京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

無鄰菴 文化財講座「近代の数奇屋大工たち」

2018年05月27日 17時52分43秒 | 日記
今日、5月27日は無鄰菴で京都工芸繊維大学の矢ヶ崎善太郎先生の文化財講座に参加しました。



ここ南禅寺界隈には明治に政財界のお偉方たちが競って庭園をつくりました。ここ無鄰菴の施主は山縣有朋で南禅寺別荘群の第一号です。庭園には主屋が必要で今でも多くの立派な数奇屋建築が残っています。先日拝観した對龍山荘の主屋の對龍台も立派な数奇屋で縁側を広く取り、軒先きが張り出しています。それを支える技術もさりげなく表されていて、決して主張しないのが特徴で近世初期に絢燗豪華な建物が建築されたのとは全く違う方向性の建物が数奇屋、茶室です。





近代の数奇屋建築は庭師との共同作業で当時の数奇屋大工は露地づくり、茶文化の風流の心得も持ち合わせていたそうです。

座学のあとは茶室を拝見しました。藪内流の燕庵の写しで本格な茶室です。東側には茶室の伝統ではあり得ない月見台があり伝統に捉われない自分流を貫いた山縣有朋らしいです。











ここ無鄰菴の水は琵琶湖疎水から引いた一次水で
無鄰菴を流れた後に向かいの瓢亭に引かれ二次利用されています。







写真は無鄰菴を流れた疎水の水の出口です。


伏見の明治維新150年⑶

2018年05月25日 16時20分35秒 | 日記
次に京都鉄道事業発祥の地の石碑です。明治27年(1894)2月1日に高木文平を社長に京都電気鉄道株式会社が設立され、翌明治28年2年1日に我が国初の電気鉄道が東洞院塩小路〜伏見町下油掛間に開通しました。6.3km間を時速40km.40分で運行しました。駿河屋さんの角に石碑があります。
「京都鉄道事業発祥の地」の石碑はもう一ヶ所あり京都駅前にあります。



坂本龍馬 遭難の材木小屋跡
龍馬が寺田屋で伏見奉行所の役人に捕縛されそうになり命からがら脱出し、隠れた場所です。碑は設置場所の関係か今の大手橋の向かい側にあり今はマンションになっています。一緒に逃げている三吉慎蔵は自刃しようとしましたが龍馬に止められ、薩摩藩伏見藩邸に助けを求めに行き、薩摩藩留守居役、大山彦八が舟で材木小屋に向かい無事に龍馬を救出しました。慶応2年(1866)1月4日未明の出来事でした。





薩摩藩伏見屋敷跡
江戸時代、西国大名は参勤交代の際、洛中に入ることが許されず、伏見から山科を経て東へ向かっていました。その際の宿が薩摩藩伏見屋敷です。
のちに13代将軍家定に嫁いだ篤姫もここに1週間ほど滞在したそうです。のちの鳥羽伏見の戦で会津兵士の襲撃で焼失しています。





大黒寺
元和元年(1615)薩摩藩主島津義弘は島津家の守り本尊と同じ出世大黒天を祀るこの寺を薩摩藩の祈願所とし寺の名も大黒寺に改めました。別名「薩摩寺」とも言われています。
文久2年(1862)の寺田屋騒動で犠牲になった薩摩九烈士の墓があり西郷隆盛が自費で建立し、墓碑銘も自筆しています。
また、幕府の命で行った木曽川改修工事の予算超過の責任をとって自刃した平田靱負(ゆきえ)の墓もここにあります。









以上、三部作をご覧いただきありがとうございました。

伏見の明治維新150年⑵

2018年05月24日 22時48分57秒 | 日記
魚三楼の向かいに羊羹で有名な駿河屋があります。駿河屋は初代岡本善右衛門が室町時代中期の寛正2年(1461)に、当時船着場で栄えた伏見舟戸に「鶴屋」の屋号で饅頭屋を開いたのが始まりと言われています。名物「煉羊羹」は秀吉が聚楽第で開いた大茶会の引き出物として参加者に配られ賞賛を受けました。また、徳川の時代にも頼宣の庇護を受け、紀州徳川家の有力な御用商人となりました。

この日はあいにくの定休日でした。
また、徳川五代将軍綱吉の長女鶴姫が頼宣の孫の綱教に輿入れした際、同じ「鶴」の字を使うのは恐れ多いとして、屋号の「鶴屋」を返上し、徳川家にゆかりのある「駿河屋」を賜り、今日に至っています。

東本願寺伏見別院は会津藩屋敷跡にあり後に教如上人が家康からこの地を与えられました。鳥羽伏見の戦いの際は、会津藩の宿舎となり官軍との間で畳を盾にした激しい戦いが展開されました。
当時のものは、表門とその横の大銀杏のみです。





四辻の四つ当たり
伏見城下は東西約4km、南北約6kmで先ほどのは本願寺別院の前の通りは城下町の名残りで"四辻の四つ当たり"と呼ばれています。遠見遮断の城下町
の町割りの特色です。近くには清酒"神聖"の蔵元直営の鳥せい"があり横には伏見の名水のひとつ"白菊水"が湧いています。

土佐藩邸跡
土佐藩の伏見での出張所的な存在で藩主が滞在する御殿などはなかったようです。





寺田屋
伏見南浜の船宿で薩摩藩の定宿で幕末に二つの大きな事件が起こった事で有名です。ひとつは寺田屋騒動。文久2年(1862)4月23日に起こった薩摩藩士の同士討ち事件。尊攘派の9名が命を落としています。もうひとつは坂本龍馬遭難事件です。慶応2年1月24日未明、ここ寺田屋で坂本龍馬と三吉慎蔵が伏見奉行所の捕吏に襲撃され龍馬は腕を斬られながらも伏見薩摩藩邸へと助けられた事件です。寺田屋のお龍の機転で龍馬に急を告げた事は余りにも有名な話です。今回は内部には入っていません。







伏見口の戦い激戦地跡
ここ京橋は京都と大阪を結ぶ舟運業の中心地で伏見奉行所からの幕軍や新撰組が官軍と激戦を繰り広げましたが劣勢で民家に火を放ちながら千両松、淀へて逃走しました。





2日後の1月4日には官軍の東寺本陣に錦の御旗が立てられ翌5日には征討将軍仁和寺宮嘉彰親王が東寺本陣から戦場視察に向かい薩長軍を励まし、伏見南浜などを巡見し東寺本陣に戻られています。錦の御旗が巡回したのはこれだけでしたが効果は絶大でこれを聞いた徳川慶喜は歴史上の逆賊になりたくはないと思ったと言われています。
彼は水戸藩の出身なので幼い頃から尊皇思想が根付いていたんだと思われます。



⑶に続く

伏見の明治維新150年⑴

2018年05月23日 22時05分26秒 | 日記
今日、23日はNPO法人京都観光文化を考える会"都草"の歴史探訪「伏見の明治維新150年」に参加しました。
まずは御香宮神社です。神功皇后を主祭神に安産の神として信仰を集めており境内からは名水"御香水"が湧いています。





また、表門は、元和8年に徳川頼房による工事資金の寄進で伏見城の大手門を移築したもので瓦には三つ葉葵の紋が施されており重文です。



本殿は重文で慶長10年、徳川家康の命で板倉勝重が再建した檜皮藁五間社流造で平成2年の修理で当時の極彩色が復元されました。拝殿は寛永2年に徳川頼宣が寄進した割拝殿で平成9年に解体修理され中央右側には「鯉の瀧のぼり」いわゆる登竜門が左側には鯉に跨る「琴高仙人」など極彩色の彫刻が復元されました。





また、御香宮神社は新政府軍の本陣となり伏見奉行所の幕府軍との間で激しい戦闘が行われました。境内の「明治維新伏見の戦跡」の碑は当時の首相佐藤栄作氏の揮毫です。



次に伏見奉行所跡です。伏見及び八ヶ村の政務を行い、訴訟に関しては京都所司代の監督下にありました。初代はあの小堀遠江守政一(遠州)です。
鳥羽伏見の戦では薩摩藩の砲火で焼かれています。





次に京料理の魚三楼。鳥羽伏見の戦では官軍の台所番を務め、現在は9代目が伝統と技を受け継ぎ、料理にはすべて自家の井戸水を使っているそうです。また、右側の格子には鳥羽伏見の戦の弾痕が残っています。この戦乱で伏見の南半分が焼けましたがこちら魚三楼と御香宮神社は消失を免れました。





第2部に続きます。

夢之百年楽〜百年の夢を楽しむ〜 琵琶湖疎水

2018年05月19日 10時05分20秒 | 日記
今日の表題"夢之百年楽"は第三代京都府知事北垣国道の漢文で彼は遠く百年先の京都の行く末まで見据えて琵琶湖疎水の大事業を敢行したんですねぇ。今の政治家も少しは見習って欲しいものです!
さて明治23年に竣工した琵琶湖疎水は今も現役で使われている施設で京都市民にとって無くてはならない施設です。
琵琶湖の水を京都に引く事は豊臣秀吉も考えていた事ですが、当時の土木技術・測量技術では叶わないことでした。
時代は明治に下り政治が実質的に東京に移り京都の人口は激減し産業も衰退していきました。「第二の奈良」化を防ぐべく計画されたのが琵琶湖疎水です。
第三代京都府知事北垣国道は当時、東京工部大学校の卒論で琵琶湖疎水を取り上げた田邊朔郎が北垣の目にとまり京都府御用掛に抜擢されました。当時22才の若き青年技師でした。




(写真は南禅寺境内の水路閣で疎水分線です。)

琵琶湖疎水は大津市三保ヶ崎の取水口から山科・蹴上を経て京都市内に通じる運河で明治18年6月着工し23年4月にいわゆる琵琶湖第一疎水が完成しています。総工費は当時の金額で約125万円。当時の京都府の年間予算の約2倍の巨費を費やしました。
特に長等山の第一トンネルが難工事で現代のように重機もなく全ての工程は全て手作業で行われました。
明治政府による上地令で当時の南禅寺の境内9万坪の内、7万坪が政府により上地され民間に払い下げられ東山を一大工業地にする予定でしたが明治21年に高木文平とともにアメリカのアスペン水力発電所を視察した田邊朔郎は帰国後、北垣国道知事に水車による動力の確保はもはや時代遅れであり水力発電への計画変更を進言しました。京都府議会の可決、国の稟議も終えていたのですが北垣の英断で大幅な計画変更が行われました。
その後、建設されたのが蹴上発電所です。少し前に佐々木蔵之介さんがCMに出ていたあの施設で今も現役で関西電力水力発電所として役割りを果たしています。今年3月から毎週金曜日に事前予約にかぎり一般にも公開されています。





写真は蹴上船溜と南禅寺船溜との高低差約36mを解消する為の傾斜鉄道-インクライン-と関西電力蹴上発電所に通じる鉄管

琵琶湖疎水は水力発電、舟運だけではなく水車動力、庭園への引水、防火用水にも活用され特に水力発電で得た電力で京都電気鉄道が開通し京都の近代化におおいに貢献しました。

また、明治27年には鴨川運河が開通し大津から大阪への直接の舟運が可能となり明治末から大正にかけて最盛期を迎え1日100艘以上の舟が疎水を行き交ったと言われています。





写真は田邊朔郎博士の銅像と蹴上にある所謂、発電所取水系の設備でここから南禅寺別荘群の無鄰菴や阿有荘や大寧軒などに供給され庭園や池を巡った水は例えば無鄰菴の水は向かいの瓢亭へ、大寧軒のは對龍山荘を経て向かいの順正へと二次、三次的な利用され最終的には疎水に戻ったり鴨川に合流しています。





写真は国の名勝庭園の無鄰菴 山縣有朋の別荘で七代目小川治兵衛の作庭。南禅寺別荘群の始まりです。