日大神(あぶらひのおおかみ)を主祭神に背後にある油日岳を御神体としています。
創建年代は不詳ですが用明天皇または天武天皇の時代の創建と伝わり、油日岳の山頂に油の火のような光とともに油日神が降臨したことから「油日」の名が付いたと伝わります。



楼門は三間一戸、入母屋造で檜皮葺で元禄9年(1566)の墨書があります。







拝殿は三間四方で入母屋造・檜皮葺で正面と裏側にも唐破風が付いています。



本殿は三間社流造で檜皮葺。棟札から現在の社殿は明応2年(1493)8月に上棟されたことが分かります。



毎年、5月1日に油日祭が行われ、"太鼓踊(国の選択無形民俗文化財)"が町に繰り出します。

特に5年ごとに行われる"奴振(県の選択無形民俗文化財)"の「見たか聞いたか油日さんの頭殿(とうどう)御用のだて奴」と奴たちが歌い踊る姿はユーモラス。

最後に境内に隣接する甲賀歴史民俗資料館を見学します。

先程の棟札は多くが重要文化財に指定されています。



福太夫神面
能に精通した白州正子は、この面を農民技術ではなく、最高の技術を持った名工の作と断じ、遠くギリシャから西域を経て中国朝鮮経由で日本に来た伎楽の面(推古朝の呉公)との類似的を上げています。



ずずいこ
福太夫と同じ作者で豊穣の祭りに使われました。
近世以降は、神社の前で服を着て祭りに使われるようになりましたが、元々は神田で裸のまま田んぼをつついて回ったのではと白州正子は見ていたようです。
しかし、この田祭りも明治の末に絶えてしまいました。



次に、櫟野寺(らくやじ)へと向かいます。