京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

【大仏】京都に大仏があった!

2019年05月31日 20時30分14秒 | 日記
5月10日は、まいまい京都のイベント「京都に大仏があった!?梅林崖長と凹凸ツアー
〜日本史上最大!大仏殿遺構から太閤坦まで、豊臣一族の巨大サンクチュアリ〜に参加しました。

ガイドはNHK「ブラタモリ」でお馴染みの梅林秀行さんです。







正面通りと川端通りが交わる所に七条甘春堂さんがあります。



正面通りを東へと進みます。天下人秀吉の土木工事にしては(?)に思われる事でしょう!
まず、道が細い。もう一点が道路が一直線ではないことです。
鴨川は江戸時代になって川幅が1/3に狭められ、土地が造成され、祇園界隈などの遊興地や住宅地が出来ました。当時の東山地域の人口増加に対応した為と思われます。





少し東に向かうと道幅が広がります。丁度、耳塚のある辺りです。ここからが東側が秀吉の遺産です。



正面通り突き当り(つまり正面通りの起点)に現在、豊国神社がありますが、かっては方広寺の巨大な大仏殿が存在していました。現在の奈良 東大寺大仏殿の1.5倍もの巨大さです。







白い縦の筋が入っている巨石は加賀100万石の前田家が奉納した「泣き石」で、あまりの労役、費用の大変さに前田家が泣いたと、また、石が元の場所に帰るたいと泣いたとも伝わります。
蒲生氏郷が寄進した「蒲生石」は4間と2間の巨石で、秀吉が「木やり」を歌い、遊女が石の上で音頭を取って運んだと伝わります。



石垣や豊国神社参道の石には大名の印が刻印されています。





秀吉は死後、後陽成天皇から「豊国大明神」の神号を賜わり、豊国神社が創建されました。

唐門は、国宝で元は伏見城の建物と伝わり、二条城、金地院を経て、明治31年に移築されました。「豊国大明神」の神額は後陽成天皇の宸筆です。
また、欄間の彫刻がそれぞれ大きなのも特徴で、正面欄間の鶴の彫刻は左甚五郎作と伝わり、見事な出来に飛び立たないよう目を入れなかったと伝わります。
他の2つの国宝唐門(西本願寺、大徳寺本坊)と比べてもスケールの違いがわかります。





こちらが豊臣が滅亡するきっかけともなった大鐘楼で中に「国家安康 君臣豊楽」の文字が見えます。また、大仏殿を支える柱を束ねていた鉄製の金具や青銅製のものは大仏殿の屋根の四隅に吊るされた青銅製の風鐸の一部が鐘楼内に見えます。







更に東に大仏殿跡の礎石があり、発掘調査に基づいて整備され、公園となっています。







境内は豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院、三十三間堂を含む広大な面積を有し、大仏は高さ19m、大仏殿の高さ50m、南北82m、東西57mもの壮大なものでした。

唐門横に並ぶ8基の六角型石灯篭は豊国恩顧の大名による寄進で元は参道に57基が並んでいました。中には、「大野修理大夫治長」の名前も確認出来ます。









さて、慶長3(1598)年8月18日に亡くなった秀吉は阿弥陀ヶ峰の豊国廟に密かに埋蔵され、翌慶長4年に「正一位豊国大明神」の神号が朝廷より与えられ、吉田神道による豊国神社が創建されました。社領1万石、社域30万坪の広大さでした。





ところが、慶長8年に徳川家康が征夷大将軍に任じられ、徳川の世となり徳川による豊臣潰しが始まります。慶長20年には「豊国大明神」の神号は剥奪され、法号を「国泰員俊山雲竜」とし、仏法による墓に改葬されました。その秀吉の墓が現在の豊国神社宝物館裏にひっそりと建っています。

次に宝物館です。何気に社務所の裏にありますが国の登録有形文化財です。

まず目につくのは重文の豊国祭礼図屏風です。作者は狩野内膳。秀吉の七回忌にあたる慶長9年8月12日〜19日にかけて例年を遥かに凌ぐ規模で挙行された祭礼図です。
大仏殿の大きさがら分かる屏風で正面通りに面する仁王門は現在の知恩院三門を凌ぐ規模で、七条通りに面する門は、現在、東寺南大門へと移築されています。
当時の方広寺を知る貴重な文化財です。

その他に重要文化財が「鉄燈篭」「黄紗綾地菊桐紋付胴服」「骨喰藤四郎」「蒔絵唐櫃」など秀吉ゆかりの品々が展示されています。







太閤垣の北隅には秀吉の孫である国松と秀吉の側室京極龍子の供養塔があります。









今回、初めて豊国廟まで登りました。約500段の石段があります。
長らく風雨にさらされ荒れるがままになっていましたが、豊国神社が復興された明治31年(1898)、秀吉三百年祭に際し、御廟所として再建され、周辺も整備されました。石塔は伊東忠太の設計デザインです。

記事にはしていませんが、妙法院や新日吉神宮なども巡り大変に有意義なイベントでした。
梅林さんの知識の豊富さ、物事を違う角度から見る視点、説明の的確さ、、、さすがと思うイベントでした。

この後、京博の「一遍上人聖絵と時宗の名宝」展に向かいました。


東寺 別格本山 観智院

2019年05月30日 08時49分49秒 | 日記
東寺 灌頂院の後、観智院を拝観しました。





観智院は東寺一山の勧学院で所蔵する真言密教の文書類は「東寺百合文書」の大半を占める程の質と量を誇ります。



客殿は国宝で、慶長10年(1605)の再建で入母屋造り一部軒唐破風を付けた桃山時代書院造りの典型です。昭和2年に防災上の観点から銅板葺に改められた屋根を当初の杮葺に改修されました。平成29年に落慶し、実に89年にもとの姿に戻されました。

床の間には、宮本武蔵筆の「鷲の図」が描かれていますが、かなり劣化が進んでいます。





庭園は平成29年に真言宗立教開宗1200年慶讃大事業として作庭され「涅槃禄-長者の庭-」と名付けられています。

書院には浜田泰介筆による「四季の図」が描かれていますが撮影禁止です。



また、室町時代の書院風の茶室「楓泉観」があります。

いつもは重要文化財の五大虚空蔵菩薩像がおられますが、東博に出張中で写真が展示されていました。
愛染明王さまはいらっしゃいましたが奥の厨子の弘法大師像もまた、東博に出張されていました。

帰りに東寺の食堂で観智院の御朱印を頂き、帰路につきました。



東寺に来る前に京都駅東側にある京都ラーメンの名店「第一旭」でチャーシュー麺を頂きました。
10時20分に着きましたが既に10名の行列が出来ていました。回転がいいので10分程で店内に入れました。
やはり、こちら「第一旭」、お隣の「新福菜館」、銀閣寺道にある「ますたに」は美味しいです。




KYOTO歴史散歩〜東山・時宗寺院と旧跡めぐり

2019年05月29日 08時14分25秒 | 日記
5月20日は、表題のイベントに参加しました。
京都国立博物館で開催中の「国宝 一遍上人聖絵と時宗の名宝」展の関連イベントで朝日新聞社が主催されています。

講師は時宗研究の第一人者 長澤昌幸さんです。先生は京都西山短期大学で教鞭を執っておられる一方、大津市にあり時宗寺院 長安寺でご住職も務めてられておられます。



円山公園を東に進みます。その中心が安養寺です。かっては六つの坊を持つ大寺院でしたが、今は「左阿弥」だけが残り料亭として営業されています。

その円山公園はかっては祇園感神院(今の八坂神社)と安養寺の境内地でしたが明治19年(1886)その多くが京都府に接収され明治19年(1886)公園として整備されました。安養寺の山号"慈円山"から円山公園と名付けられ、庭園は6代目小川治兵衛の作庭です。





円山公園の東側には六阿弥の跡と思われる痕跡が点在しています。寺院の庭園 滝組みと思われる石組みもそのままの状態で存在しています。





今回、特別に六阿弥で唯一現存している左阿弥の敷地にも入れて頂きました(現存は料亭左阿弥として営業されています。)敷地内には織田有楽斎の子 長頼の大きな供養塔があります。こちらで雲生寺道道八と号し、茶道を楽しんだ風流人でした。











次に円山公園の最高位置にある安養寺を訪ねます。すぐ北側には、大晦日の除夜の鐘で名高い知恩院の大鐘楼があります。



安養寺は平安遷都時に桓武天皇の命で伝教大師最澄が、平安京の守りとして創建した寺院です。鎌倉時代には法然が庵を結び暮らした「吉水草庵」の旧跡で、親鸞聖人もこちらで法然上人に専修念仏を学んでいます。





夕暮れ時には西山に日が沈み美しい光景が眼下に広がります。

次に長楽寺を訪ねます。こちらは5月9日の記事に詳しく書いています。よろしければご覧下さい。





最後に円山公園内にある円山野外音楽堂近くにある双林寺を訪ねます。





円山野外音楽堂のある場所は、池 大雅の居住跡です。柵越しに「大雅堂跡」の石碑が建っています。



双林寺は金玉山と号し、元時宗国阿派の本山でしたが現在は天台宗の寺院です。桓武天皇が伝教大師最澄のために伽藍を建立したのが始まりと伝わります。ご本尊さまは釈迦如来ですが、歓喜天さまが前面に出ていますね!







京博の展覧会を鑑賞していたので長澤先生の解説がよく解り、大変に有意義なイベントでした。

イベントは予定通りに終わり、向かいにある「無碍山房」で一息することにしました。


東寺 灌頂院 「テクノロジーと神秘 空海ノ光」

2019年05月28日 07時54分39秒 | 日記
灌頂院は東寺で最も重要な儀式のひとつ伝法灌頂(でんぼうかんじょう)や後七日御修会(ごしちにちみしお)が行われるお堂です。儀式の場なのか仏像は一体もありません。







今回、こちら灌頂院で当初5月25日までの予定で「曼荼羅エキシビション」が行われていましたが、好評につき6月21日まで延長される事がHPで発表されました。



いつもは、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅が掛けられているところにはスクリーンが掛けられ弘法大師空海が理想とした曼荼羅の世界が現代の最新映像技術で表現されています。











堂内には、ミラーボール(?)もありかってのジュリアナ東京(?)のような雰囲気です。

しかし、東寺も思い切った事をされますね!

遠く平安時代に当時の先進国唐から最先端の真言密教を伝えた弘法大師のこと。彼の先進性、真言密教を立体的に表現したとされる講堂の立体曼荼羅を見れば、今回のイベントも弘法大師はお許しになられる事だろうと思います。

高台寺では、アンドロイドが般若心経を唱えたり、法話をする時代です。
仏教界も先端を走ってもいいんだとの思いを強くしました。

拾翠亭 九條家遺構と厳島神社

2019年05月27日 07時58分34秒 | 日記
5月15日の葵祭を観覧後、久しぶりに拾翠亭を訪れました。
こちらは参観日が毎週木曜、金曜、土曜日と葵祭、時代祭の日です。





現存する建物は江戸時代後期に建てられ、五摂家のひとつ九條家の別邸として主に茶会や歌会などに使用されました。





二階建ての数寄屋風書院造りで、二階の外回りには縁高欄の手すりが施されており、屋根は入母屋造瓦葺きで一部杮葺きとが組み合わされています。





一階は三室からなり、主として十畳の広間の茶室と七畳半の控えの間、及び広間の北側の三畳の小間からなります。







前には九條池が広がり春は椿、夏は百日紅が咲き、また、カワセミやアオサギの憩いの場てなっています。
西寄りには中島があり、厳島神社を祀っています。厳島神社は九條家の鎮守社で平 清盛が母の祇園女御のために安芸の厳島神社を勧請したのが始まりと伝わります。
鳥居は清盛の寄進と伝わり唐破風の意匠が施されており京都三珍鳥居のひとつです。





拾翠亭は現在京都市の所有となっており、運営は国民公園協会がされています。

料金は100円と格安です。また、参観日以外に貸切りも可能で、平日なら一日利用しても12,000円です。

この後、今日に落慶法要を迎えた仁和寺の観音堂へと向かいます。