京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

菅原天満宮(奈良市菅原)

2021年08月31日 19時58分00秒 | 日記
 菅原天満宮は菅原家一系三神をお祀りする延喜式に記載されている日本最古の天満宮と言われています。




ご祭神のおひとり菅原道真公は野見宿袮命(のみのすくねのみこと)の第17世の子孫とされ難関な国家試験に合格し文章博士となられました。

宇多天皇の寵愛を受け参議にまで登られています。
その後、遣唐使を拝命しています。
(唐の衰退で実現はしていません。また、遣唐使の廃止を天皇に奏上したとされていますが実際には唐の国力が衰退している時期で遣唐使派遣のメリットがなく自然消滅したのが、史実に近いようです。)

役人の世界もトップが変わると辛いもので
醍醐天皇の御代になり昌泰2年(899)には右大臣にまで昇格をしています。
しかし、藤原時平の讒言により九州太宰府に赴任される事になります。

しかし、太宰府では詩歌にいそしみ、文筆に励み晩年には類従国史二百巻を編纂されています。

都の大好きな道真公は如何に詩歌に没頭しようとも都へ帰りたい思いは生涯消える事はなかったと思います。







天満宮の東約100mには道真公の産湯池と伝わる遺跡があります。










喜光寺(きこうじ) 行基菩薩の寺

2021年08月30日 07時14分00秒 | 日記
 喜光寺は奈良の都のほぼ中央に位置し、養老5年(721)に行基により創建されました。



平城遷都1300年に当たる平成22年に実に450年振りに再興された南大門です。

仁王像は彫刻家の中村晋也氏により制作されたブロンズ像です。



古くは地名から「菅原寺」と呼ばれていましたが聖武天皇の行幸の際、ご本尊より不思議な光明が放たれ、それを喜ばれた天皇より「喜光寺(きこうじ)」の寺号を賜っています。






行基は東大寺造営に当たり喜光寺の本堂を参考にしたと言われ、本堂は「試みの大仏殿」として知られています。

近くには菅原道真公の誕生の地と言われる菅原天満宮があり、喜光寺も学徳円満、合格祈願の寺としても信仰されています。

本堂(重文)は明応8年(1499)に焼失後の再建ですが重層構造の本堂には裳階が付いた建物です。







ご本尊は平安時代に造立された丈六の阿弥陀如来坐像(重文)です。
脇侍には向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の坐像が三尊形式でお祀りされています。共に南北朝時代の坐像です。





先日の台風で屋根の一部が損傷し、弁財天と宇賀神像は本坊にお祀りされています。







行基は、ここ喜光寺を東大寺大仏建立勧進の拠点とされ全国を行脚されました。
そして、天平21年(745)に、喜光寺で入寂されています。



最近、近くの菅原遺跡で古代建築史上、類を見ない奈良時代の円形遺跡が発見され、行基の供養塔ではないかと話題を呼んでいます。



本坊の一階には写経道場があり勧進が行われており、仏舎利殿や行基堂など伽藍の復興が続いています。



















神泉苑

2021年08月29日 07時02分00秒 | 日記
 リストランテ野呂さんでお昼を頂き、次の講座までの時間、近くの神泉苑を訪ねました。





駒札にあるように神泉苑は延暦13年(794)桓武天皇が平安京に遷都された際に天皇の禁裏として造営されました。







造営当時は三万坪もの面積があり、天皇や招かれた公家が池に舟を浮かべ歌や花々、音楽を楽しまれました。

しかし、徳川家康による二条城築城の際に北側を大きく割譲されてしまいました。
豊富に湧き出す水が目的と言われています。



また、祇園祭の起源と言われる御霊会が行われた地としても知られています。




池には法成橋がかかり、願いを念じながら渡ると成就すると言われています。



池の中には「善女龍王」がお祭りされています。
弘法大師空海が勧請された祈雨の神さまです。
西寺の守敏との祈祷合戦は有名な話です。
(これを機に守敏の西寺は衰退していきます。)





現在は真言宗東寺の末寺で本堂のご本尊は後光明天皇ゆかりの聖観音菩薩像です。





恵方社です。

日本で唯一、毎年の恵方に参拝できる様に社殿が回転する方角の神さまです。





境内に植っている百日紅の花も盛りを過ぎ、風が吹くたびに花びらが散っています。









リストランテ野呂 お昼のコース③

2021年08月28日 09時45分00秒 | 日記
 京都アスニーでの講座の合間にJR二条駅と神泉苑の中間で御池通沿にあるリストランテ野呂さんでお昼を頂きました。
3回目です。

コロナ禍の中で苦しまれている飲食店が多い中、ランチタイムも予約のお客様が切れ目なく来られています。



2017年に開店されてからすっかりと地元に根づいたお店になったように思います。

この日はランチコースにパスタを追加して頂きました。



嶽(だけ)きみの冷製ポタージュスープ。

嶽きみは青森県産のとうもろこしで濃厚な甘みが特徴です。
ひと言"美味しい"、"甘い"です。
冷製でこれだけ甘みを感じるのは素材の甘みが凄いのだと思います。
(凄く、焼とうもろこしで食べてみたいと思いました。)



いつものサラダです。
さつまいも入りのポテトサラダに人参のマリネ
口当たりがよく食欲をそそります。







お昼のコースに追加できるパスタは"釜揚げしらすと茄子のトマトソース"ですが、以前にも食べているのでお願いして変更してもらいました。

"ホタテ貝柱の燻製と茄子のトマトソース"のパスタです。

燻製独特の風味が口の中で広がります。
オリーブオイルをたっぷりと吸った茄子とのコンビネーションも合っていて美味しかったです。





メインは大山鷄のグリル ソースは林檎と生姜

皮目はパリパリで身はジューシー 抜群の火の通りです。
ソースもさっぱり清涼感を感じます。
しかし、地鶏は歯ごたえがあり美味しいですね。



最後にコーヒーを頂きランチを堪能させて頂きました。

食事を終えて店外に出ると野呂さんが裏口から出て来られご丁寧に挨拶してくださいました。
そんな気さくなお人柄も人気のひとつかもしれないですね。



弘川寺(西行法師終焉の地)

2021年08月27日 08時30分00秒 | 日記
 當麻寺を後に次に訪れたのが大阪府南河内郡河南町にある弘川寺(ひろかわでら)です。(2回目の訪問です。)




石垣といい、本坊前の庫裏門といい、立派なお寺です。
と言うのも天智天皇4年に役行者により開創された古刹で、現在は真言宗醍醐派の準別格本山の寺格を有する寺院です。

天武天皇5年の夏には天武天皇は請雨の祈祷を命じられ、同8年の春にはこちらに行幸されています。

また、行基が修行されたり、空海が中興されるなどして法灯を繋いでいます。





しかし、このお寺を有名にしているのは平安時代末の歌人・西行法師がこちらで生涯を終えられた事です。



元は鳥羽院の御所を守護する北面武士で名を佐藤義清(さとうのりきよ)と称していました。しかし、保延6年(1140)10月に妻子を捨て出家し西行法師と名乗り東山、嵯峨、鞍馬などで草庵を営んでいます。




西行法師は晩年の文治5年に弘川寺の座主空寂上人の法徳を慕って来寺され庵居されます。
有名な「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」の歌の通りにここ弘川寺にて建久元年(1190)に入寂されています。

その生きざまは藤原定家や慈円らの共感を呼び西行の名声をより高めています。







歌僧似雲法師は西行を慕い藤原定家の歌集「長秋詠草」から西行終焉の地が弘川寺である事を見出し江戸時代享保17年に西行の古墳を発見しています。

その後、西行堂を建立し、境内にかっこ花の庵」を建てて住み81才の生涯を西行の顕彰に尽くされました。





似雲法師のお墓も西行法師に寄り添うように同じところに築かれています。



西行法師800年遠忌を記念して西行墳の東側桜山には桜が千本植樹され遊歩道も整備されています。

桜をこよなく愛した西行法師、その
桜に囲まれ永遠の眠りにつかれています。



西行法師、似雲法師に関する資料文献を展示している「西行記念館」です。
毎年、春と秋に公開されています。