京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

初秋の常照皇寺

2021年10月31日 19時38分00秒 | 日記
 常照皇寺は南北朝時代、北朝の最初の天皇・光厳天皇が退位され法皇となられ、貞治元年(1362)に開かれた禅宗寺院です。





山門から山寺の風情が漂う寺院です。

朝廷が南北に分かれ、吉野を本拠に南朝が、また、京都には足利幕府の後ろ楯で北朝とが60年余りも抗争を繰り返して来ました。







出家され法皇となられた光厳天皇は40才過ぎに禅の修行に入られました。

巡業の土地、この地の無住だった寺院を改修し、住持となられました。







境内は京都府の史跡に指定されており、国の天然記念物「九重桜」を始め、御所から株分けされた「左近の桜」や一重と八重が一枝に咲く「御車返しの桜」などの名木が植っています。





方丈内部です。
非常に開放感のある空間です。

南庭には桜が植わり華やかさがありますが北庭は池泉鑑賞式の変化に富んだ庭園です。
これから紅葉が素晴らしいです、




紅葉も始まったばかりです。











京都京北 周山城址を訪ねて

2021年10月30日 08時22分00秒 | 日記
 月に何度となく通っている京都アスニーで「周山城址を熱く語る」のリーフレットを見つけ、電話で参加をお願いしました。



ところが、緊急事態宣言の中でもあり、しかも"地元の人達に周山城址を知ってもらうのが主旨"との事でした。

事情が許せば周山城址登城会と講演会の両方に参加させて欲しい旨をお伝えしていました。
10月からは宣言も明け、主催者の方から"参加可"の連絡を頂きました。

周山城址への登城会は当初は30名の予定でしたが約50名の方が登城会に参加されました。
14時から講演をされる中井先生も一緒に登られました。

地元の方がガイドをされ、途中、見所やビューポイントを説明されました。









約1時間で標高480mの山頂にある本丸に着きますが、途中にも石垣の跡や石切場が随所に点在しています。
石はこの山から産出されるチャートです。

山城に使われる石材は現地調達が原則で遠くから搬入することは無いそうです。

 

最近ではレーザー光線による赤色立体図の作成が容易になり、多くの山城の構造が明らかになってきています。



周山城は若狭より京都への周山街道の抑えとして、天正7年(1579)に明智光秀により築城されました。







本丸跡で解説をされる中井均先生です。
近世織豊期の城郭研究の第一人者で今年3月に滋賀県立大学の教授を退官されました。
日頃カルチャーでお世話になっている先生です。


本丸跡には天守台が残り、安土城天守台と同様に地下に穴蔵があり入口が3カ所ある特異な構造をしています。

中井先生の解説では三層の天守閣が建っていたようです。周囲からは瓦片も発見されていて天守は瓦葺きだったようです。

堺の豪商で茶人でもある津田宗及の日記「津田宗及茶湯日記」の中には天正9年(1581)8月に明智光秀に茶会に招かれたことが書かれているので少なくとも天正9年には城は完成していたと思われます。

中世までの山城は土の土塁の城でしたが、織田信長、豊臣秀吉の織豊期には石垣で縄張りをしているのが特徴で、この周山城は、その過渡期に築城された城址です。

中井先生は、地元の人達しか知られていなかった周山城址を40年前から踏査され独自の「縄張図」を発表されています。

当時、一歩を約1mとして実測で計測されたそうです。現代の"伊能忠敬"ですね。







主郭の西側には3段の石垣と虎口(こぐち)が保存状態も良く残っています。

虎口には横矢がかかり防御機能も考慮された要塞になっています。







やがて豊臣の世となり丹波地方の拠点が亀山城に移り、役目を終えた周山城は破城(城割り)になり、石垣の一部は崩されていますが、石垣の城と土の城とが同居とが同居していて、当時の姿を留めている唯一の城址です。

明智光秀が築いた坂本城、福知山城、黒井城、亀山城などは、その痕跡を地上に一切残されていない事を考えると、周山城跡の石垣が残っているのは奇跡的な事です。



道の駅「ウッディ京北」で昼食を取り、14時からの講演までの時間を使い常照皇寺を訪ねます。





智積院 夜間特別拝観

2021年10月29日 07時26分00秒 | 日記
 圓徳院を拝観の後、智積院へときました。
智積院には無料の駐車場があるのが有難いです。

智積院会館が建て替えられ、さらにその向かいには新収蔵庫が建設中です。





智積院では毎年の中秋の日に観月会が行われていますが、今年は緊急事態宣言の為に中止となりました。

その代わりとしてこの23日から31日までの9日間、夜間拝観を実施されています。





通常は非公開の宸殿も公開されています。
久しぶりに堂本印象の作品を鑑賞しました。







(宸殿内は撮影禁止です。写真はネットからの転載です。)

宸殿は仏画や水墨画、抽象画と彼の多彩な絵を一度に見れるところでもあります。






ライトに浮かぶ名勝庭園も趣きがあり、昼間に見るより幻想的です。







長谷川等伯「楓図」と一子久蔵の「桜図」の復元模写です。

この地は豊臣秀吉が夭折した鶴松の菩提を弔う為に建立した祥雲禅寺の跡地で、長谷川等伯親子の障壁画はその時のものです。
智積院では以前のお寺の障壁画を大切に後世に伝えています。




また、京都女子大学の学生さんによる琴の演奏や生け花が展示されるなど、コロナ禍の中、貴重な発表の場となっています。

来年こそは、"中秋の観月会"が行われる事を願わずにはいられません。







圓徳院 秋の夜間拝観

2021年10月28日 07時23分00秒 | 日記
 高台寺の夜間拝観の後、いつものパターン(?)で"ねねの道"の向かいにある圓徳院の夜間拝観に来ました。







夫・豊臣秀吉没後ねねは朝廷から「高台院」の号を賜り高台寺を建立します。

豊臣の痕跡を徹底的に破壊した徳川家康ですが、ねねの人望からでしょうか?寺の建立に協力します。

その際に今の圓徳院の地に伏見城の化粧御殿とその前庭を移築し移り住みます。

それから77歳で没するまでの19年間を圓徳院に住まい、秀吉の菩提を弔うために毎日、高台寺に通ったと言われています。
援助したのは、ねねの兄・木下家定とその次男・利房でした。





方丈南庭のライトアップです。
プロジェクションマッピングは無く静かに観賞できる庭園です。

日本庭園の研究者で作庭家でもある森蘊(おさむ)です。
比較的新しい庭園ですが、随所に古さの演出がされています。



長谷部等伯筆の障壁画です。
オリジナルではなく、Canonの綴りプロジェクトで制作された高精細複写の障壁画です。
太陽光線やカメラのフラッシュにも耐え劣化することがありません。









圓徳院方丈16面を飾る赤松燎(あかまつ りょう)が描いた障壁画です。

障壁画は平成7年に完成しましたが、赤松燎は翌年に亡くなっています。





没後25年で圓徳院内は彼の作品が展示されています。







北書院の庭園です。
前述の伏見城化粧御殿の前庭を移築したものです。

落城の際に火を浴びてもろくなっている石も多く、昼間に見ると赤っぽく変色しているのがわかります。

庭園の景石は各大名から寄進された名石ばかりです。

次に案内状を頂いている智積院へと向かいます。



高台寺 秋の夜間拝観

2021年10月27日 08時35分00秒 | 日記
 10月24日、この秋の最初の夜間拝観は高台寺からスタートします。





紅葉はまだ進んでいませんが、ライトに照らされた庭園や茶室を見ていると心が落ち着きます。









毎年、方丈南庭のプロジェクションマッピングが話題を呼びますが、今年のテーマは「鬼」でコロナ退散の願いが込められています。





唐門に浮かび上がるのは高台寺を代表する茶室「鬼瓦席」に掛かる鬼瓦です。





派手さは無いですが、禅寺らしい演出です。









開山堂周辺です。
錦秋には臥龍池に紅葉が映り込み素晴らしい光景となります。

次に高台寺の塔頭・圓徳院へと向かいます。