京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

京都御苑の桜

2024年03月29日 08時23分00秒 | 日記
 3月28日は、久しぶりに京都に。





やって来たのは京都御苑です。
地下鉄今出川駅で降りて東に進むと冷泉家があり塀に沿って桜が咲いています。
今出川沿いには一本しか見えませんが、桜は一本でも存在感があります。



今出川御門を入ると五摂家筆頭だった近衛家邸宅跡があります。















多くの"洛中洛外図屏風"に描かれていて"近衛邸の顔"になっていたようです。

近年、庭園の整備も進み石組や石橋がよく見えるようになりました。







京都の和菓子の老舗"笹屋伊織"も出店され、休憩所が増えました。





一本だけ存在感を放つ白木蓮です。









南に進むと桃園があり、紅の桃の花を中心に綺麗に咲いています。









更に南に進むと左側(東側)には"出水のしだれ桜"が五分咲き程度でしょうか?
一本桜ですが、多くの観光客を集めています。







西側には"出水の小川"が流れ、馬酔木越しに見る出水のしだれ桜がお気に入りな光景です。

次に烏丸通を挟んで移築された"有栖館"と、その南側にある聖アグネス教会を見学します。






~ 大坂城歴史探訪ウオーク「大坂城をのぞむ、大坂城からのぞむ」

2024年03月28日 08時46分00秒 | 日記
 3月26日は、京阪電鉄主催の表題のツアーに参加しました。









大手門内の枡形に集合の後、2班に分かれて巡ります。

大阪城は戦国時代の大坂本願寺(石山本願寺)を前身とし、織田信長と戦った石山合戦、豊臣秀吉による築城、大坂の陣による落城、徳川幕府による再築、明治維新の動乱による焼失、明治維新後の陸軍管轄、戦後の公園整備と、日本の歴史とつねに深いかかわりを持ちながら現在に至っています。いま見ることができる石垣や堀、大手門・多聞櫓・千貫櫓などといった古建造物はすべて徳川時代以後のもので、一帯は国の特別史跡に、古建造物のほとんどは重要文化財に指定されています。(大阪城天守閣HPより)







大手門を入ると枡形があり、正面には徳川の権威を示すかのような巨石が配されています。





多聞櫓を潜り西の丸庭園内にある千貫櫓へ。












石垣に使われている石は主に瀬戸内から船で運ばれて来た花崗岩で、中には担当した大名の家紋が刻印されています。
(◎の刻印は肥後熊本藩二代加藤光尚が石垣を普請した事を示しています。)

千貫櫓(重文)は、大手口を北側から守る隅櫓で、西・南側は西外堀に面しています。

今回は内部には入っていませんが、西の丸の櫓としては伏見櫓に次ぐ規模を持ち、構造はかつて西隣にあった坤櫓とほぼ同じだそうです。
ただし、坤櫓にはない唐破風がつけられている事から、この櫓の格式の高さを表しています。

石山本願寺と織田信長との戦いで、この櫓を、攻めあぐねた信長軍が「千貫文の賞金を出してでも奪いたい櫓だ」と語り合ったと「武功雑記」に書かれています。
「千貫櫓」の名称の由来となったと言われています。

毎週の土曜日、日曜日、祝日に公開されています。





西の丸庭園を北上すると坤櫓跡があります。
残念ながら第二次世界大戦の大阪大空襲で消失しています。











更に北上すると、この日のメインイベント乾櫓内部の見学です。
実に9年振りの公開だそうです。

この櫓は西の丸の西北に建てられているため「乾櫓」と呼ばれています。
この櫓は徳川幕府による大坂城築城の最初の年(元和元年・1615)に築かれ、大手口の北に建つ千貫櫓と並び、現在の大阪城に残る古建造物の内でも最古となる建物です。

















乾櫓はL字形の2階建ての建物で一階と二階とが同じ広さになっていて大阪城内の他の櫓には無い珍しい構造の櫓です。

この櫓からは大手口・京橋口と、大阪城の二つの入口を望む事が出来ます。







乾櫓再築工事が完了して数年後の寛永11年(1634)閏7月25日、3代将軍家光は完成後はじめて大坂城に入城しています。
時代は変わり徳川の世になった事をアピールする事でした。

入城の翌日には、それまで大坂・堺・奈良に課していた地子(土地税・現在の固定資産税)を永久に免除すると宣言しました。



大阪城公園の西の丸庭園内に重要文化財「焔硝蔵(えんしょうぐら)」があります。焔硝とは火薬という意味です。

徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685年)に建造されたものです。





また、西の丸庭園内には大阪の桜の標本木があり、花が5〜6輪咲くと開花宣言がされます。





本丸への入口には巨石が据えられています。
見える面は巨大ですが、奥行きは70cmあまりだそうです。











大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)は。太平洋戦争の敗戦まで、大口径の火砲を主体とする兵器の製造を担ったアジア最大規模の軍事工場でした。

現在では、大坂城の歴史の変遷を示したパネル展示や飲食店やお土産店舗が入っています。







天守閣に登ろうとしましたが、結構な雨の中で多くの外国人の方が並んでいたので、この日には断念しました。










藤田美術館

2024年03月26日 08時57分00秒 | 日記
 3月18日、藤田邸跡公園を散策後、隣接している藤田美術館を訪ねました。






藤田美術館と言えば先ず第に思い浮かべるのは国宝の曜変天目茶碗(中国・南宋)です。

令和元年(2019)4月13日~6月9日まで奈良国立博物館で開催された「国宝の殿堂 藤田美術館展」-曜変天目茶碗と仏教美術のきらめき-が思い出されます。



藤田美術館のコレクションは、明治時代に活躍した実業家、藤田傳三郎と、息子の平太郎、徳次郎によって築かれました。大名旧家や寺社に伝えられてきた文化財の多くが、明治維新を機に、海外へ流出したり、国内で粗雑に扱われたりすることに傳三郎が危機感を覚えました。傳三郎は、実業家であると同時に、若い頃から両親に物数奇を戒められながらも、とうとうその性質を変えることができなかったほどの美術品愛好家でもありました。「この際、大いに美術品を蒐集し、かたわら国の宝の散逸を防ごう」と決意して蒐集に乗り出しました。美術品への想いは嗣子らがその志を受け継ぎ、「これらの国の宝は一個人の私有物として秘蔵するべきではない。開館から2017年6月11日の一時閉館までの藤田美術館の建物は、明治から大正時代にかけて建てられた藤田家邸宅の蔵を改装し、展示室として再利用したものでした。邸宅のほとんどを焼失した 1945 年の大阪大空襲で幸いにも延焼を免れ、中に収められていた美術品を守り抜いた蔵でもありました。
 
新たな藤田美術館もまた、60 年あまり親しまれてきた “ 蔵の美術館 ” として、受け継いだ美術品を次世代へとつなぎたいと考えてい広く世に公開し、同好の友とよろこびを分かち、また、その道の研究者のための資料として活用してほしい」と、1954年に藤田美術館を開館させました。

開館から2017年6月11日の一時閉館までの藤田美術館の建物は、明治から大正時代にかけて建てられた藤田家邸宅の蔵を改装し、展示室として再利用したものでした。邸宅のほとんどを焼失した 1945 年の大阪大空襲で幸いにも延焼を免れ、中に収められていた美術品を守り抜いた蔵でもありました。
 
新たな藤田美術館もまた、60 年あまり親しまれてきた “ 蔵の美術館 ” として、受け継いだ美術品を次世代へとつなぎたいと考えています。(藤田美術館HPより)

「これらの国の宝は一個人の私有物として秘蔵するべきではない。
藤田傳三郎の志に感銘を受けます。

美術館の入口は建替え前の蔵の入口が使われています。



チケットな無く、入口で電子決済して入館します。

展示品の撮影もフラッシュを使用しなければ可となっています。


二重切竹花入(千利休)


竹図




竹図屏風





重文 銹絵絵替角皿 (尾形乾山・光琳)


舟形花入(千宗旦)


茶杓 銘 松風(千宗旦)


小倉色紙


雪中梅花小禽図


赤銅臥牛香炉


堆朱牡丹文大香合




国宝 深窓







藤田家雛人形

藤田家伝来の名品の数々、、、いい物をお持ちです。
しかも、ゆったりとスペースを空けて展示されています。

こちら藤田美術館や中之島香雪美術館、福田美術館程度の展示スペースが丁度いいですね。
ひとつひとつの展示品をじっくりと観賞することが出来ます。









観賞後は、ロビーでゆっくりとお茶と団子を頂く事も出来ます。
500円で頂けるのはバーゲンプライスです。
ここにも藤田傳三郎の精神が生かされているように思います。

展示予定によると、国宝・曜変天目茶碗は6月の一ヶ月間展示されるそうです。


藤田邸跡公園

2024年03月25日 09時10分00秒 | 日記
そ 3月18日、旧大阪市公館を見学後すぐ横に隣接する「藤田邸跡公園」を散策しました。









藤田邸跡公園(ふじたていあとこうえん)は、大川左岸の大阪市都島区網島町に位置する都市公園です。
北に隣接している桜之宮公園の一部となって敷地面積は約16000㎡もある広大な公園になっています。













北は桜之宮公園、西は大川、南は大阪市公館、南東は藤田美術館、東は旧太閤園に隣接しています。



元は藤田財閥の総帥である藤田男爵家の敷地の一部で大阪市から名勝に指定されており、立派な日本庭園がある。
春は桜の名所ともなっている。









後に藤田財閥となる藤田組の総帥、藤田傳三郎が大川の左岸、網島の地にあった日本郵船会社大阪支店長屋敷を明治19年(1886)に買い取って移り住み、さらに前年の明治18年の淀川洪水で荒廃していた大長寺(後に移転)の敷地を明治20年(1887)頃に取得しています。

ちなみに大長寺は近松門左衛門の人形浄瑠璃、「心中天網島」の舞台となったお寺です。

明治26年(1893)から明治29年(1896年)にかけて旧本邸を完成させています。









明治45年(1912)には男爵となった傳三郎が死去し、家長・男爵・財閥総帥の座と敷地の大半、そして本邸は長男の平太郎が相続し、東邸は次男の徳次郎、西邸は三男の彦三郎がそれぞれ貰い受けた。

昭和18年(1943)には西邸は大阪市の所有となり、市立実業会館として使用されているいます。

しかし、昭和20年(1945)6月7日の第3回大阪大空襲により表門・東邸・鉄筋コンクリート造りの蔵・多宝塔などいくつかの建物を残して他はほとんどが焼失してしまいます。
公園内には多宝塔をはじめ石燈籠や石仏が残されています。

無料で公開されている公園ですが、開園時間10時から16時までです。

本邸跡を中心とする中央部は昭和29(1954)に鉄筋コンクリート造りの蔵を本館とし、多宝塔を擁する「藤田美術館」として藤田家の至宝を一般公開されて来ました。





近年、本館であった蔵が取り壊され令和4年(2022)には4月1日には現在の新「藤田美術館」が開館しています。

次に藤田美術館へと向かいます。



旧大阪市公館

2024年03月24日 09時43分00秒 | 日記
 3月18日は"まいまい京都"のツアーで【旧大阪市公館】世界の賓客をもてなした迎賓館へ!館内スペシャルツアー〜竹越健三のアールデコ傑作建築。茶室「二水亭から特別コースランチまで〜に参加しました。
(いつもやたらと長いタイトルです。)











旧大阪市公館(きゅう おおさかしこうかん)は、大阪市都島区網島町に所在する建築物です。

毛馬桜之宮公園の南端に近い、旧淀川(大川)左岸・寝屋川との合流地点付近に位置し、JR東西線大阪城北詰駅から徒歩1分の好立地にあります。

元々は迎賓館として利用され、なにわ迎賓館とも呼ばれていましたが、平成26年(2014)11月以降は株式会社プラン ドゥ シー (Plan・Do・See) に貸与され、レストラン・ブライダル施設「ザ・ガーデンオリエンタル・大阪」として営業されています。

ロビーの天井には大阪の四季描かれ、柔らかな間接照明で浮かび上がるように見えます。



















東庭にある茶室「二水亭」の両側には小川が流れていますが、茶室のある場所を、市役所のある中之島、両側の小川を堂島川と土佐堀川、そして小川が注ぐ池を大阪湾と見立てた趣向となっています。
「二水亭」という名はそれに由来し、当時の中井光次市長が命名されました。











現在はブライダルを中心に営業されている為、ふたつの趣きの異なるチャペルが併設されています。
自然光を巧みに取り込んだ素晴らしいチャペルです。






茶室内の竹細工は堺市出身の四代田辺竹雲斎さんの作品です。
今や海外でもご活躍されています。



令和元年6月28日、安倍昭恵内閣総理大臣夫人は、大阪・京都においてG20大阪サミット配偶者プログラム(1日目)を主催されました。
このプログラムには、アルゼンチン、オーストラリア、カナダ、欧州連合(欧州理事会)、フランス、インドネシア、メキシコ、韓国、南アフリカ、トルコ、英国、シンガポール、スペイン、タイ、ベトナム、金融安定理事会(FSB)、経済協力開発機構(OECD)、世界銀行の首脳配偶者等が参加しました。



安倍総理夫人は、ここザ・ガーデンオリエンタル・大阪にて、首脳配偶者一行をお出迎えされました。

写真は池の鯉に餌をやるG20首脳配偶者の皆さんの写真です。
その時のサインもレストランの一角に展示されています。

その後、安倍総理夫人と首脳配偶者一行は、京都の東福寺へと向かわれました。
この日は偶然にも東福寺天得院を拝観していて東福寺本坊境内は立ち入り禁止でした。

京都での移動は人力車「ゑびす屋」さんが担当され、英語が堪能な車夫さんが待機されていました。















次に「ザ テラスルーム」でランチコースを頂きました。



さすがはブライダルをされているだけにどの料理も洗練されていて美味しかったです。