京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

初秋の法然院

2018年10月26日 09時20分11秒 | 日記
金毛院の拝観を終え、法然院の境内を散策しました。山門の屋根が数年前に吹き替えられ、随分と馴染んできたように感じます。やはり、法然院の顔とも言える山門は苔むした茅葺が似合います。





山門前の石柱はお寺で時折、見かけますが、「肉を食べた人、にんにくなどの匂いのきつい食べ物を食した人は山門に入ってはならない。」と言う意味だそうです。仏教では肉や魚を食してはならない戒律や匂いのきつい食べ物は修行の妨げになるからでしょうか。

山門を入ると両側に銀砂壇が迎えてくれます。季節の模様が描かれており、この日は、もみじ🍁と銀杏でした。



浴室は、この日は着物の展示会をされていました。



いつもは本堂内には入れませんが本堂正面前まで行けるのですが、こちらでも台風21号の被害があり、倒木で行けませんでした。





本堂北側にある方丈には、狩野光信(永徳の長男)筆の襖絵(重文)、また、堂本印象が1971年に描いた新襖絵があります。

11月1日から11日まで京都非公開文化財特別公開で伽藍内が公開されこれらの襖絵を見る事ができます。


紫の地に歴史の栄枯の足跡を巡る③最終

2018年10月20日 21時31分23秒 | 日記
次に紫明通、堀川通を渡り玄武神社を訪ねます。こちらは初訪問です。
その前に紫明通は、京都を「山紫水明の地」と言った事に由来します。元々は琵琶湖疎水の第二疏水分線で、蹴上から松ヶ崎・下鴨を経て賀茂川をサイホンでくぐり堀川まで繋がっていました。



その後、賀茂川以西は埋め立てられ、第二次大戦中の防火帯設置のため強制疎開が行われ紫明通となりました。
しかし、平成21年に第二疏水分線を復活させ、紫明通、堀川通を経由して今出川通から御池通の堀川の開渠部に導水し、せせらぎを復活させ、水辺空間の整備がおこなわれました。





堀川
平安京の一条通東北部には平安京以前に自然の河川が流れており、その川床を利用して平安時代に堀川を造り、これを東堀川と名付けられました。同時に西堀川(現在の紙屋川)も掘られました。東西両堀川の開削は、京都の北部の山林で伐採した平安京造営に必然な木材の運搬が目的であり、この両河川に挟まれた地域に大内裏が建設されました。

玄武神社
祭神は惟喬親王。
駒札によると元慶年間、星野茂光が惟喬親王を祭神として創建したとあります。



惟喬親王は第55代文徳天皇の皇子でしたが母の身分が低く皇太子になれませんでした。
親王には腹違いの弟、惟仁親王がいて、生母は藤原良房の娘、明子(あきらけいこ)で生後9か月で皇太子になりました。
父、文徳天皇が崩御した時はまだ9歳でしたが天皇に即位しています。





父、文徳天皇は惟喬親王を深く愛し、天皇位を継がせたかったのですが藤原氏の勢力に従わざるを得ませんでした。



失意の惟喬親王は晩年出家し、比叡山の西麓小野に隠棲しました。「伊勢物語」に冬の雪深い小野の地に在原業平が惟喬親王に逢いにやってきて歌を詠んだことが書かれています。

忘れては夢かとぞ思ふ 思ひきや
雪ふみわけて 君を見むとは
(古今和歌集十八巻)

最後の目的地の大徳寺塔頭 雲林院です。
雲林院
天長年間(824〜834)、淳和天皇が紫野に造営された離宮・紫野院の跡地です。





淳和天皇はたびたび紫野院に行幸し、釣殿を見物、雅楽の演奏、文人に作詞等をさせました。
天長9年(832)には皇后正子が行啓し、周辺で耕作する様子を見物。
淳和天皇が退位され上皇となった後に仁明天皇のなり、その後に仁明天皇の第七皇子の常康親王に伝領されました。





仁明天皇の崩御後、常康親王は出家し雲林院に隠棲しました。貞観11年(869)親王没後に遍昭僧正に付託されました。
遍昭は、仁和2年(886)に毎年3月21日に仁明天皇の忌日に金戒明経を転読する勅許を得て、花山元慶寺の別院としました。
遍昭亡き後、子の素性法師が住みました。
釣殿は930年に廃絶。村上天皇の御願により多宝塔が応和3年に落慶し興隆しましたが、中世以降、寺運は衰微し、後醍醐天皇の御代に寺地は大徳寺に施入され、消滅するに至ります。

往事の雲林院は4町四方の寺領を有し、桜や紅葉の名所として知られていました。
中世には謡曲「雲林院」の題材にもなり、また、源氏物語の「賢木」の巻や「大鏡」にも登場しています。

少しレアな内容になりましたが、それぞれの神社、寺社には様々な紆余曲折な歴史があり今日まで存続している事を学びました。

都草 歴史探訪会西部会の皆様、お疲れ様でした。

法然院塔頭 金毛院(浄土宗寺院大公開)

2018年10月20日 20時48分04秒 | 日記
10月17日は、法然院塔頭 金毛院が浄土宗寺院大公開でこの日だけ公開されました。事前予約制で1日3回、各回20名限定でした。
都草の歴史探訪会が13時からなのでその前に10時からの拝観をお願いした次第です。





小さな門の入口からして苔むした参道に飛び石が打たれており、露地庭園の雰囲気が満載です。
玄関で記帳し本堂に案内されます。まずは各自、ご本尊の阿弥陀如来様にお参りをし、ご住職による曼荼羅の絵解きがありました。







その後、お茶室に通されお薄の接待がありました。四畳半の本格的なお茶室で、お軸を初めお道具も立派なものばかりでした。







ご住職のお点前も素晴らしく、袱紗の使い方や清める所作の説明もして下さりました。
その後は自由にお庭も回って下さい。とおっしゃって下さり雪駄をお借りして美しい露地庭園を拝見しました。









この様な機会を与えてくださった、ご住職、奥様に感謝申し上げます。ありがとうございました。

大徳寺 瑞峯院

2018年10月20日 00時41分35秒 | 日記
9月17日は、東林院を拝観するまでの時間を利用して瑞峯院を訪ねました。





大徳寺で通常公開されている3つの塔頭のひとつです。瑞峯院は室町時代の九州豊後の守護大名で洗礼を受けキリシタン大名として有名な大友宗麟公の創建です。
方丈は禅宗の典型的な建物で、室中には開祖の大満国師の木像を安置、方丈正面の、瑞峯院の額は後奈良天皇の宸翰です。





方丈前の庭園は独坐庭と名付けられており、寺号の瑞峯をテーマにした蓬莱山式庭園です。右側の立石と苔からなる蓬莱山の険しい山岳、そこから延びる半島を表しています。





海を表す白砂の砂紋が深く感じられます。それだけ蓬莱山周りの海の荒々しさを表しています。
仙人が住み、不老不死の妙薬があると言われる蓬莱山、そう易々ては辿りつけない様も表していると感じました。作庭は名作庭家、重森三玲です。

大徳寺は千利休が帰依したお寺だけに、それぞれの塔頭には複数の茶室があります。「大徳寺の茶面」と言われる由縁です。

こちら瑞峯院にも3つの茶室があり、通常公開されているのは安勝軒です。





表千家惺斎宗匠好みの茶室で、大徳寺山内唯一の、逆勝手席です。

方丈裏側の庭園は閑眠庭と言われています。
開基の大友宗麟公が、晩年キリスト教を保護し、宣教師フランシスコ・ザビエルに洗礼を受けたりキリシタン大名であることから中庭にあるキリシタン灯籠を中心に、七個の石組みで十字架を表しています。





また、庫裏と方丈の間にある坪庭もシンプルですが禅寺らしい、いい庭です。


紫の地に歴史の栄枯の足跡を巡る②

2018年10月19日 08時58分15秒 | 日記
前回のブログで興聖寺まで来ました。次に堀川通りを渡り向かいにある水火天満宮を訪ねます。
普通、天満宮と言えば菅原道真公が立ち寄られた跡地にありますが、水火天満宮のご由緒は少し違います。





第60代醍醐天皇は都の水害・火災を鎮める為に尊意僧正に祈祷を命じられました。僧正は比叡山を下り御所に向かう途中に鴨川の氾濫にあいました。僧正は数珠をひともみ天に向かいて神剣をかざして祈ると水面が真っ二つに分かれ水流の間から石が現れ、その上に道真公の神霊が現れ、やがて昇天し雲の中へと消えて雷雨が止みました。この石を僧正が持ち帰り供養し登天石と名付けました。







次に大応寺・織部稲荷神社です。
大応寺は天正14年(1586)に興聖寺の虚応円耳(きいんえんに)和尚が、悲田院の東山泉涌寺移転に際し、その旧地に創建された現在は臨済宗相国寺派のお寺です。ご本尊は釈迦如来、脇侍に迦葉・阿難尊者がお祀りされています。また、後花園天皇の念持仏と伝わる観音菩薩像をお祀りされています。
境内の織部稲荷の神社は、古田織部が伏見稲荷から勧請したもので開運福徳、織物技術上達の神として信仰されています。



上は後花園天皇火葬塚です。
それまで、御寺泉涌寺で葬礼が行われていましたが、応仁の乱で破壊されていたため、その遺骸はこの悲田院で火葬されたとの記録が残っています。今は宮内庁が管理されているので近くまでは行けません。

妙覚寺墓地
境内から離れたところにあります。
味方但馬守家重
江戸時代前期に佐渡金山で活躍した著名な山師です。家重は日蓮宗に帰依し、京都妙覚寺をはじめ、佐渡のほとんどの日蓮宗寺院の伽藍の整備を助力しました。



楽家
楽焼は桃山時代、初代長次郎によって始められました。楽焼の技術のルーツは中国明時代の三漢陶で長次郎の父にあたる唐人・阿米也が中国から三綾陶の技術を伝えたと言われています。楽家は秀吉の聚楽第近くに居を構えていたた、この地から聚楽土が取れる、長次郎の楽焼が利休により世に出たことから「聚楽焼き茶碗」と呼ばれるようになりました。その一字から楽焼と呼ばれています。



狩野家累代の墓
狩野一門は、血縁関係を中心とした画家集団で約4世紀にわたって日本の画壇に君臨した家です。
足利幕府の御用絵師となった初代狩野正信、嫡男・元信、その子松栄、その子永徳が活躍しました。
やがて江戸幕府と共に江戸に移り江戸城の障壁画は永徳が指揮して製作されました。
京都に残った狩野派は京狩野と呼ばれて初代は三楽です。



玄武神社
駒札によると元慶年間、星野茂光が惟喬親王を祭神に創建したとあります。
惟喬親王は第55代文徳天皇の皇子でしたが母の位が低く皇太子になれませんでした。親王には腹違いの弟、惟仁親王がいました。生母は藤原良房の娘、明子(あきらけいこ)で、生後9か月で皇太子になり、父、文徳天皇が崩御した時はまだ9才でしたが天皇に即位しています。
父、文徳帝は惟喬親王に皇位を継がせたかったようですが藤原氏の勢力に従わざる得ませんでした。
親王は、晩年出家し、比叡山西麓の小野の地に隠棲しました。
伊勢物語には冬の雪深い小野の地に在原業平が訪れ、歌を詠んだことが書かれています。

忘れては夢かとぞ思ふ 思ひきや
雪ふみわけて 君を見むとは
(古今和歌集巻十八)