京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

白州正子が愛した十一面観音像を求めて⑧旧竹林院

2019年09月30日 06時41分41秒 | 日記
拝観予定は滋賀院門跡で終わりですが、まだ時間があるので久しぶりに「元里坊 旧竹林院」を見学しました。



旧竹林院も坂本に数ある里坊のひとつで、主家の東西には広大な庭園が造られており、国の名勝庭園に指定されています。



庭園には大正年間に建てられた2つの茶室と、高台には四阿(あずまや)があります。









庭園内には大宮川から引かれた遣水の流れが心地よいです。



春は桜、初夏には躑躅、秋は紅葉、冬は雪と四季折々の風情が楽しめます。











庭園の管理が隅々まで行き届いていて、入られている造園店のレベルの高さが伺えます。
比叡山延暦寺のお膝元 坂本を堪能し、京阪、J Rを乗り継ぎ帰路に着きました。

来月はJ R草津線沿いにある擽野寺(らくやじ)、油田神社を訪ねます。

白州正子が愛した十一面観音像を訪ねて⑦日吉大社

2019年09月29日 08時59分53秒 | 日記
日吉大社は、およそ2100年前の崇神天皇七年に創祀された、全国約3800の日吉神社、日枝神社、山王神社の総本宮です。







拝観受付すぐにある大宮川に架かる大宮橋もなにげに重要文化財です。

やがて山王鳥居が見えてきます。古代から明治
まで続いてきた神仏習合の信仰を表す独特の形で「合掌鳥居」とも呼ばれます。



人馬舎の隣には本物の猿がいます。お猿さんは神様のお使いで「神猿(マサル)」と呼ばれ、「魔が去る・何よりも勝る」として縁起が良いとされています。



西本宮楼門の四隅にはお猿さんがいます。



西本宮本殿(国宝)





現在の社殿は天正14年(1586)に建てられ、「日吉造」という独特の形で床下にはかって仏事が行われていた「下殿」と呼ばれる部屋があります。延暦寺との強い繋がりを感じます。

その後、東本宮へと向かいます。道沿いに神輿収蔵庫があり7基の神輿が収蔵されています。4月には「山王祭」が行われます。
ちなみに7基ともに重要文化財に指定されています。鎌倉時代以降、度々、朝廷に対して強訴する際に使われたのが、こちらの神輿です。白川法皇の御代、天下の三不如意として、「賀茂川のみず、双六の賽の目、山法師」として挙げられています。

"治天の君"の法皇でさえ抑えられない荒法師だったのですね!

また、毎年4月12日から14日の湖国三大祭のひとつと呼ばれる山王祭の際には、お神輿は八王子山の中腹にある金大巌(こがねのおおいわ)までお神輿が上げられます。
一度、見てみたいものです。

次に東本宮へと向かいます。西本宮本殿と同様に国宝指定されています。







講座はこれで終了ですが、少し時間があるのですぐ近くにある「旧竹林院」の拝観へと向かいます。


白州正子が愛した十一面観音像を訪ねて⑥滋賀院門跡と慈眼堂

2019年09月28日 08時21分27秒 | 日記
滋賀院門跡は、総里坊な存在ですが、元和元年(1615)に徳川家康の政治、政策顧問の天海大僧正が後陽成天皇から京都にあった法勝寺を賜り移築されたと言われています。







明暦元年(1655)に後水尾天皇より滋賀院の号を賜り、約2万㎡の境内には、内仏殿、宸殿、二階書院、客殿、庫裏と御成門、通用門があり、さらに6棟の土蔵があります。

比叡山延暦寺の天台座主の御座所であった事から地元では、滋賀院御殿と呼ばれています。





江戸時代には皇族が法親王となり「座主接見の間」の玉座は二畳の厚畳、障壁画は渡辺了慶の筆箱と別格の格式を誇っています。

また、宸殿西側の庭園も素晴らしく、徳川家光の命で幕府の作事奉行 小堀遠州の作庭です。横に広い池泉鑑賞式庭園で巨石を多用するのではなく優雅な趣きを感じる庭園です。





(今回、特別に撮影されて頂きました。)

遠州の素晴らしい庭園を拝見した後に、滋賀院の西側上段にありる「慈眼堂」を拝観しました。
信長による比叡山焼き討ち後、その復興に力を注ぎ、徳川家康・秀忠・家光と三代の将軍に仕え、金地院崇伝と共に"黒衣の宰相"と言われた慈眼大師・南光坊天海大僧正の廟所です。











次に、平安京の表鬼門にあたり、方除・厄除の大社で全国山王の総本宮 日吉大社へと向かいます。

比叡山延暦寺ご用達手打ち蕎麦「本家鶴喜そば」

2019年09月27日 06時53分48秒 | 日記
19日のお昼の食事は坂本に店を構える手打ち蕎麦の名店「鶴喜そば」で頂きました。





「鶴喜そば」の歴史は古く江戸時代享保初年(1716)に鶴屋喜八がこの地に店を構え300年余になるそうです。

比叡山には京都御所より賓客が来られる事も多く、その際には山に登り、蕎麦でもてなしていたようです。また、比叡山で断食の行を終えた修行僧が弱った胃を慣らすためにも蕎麦を食したと言われています。

お店の存在は以前から知っていましたが、自分自身が蕎麦アレルギーだと思い込んでいたので今まで近づく事は無かったです。

ところが6月に比叡山の峰道レストランで「平和丼」を頂いた際にセットで蕎麦のお椀が付いていて、思い切って食べてみました。アレルギー反応もなく、"蕎麦アレルギー"は単なる思い込みだったのか、あるいは体質が変わったのかわからないですね。









建物自体も国の登録有形文化財に指定されています。

随分と久しぶりの"蕎麦"を美味しく頂き、過去30年あまり損をしてきた感じです。

桂小五郎と幾松ゆかりの京都を巡る

2019年09月26日 09時24分17秒 | 日記
さて、桂小五郎と幾松が駆け抜けた幕末の京都ウォークです。





⑴ 梁川星厳寓居跡碑





ちょうど鴨川を挟んで頼山陽の山紫水明処の向かいにあります。「日本の李白」とまで言われた詩人で尊王攘夷論者でもありました。

⑵頼山陽寓居跡 山紫水明処
文政11年(1828)に建てられた頼山陽の住居。今も大切に保存され、事前申し込みで見学できます。
今回は見学していません。





⑶三本木花街 吉田屋跡碑と京都法政学校設立碑





三本木には幕末期に10軒ほどの料亭があり、その一軒 吉田屋は尊王攘夷派が密議に使う料亭でした。坂本龍馬と中岡慎太郎が仲介した薩土同盟はここで結ばれました。

同じ地に京都法政学校設立碑があります。明治2年、西園寺公望が自宅で開いた私塾が後の「立命館」です。

⑷女紅場跡碑





明治5年(1872)に華族や士族の子女の教育のために設立された女学校で、英語や機織、礼儀作法などを教えていました。現在、京都御所東にある京都府立鴨沂高校の前身です。

⑸木戸孝允別邸跡碑







五摂家筆頭の近衛家の「河原御殿」を譲り受け別邸にしていました。



明治10年(1877)5月14日、病院療養中の木戸孝允を明治天皇が見舞いに来られましたが、同月26日に亡くなっています。

⑹木戸孝允 臨終の家







京都御苑に残る九条家の茶室"拾翠亭"に通じる趣きある建物で江戸時代後期の建物と推定されているそうです。

⑺木戸孝允の子・中太郎 達磨堂







木戸中太郎は孝允の養子で東京帝国大学卒業、南満州鉄道が経営する鉄鉱山の地質学研究所に所属していた有能な地質学者でした。
堂内には凄い数の達磨が収集されており、煉瓦や窓の形まで"起き上がり達磨"の凝りようです。

⑻舎密局跡(せいみきょくあと)・明石博高(あかし ひろあきら)





明治政府が設置した理化学研究所。明石は舎密局存続の為に、私財まで投げ売り尽力した医師。

⑼長州藩士 久坂玄端が謹慎した法雲寺







⑽京都での天誅事件第一号 島田左近遭難の地(善導寺)







島田左近は九条家の諸太夫。条約勅許問題、将軍継嗣問題、安政の大獄、皇女和宮降嫁で暗躍し、幕府から賄賂1万両(現在で、約3億円)を受け取り当時「今太閤」と呼ばれていました。

(11)山縣有朋 第二無鄰菴







この地は、江戸時代後期の豪商 角倉了以の邸宅跡でその後に数人オーナーが代わり、明治になって元老 山縣有朋が別邸を構えました。庭園は七代目小川治兵衛の作庭です。



すぐに斜め向かいには山縣有朋の庭園造りのライバル伊集院兼常の廣誠院があります。

今回、知らなかった所、気付かなかった所を巡り、大変に有意義な歴史ウォークでした。