京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

丹波亀山城址② 城下町

2021年01月29日 08時21分00秒 | 日記
す 亀山城址の散策を終え、城下町を散策します。






駒札にあるように、この付近は三ノ丸西南部にあたり武家町だったところです。







王子山(おうじやま)稲荷大明神です。
亀山藩主松平信岑(のぶみね)が寛延元年(1748)に丹波篠山から亀山に移封の際、こちらの稲荷大明神も城内に勧請されました。五穀豊穣、商売繁盛、勝ち運の神として信仰されて来ました。







同じく三ノ丸にある湧水です。
豊富な湧水は堀の水や田畑に使われていたのでしょうか。





「桜の馬場(馬見所)」です。
駒札にあるように馬廻りの藩士の居住区だった場所です。







豊臣家ゆかりの聖隣寺です。
門前に達磨大師の石像がある事から分かるよに臨済宗(天龍寺派)の寺院です。

豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた翌年、天正19年(1591)に亀山城主の小早川秀秋が実子を亡くし、その菩提を弔う為に現在地に移転し根理しました。
その後、江戸時代に火災で焼失し、現在の建物は寛政10年(1798)の再建です。




聖隣寺の墓地は亀山城の城下町を囲む惣構の土塁の上にあります。



こちらには何故か織田信長公の五輪塔があります。
駒札によれば豊臣秀吉の養子となっていた信長の四男羽柴秀勝が建立したようです。









お寺の寺宝も見せて頂きました。
ご位牌にある"瑞雲院殿前黄門秀巌日詮大居士"は小早川秀秋の戒名です。
一時期、亀山城主だったご縁でお祀りされているのでしょうか?




聖隣寺毘沙門堂です。
毘沙門天は四天王のひとつで北方を守護すること多聞天の事です。しかし後には財宝神としても信仰され、独立した毘沙門信仰が生まれました。

聖隣寺の毘沙門天は丹波国分寺の守護神とされたと伝わり、明智光秀が亀山城築城の際に城内二ノ丸に移され、城の鎮守としたと伝わります。

光秀失脚後、金吾中納言羽柴秀俊(のちに小早川家の養子となった小早川秀秋)が城主の時、早世した子の菩提を弔う為に聖隣寺毘沙門堂に安置したと伝えられています。
現在は防犯上の都合で本堂にお祀りされています。



亀岡市文化資料館で展示されていましたが、なかなか立派な毘沙門さんで市の文化財に指定されています。
南北朝時代の作だそうです。





この付近に"御薪蔵跡"があり藩が管理していたようです。



亀岡市の地酒で名高い"丹山酒造"さんです。







呉服町にある丹波亀山城"火の見櫓跡"です。









日蓮宗寺院の法華寺です。
藩主・小早川秀秋の庇護を受け現在地に移されました。






藩主・前田玄以の時代に現在地に移転しています。
鎮守堂には大黒天がお祀りされています。





"高札所跡"
城への入口、大手門に向かう街道筋に立てられました。







こちらの形原(かたはら)神社付近に大手門がありました。







"南郷地蔵"と呼ばれ、11体の石仏地蔵がお祀りされています。


南郷公園にある明智光秀像。



亀岡市では善政をしき住民に慕われた明智光秀。
"本能寺の変"を前にどんな心境の変化があったのでしょうか?


























丹波亀山城址①

2021年01月27日 07時57分00秒 | 日記
 久しぶりに京都のブログです。

 昨年11月14日はJR東海「そうだ 京都、行こう。」のオリジナルイベント"本能寺の変の出陣地 光秀から始まった亀山城下を巡る"に参加しました。

NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」もいよいよ終わりが近づき物語がどんな展開をみせるのか楽しみです。





先ずは、亀岡市文化資料館で前館長の黒川さまから講義を受けました。

座学の内部は丹波・亀山・亀岡について

①地理的に交通の要衝地
京都の都に近い
山陰道が通じている
篠山街道が通じている

②自然的要素
山間地域にあり木材の調達が容易
保津川の水運
盆地が点在し、拠点となる城郭建築に向いている

③歴史の表舞台となってきた
源義経の丹波路行軍
足利尊氏の丹波篠村八幡宮での挙兵
明智光秀の丹波亀山城出陣→本能寺の変

その後、亀山城の築城・城下町の成立発展の過程を解説して頂きました。
(割愛させて頂きます。)





いよいよフィールドワークです。
先ずは"外厩跡"です。
駒札にあるようにテニスコートのある場所には藩の馬を飼育する施設がありました。







大本本部の正面入口です。
参道も素晴らしく綺麗にされています。




石垣の下、三分の一は野面積で光秀築城当時のものだそうです。



丹波亀山城は天正5年頃(1577)に明智光秀が丹波攻略の拠点として築城したのが始まりです。しかし、当時の資料が無いために詳しい事は分からないそうです。

天正8年(1560)に丹波国を拝領し、本格的に城下町の形成、領国の経営に着手します。
そのわずか2年後に"本能寺の変"が起こっています。
その2年間に光秀に何があったのか"永遠の謎"のままですね。

その後、小早川秀秋が修築し、慶長15年(1610)には岡部長盛の代に"天下普請"で築城の名手と言われる藤堂高虎の縄張りにより近世城郭としての亀山城が誕生します。
石垣には"天下普請"で大名が残した刻印も見ることが出来ます。

天守は藤堂高虎の居城「今治城」の天守が急遽移築されました。




明治初期の古写真にあるように五層の天守閣がそびえていました。

明治維新以後の廃城令により取り潰され、それ以降は荒れ果てていたのを宗教法人大本が買取り整備されました。





ちょうど紅葉の時期とも重なり綺麗な紅葉を楽しめました。








いよいよ本丸エリアです。
復元された天守石垣です。先程にも述べたように下の三分の一は光秀築城当時の穴太(あのう)積みが残っています。
光秀は亀山以前に坂本城主だった為、地元の石工集団・穴太衆を連れて来たのでしょう。

本丸エリアは大本の神域なので撮影禁止ですが石碑近くには大きな銀杏の樹があり、光秀公の手植えと伝わります。
しかし、江戸時代中期の台風で倒れ、現在の銀杏は二代目だそうです。







中の島エリアです。
亀山城の名残りをよくとどめているエリアです。
江戸時代には弾薬の保管庫があったそうです。







城内には"花明山植物園"があり、日本の野生種を中心に約1000種類もの植物が植えられています。
万葉集に詠まれた植物も多くあるそうです。

城内の散策を終え、次に城下町の散策へと向かいます。









奈良西の京 薬師寺

2021年01月25日 07時33分00秒 | 日記
 薬師寺の創建は古く天武天皇の御代にまで遡ります。







天武天皇9年(680)、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願し発願された寺院です。

天武天皇は寺院の完成を待たずして崩御されます。やがて持統天皇が即位され藤原京に薬師寺が創建されました。










大差には四神が描かれています。中国のみならず遠くインドやペルシャの影響も感じます。

「続日本紀」によると697年にはご本尊薬師如来坐像の開眼法要が行われています。







710年に都が藤原京から平城京へと遷都された際に薬師寺も現在地に遷っています。

天平時代までは金堂、東塔、西塔、講堂には装飾の裳階が付けられた伽藍が並ぶ天下の四大寺として栄えました。

その後、地震や火災、兵火に遭い殆どの伽藍を失います。

当時の建物で唯一残っているのが東塔(国宝 奈良時代 730年創建)です。各層の間に裳階を付けた三重塔です。



平成21年(2009)から初めての解体修理が行われ12年の歳月をかけ昨年の4月に完成しています。
本来なら落慶法要に続き一般公開される予定でしたが昨今のコロナの影響で順延され、この3月1日から初層が一般公開される予定です。



昭和43年(1968)より当時の髙田好胤管主により創建当時の白鳳伽藍再建の為の一巻千円のお写経勧進が始められました。
高田管主さまは全国を行脚され、また、テレビ出演を通してお写経による勧進を勧められました。

昭和51年(1976)には目標の百万巻のお写経を達成され、念願の金堂が落慶されました。

高田管主の志はその後も受け継がれ西塔、中門、回廊、大講堂、食堂(じきどう)と復興され古の白鳳伽藍がよみがえりました。





薬師三尊の脇侍の日光菩薩立像と月光菩薩立像です。




大講堂です。ご本尊は弥勒三尊像です。





食堂です。
通常非公開ですが、東塔初層内部公開と同時に公開される予定です。

堂内には田渕俊夫画伯により描かれた「阿弥陀三尊浄土図」がご本尊としてお祀りされています。
また、14面50mに及ぶ壁画「仏教伝来の道と薬師寺」が描かれています。
と書いていますがまだ、食堂内を拝観した事が無いので3月からの公開を楽しみにしています。







最後は東院堂(国宝 鎌倉時代)です。
ご本尊は聖観音菩薩立像(国宝 白鳳時代)です。

観音さまは三十三のお姿に変化されると言われていますが聖観音さまは変化されていない元のお姿です。



この日は融徳寺、唐招提寺、薬師寺と巡り、改めて奈良の文化財の素晴らしさや歴史の奥深さに触れた想いです。
(堂内の写真は絵葉書からの転載です。)

京都にも非常事態宣言が出され行けない状況ですが、過去記事にしてこなかった事や京都以外の記事も書きたいと思っています。








鑑真和上創建の唐招提寺②

2021年01月23日 08時10分00秒 | 日記
 唐招提寺の続編です。





礼堂・東室(重要文化財 鎌倉時代)
南北19間の長い建物で南8間が礼堂、北10間が東室(ひがしむろ)です。
元来は僧侶が生活する僧坊でかっては講堂を挟み反対の西側にも同じような僧坊があったようです。
かって、奈良市観光協会の"うまし冬めぐり"企画で内部に入ったことがあります。



鑑真和上も僧坊西室に住われたようです。
残念ながら江戸時代に消失し、礎石だけが残っています。



講堂(国宝 天平時代)
この講堂は平城宮の朝集殿を移築したもので天平時代の宮殿で唯一現像する建物です。
(移築の際、屋根が切妻から入母屋に改められたようです。)

しかし、鎌倉時代の解体修理の際、かなりの改修が行われたようで天平時代の姿から遠ざかってしまったのは残念です。



講堂のご本尊は高さ2.84mの丈六の弥勒菩薩坐像(重要文化財 鎌倉時代)です。
阿弥陀如来さまの丈六仏はよく見ますが弥勒菩薩さまの丈六は珍しいかも知れないですね。(天龍寺塔頭 臨川寺のご本尊さまも丈六の弥勒菩薩さまでした。)







開山御影堂(重要文化財 江戸時代)
元は興福寺の別当坊だった一乗院の遺構を移築したものです。
今の大河ドラマに出てくる室町幕府最後の将軍義昭公はこちら一乗院で出家していました。



10世紀から続く門跡寺院の格式高い建物です。2022年まで修復工事中です。

内部には国宝 鑑真和上が安置され、昭和56年には東山魁夷画伯による障壁画が奉献されています。







東征伝によると和上の亡骸は荼毘にふされ、境内北東の墓所に埋蔵されました。
この静かな聖域に身を置くと命がけで来日され、日本仏教に多大な功績を残された和上の遺徳が偲ばれます。





金堂の西側には戒壇があります。
僧侶の受戒が行われる重要な施設です。かっては戒壇堂の建物がありましたが、文禄5年(1596)の地震で倒壊し、元禄9年(1696)に再建されましたが江戸時代末期嘉永元年(1848)に消失し、以後、再建されていません。

最上部のストゥーパは昭和53年に築かれたものです。





今も天平の息吹を感じることのできる唯一のお寺だと思います。













鑑真和上創建の唐招提寺①

2021年01月22日 08時29分00秒 | 日記
 徳融寺の後、奈良交通バスで奈良西の京にある唐招提寺に来ました。





聖武天皇が中国から招いた高僧・鑑真和上創建の寺院です。
何度の苦難の末に来日を果たした鑑真は東大寺で5年間を過ごされた後、天平勝字3年(759)この地を下賜され、戒律を学ぶ人たちの為に私寺「唐律招提」を開きました。





井上靖の小説"天平の甍"で名高い国宝の金堂です。平成12年(2000)から10年に及ぶ「金堂平成大修理」が行われて往時の姿が見事によみがえりました。
(建物だけではなく、基壇まで解体し、組み直す大がかりな修理でした。)



金堂ご本尊の盧舎那仏坐像(国宝 天平時代)です。高さ約3mの堂々とした像で、この時代特有の脱活乾漆(だっかつかんしつ)技法で制作されています。



千手観音立像(国宝 木心乾漆造り 天平時代)です。
高さ5m36cmの丈六の観音さまで、通常の42臂(ひ)の他に911本の小脇手を持たれています。制作当初は合計で千本あったと思われます。
その手には多くの持仏(じもつ)を持たれ、ひとりでも多くの人達を救済さるようとされる観音さまの慈悲を感じます。

「金堂平成大修理」の際に解体修理されています。写真で見ましたが凄い部材の数です。



薬師如来立像(国宝 木心乾漆造 天平時代)です。
昭和47年に修理が行われ、左手掌の中から3枚の古銭(和銅開珎、隆平永宝、万年通宝)が発見されました。
降平永宝は延暦15年(796)に鋳造された事からこの像の制作年代を巡り今も論争があるそうです。



金堂内は全て内陣と考えられている為に通常は立ち入ることができません。





鼓楼(国宝 鎌倉時代)
鼓楼と呼ばれていますが太鼓は無く、鑑真和上将来の仏舎利が国宝 金亀舎利塔におさめられ初層内部の厨子に安置されていた事から舎利殿とも呼ばれています。
しかし、何より5月19日に行われる"うちわまき"の方が有名ですね。

次に続きます。

(堂内の写真は絵葉書からの転載です、)