9月15日は、僕が所属しているNPO法人 京都の観光文化を考える会 都草の歴史探訪会に参加しました。
12時30から受付なので、まずは腹ごしらえで海鮮丼が格安で頂ける「魚楽」(ととらく)さんへ。
なにせ、海鮮丼が500円からありメニューから選ぶのも大変です。
しかし、旬を頂こうと秋刀魚丼を選びました。お連れさんは秋刀魚とろろ丼を。両方とも550円です。

[user_image 3c/6d/f15f1151de0dc93ff3111e76ub1e2098b.jpg]


①淀小橋


②井上源三郎埋首の地

新撰組六番隊長。平成20年4月11日の新聞で、鳥羽伏見の戦いで「千両松の激戦」で、鉄砲の砲撃に会い戦死した。その埋首の「欣浄寺」の跡地が古地図から特定されました。淀小橋を少し北に行くと、陸橋があり、その東となりに「弁慶うどん店」の駐車場があり、ここが埋首の地と特定されました。
③妙教寺
淀古城跡地に建つ法華宗真門派の寺院で、東軍と西軍が衝突した小枝橋から南方約6キロの地点にあり慶応4年(1868)1月5日、この付近は激戦地となりました。
東軍の砲弾が本堂南壁をぶち破り、内陣の柱を貫通し、さらに北側位牌棚頂き戸に当たって落ちましたが、幸いにも不発弾でした。



④唐人雁木
「唐人雁木」とは朝鮮通信使一行が上陸した船着場が石段の代わりに木で作られたもので、雁行形の階段を雁木と言います。
朝鮮通信使は慶長12年(1607)から文化8年(1811)まで12回来日しています。


⑤淀の水車
かって、淀城には西と北側に直径九間(約16m)の大型の水車2基があり、二の丸の居間や西の丸の園地に水を取り入れるために使用されていたと思われます。
淀駅の西側に縮小した水車があります。


⑥長円寺
浄土宗寺院で境内には、本堂、閻魔堂、観音堂があります。以前に、浄土宗寺院大公開で公開され訪問しています。
こちら閻魔さまは、新撰組、幕府軍も拝んでいます。東軍(幕府軍)の負傷者、戦死者は運ばれ東軍の野戦病院となり、山門左手には榎本武揚の書による慰霊碑が建立されており今も法要で供養を行なっているそうです。
⑦淀城跡・與杼神社
江戸時代に入り、幕府は伏見城を廃城とし、代わる城として淀が京都・大阪の間にあり淀川とつながる水陸交通や軍事の要衝として重要な位置であることから、淀古城から場所を移して、再び淀に城が築かれることになり、初代藩主は京都守護の大名として、また、畿内の政治・西国監視体制の一員として松平定綱が就任しました。
当初、伏見城の天守が移築される予定でしたが、急遽二条城へと移され、淀城には一回り小さい二条城の天守が移築されました。
後水尾天皇の二条城行幸のためと思われます。
與杼神社は、慶安2年(1649)の建立で向拝とその奥の拝枡の蟇股に花鳥動物の彫刻が施され、本殿両翼の彫刻は桐と鳳凰の華麗なものでした。しかし、本殿は昭和50年(1975)に未成年の花火で焼失し、現在の本殿は清楚な3間社流れつくりで再建されました。
今回、特別に三基のお神輿を見せて頂きました。




12時30から受付なので、まずは腹ごしらえで海鮮丼が格安で頂ける「魚楽」(ととらく)さんへ。
なにせ、海鮮丼が500円からありメニューから選ぶのも大変です。
しかし、旬を頂こうと秋刀魚丼を選びました。お連れさんは秋刀魚とろろ丼を。両方とも550円です。

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①淀小橋


②井上源三郎埋首の地

新撰組六番隊長。平成20年4月11日の新聞で、鳥羽伏見の戦いで「千両松の激戦」で、鉄砲の砲撃に会い戦死した。その埋首の「欣浄寺」の跡地が古地図から特定されました。淀小橋を少し北に行くと、陸橋があり、その東となりに「弁慶うどん店」の駐車場があり、ここが埋首の地と特定されました。
③妙教寺
淀古城跡地に建つ法華宗真門派の寺院で、東軍と西軍が衝突した小枝橋から南方約6キロの地点にあり慶応4年(1868)1月5日、この付近は激戦地となりました。
東軍の砲弾が本堂南壁をぶち破り、内陣の柱を貫通し、さらに北側位牌棚頂き戸に当たって落ちましたが、幸いにも不発弾でした。



④唐人雁木
「唐人雁木」とは朝鮮通信使一行が上陸した船着場が石段の代わりに木で作られたもので、雁行形の階段を雁木と言います。
朝鮮通信使は慶長12年(1607)から文化8年(1811)まで12回来日しています。


⑤淀の水車
かって、淀城には西と北側に直径九間(約16m)の大型の水車2基があり、二の丸の居間や西の丸の園地に水を取り入れるために使用されていたと思われます。
淀駅の西側に縮小した水車があります。


⑥長円寺
浄土宗寺院で境内には、本堂、閻魔堂、観音堂があります。以前に、浄土宗寺院大公開で公開され訪問しています。
こちら閻魔さまは、新撰組、幕府軍も拝んでいます。東軍(幕府軍)の負傷者、戦死者は運ばれ東軍の野戦病院となり、山門左手には榎本武揚の書による慰霊碑が建立されており今も法要で供養を行なっているそうです。
⑦淀城跡・與杼神社
江戸時代に入り、幕府は伏見城を廃城とし、代わる城として淀が京都・大阪の間にあり淀川とつながる水陸交通や軍事の要衝として重要な位置であることから、淀古城から場所を移して、再び淀に城が築かれることになり、初代藩主は京都守護の大名として、また、畿内の政治・西国監視体制の一員として松平定綱が就任しました。
当初、伏見城の天守が移築される予定でしたが、急遽二条城へと移され、淀城には一回り小さい二条城の天守が移築されました。
後水尾天皇の二条城行幸のためと思われます。
與杼神社は、慶安2年(1649)の建立で向拝とその奥の拝枡の蟇股に花鳥動物の彫刻が施され、本殿両翼の彫刻は桐と鳳凰の華麗なものでした。しかし、本殿は昭和50年(1975)に未成年の花火で焼失し、現在の本殿は清楚な3間社流れつくりで再建されました。
今回、特別に三基のお神輿を見せて頂きました。



