5月11日の午後は、JR東海「そうだ 京都、行こう。」のイベント"御霊神社 御霊祭の魅力徹底レクチャー」に参加しました。
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御霊神社(上御霊神社)は、早良親王はじめ八座をお祀りする神社で延暦13年(794)に創建されました。
受付の後、書院で御霊神社の小栗栖 禰宜さま、北之御座 今出川口京極神輿会の大川さまから、神社の歴史、御霊祭の歴史のレクチャーがありました。
最近は、パワーポイントや映像で説明して下さいますので少し知識があると良く解ります。
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御霊祭は、貞観5年(863)に天災や疫病を鎮めるために神泉苑で行われた御霊会を起源とし、ご祭神の御神霊の安らかなること、世界平和を祈るお祭りです。
桓武天皇が長岡京に遷都の詔を出され、その責任者に藤原種継が造営大夫に任ぜられました。しかし、種継が何者にか暗殺される事件が起こり、その首謀者として帝の弟で皇太子であった早良親王が容疑者として捕らえられ淡路島に流罪となります。早良親王は無実を訴え、一切の飲食を断たれ、死去されました。
この出来事の後、帝のまわりに次々と不公な出来事が起こります。世の中は、これらの出来事を早良親王の祟りとして恐れました。それら怨霊を鎮めるため創建されたのが御霊神社であり御霊祭なのです。
京都に千年もの間、都が置かれた歴史を考えると早良親王の霊が怨霊から善神になられ、都をお守りされたのではないかとの思いを強くします。小栗栖禰宜さまのお話をお聞きし少し今までの認識を変えねばと思います。
次に神輿会の大川さまのお話です。
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北之御座の神輿は、後水尾天皇から、先代の後陽成天皇の鳳輦(ほうれん)を下賜されたものを神輿に改造したもので400年の歴史を刻みます。
後陽成天皇が鳳輦に乗られ、秀吉の聚楽第に行幸された様子が「聚楽第行幸図屏風」に描かれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/43/491095aa66c01109e768aa5b1004bc40.jpg)
中には畳が敷かれ、上の写真の御茵(おしとね)が置かれいるようです。中は拝見していませんが畳も厚畳なのでしょうか?
神輿を一基担ぐのには当然ながら交代要員が必要で、今出川口神輿の場合、3組の担ぎ手で組織され総勢200人もの人手がいるようです。地域だけでは人手が足りず、例えば伏見稲荷の神輿会のメンバーから応援を貰っているようです。また、伏見稲荷の祭礼時は今出川口から応援を出されたりと、互いに協力し祭りを維持しているのが現状だそうです。また、ご家族も弁当や飲料の手配などのサポートをされています。まさに、家族、地域総出のお祭りなんですね!
祇園祭でさえ、山な鉾の引き手が足らずに募集広告を出されたりしています。今後、人口が減少するなか祭りを維持することが困難な時代が来るのでしょうか?
僕も去年の下鴨神社の矢取り神事に参加させて頂きました。(氏子でもないですが、、、)
今出川口神輿青年部の3名の方が実演して下さいました。
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牛車も見せて頂きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/7f/03832a77dac3b2ddc604b36cc366c25b.jpg)
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こちら御霊神社は室町時代に11年もの間続いた応仁の乱勃発の地で東楼門横に石碑がありますが、近年、境内に新たに石碑が建立されています。西軍の大将 細川勝元の末裔でもある細川護熙元総理が揮毫されています。
南側の土塀沿いには一初が見頃を迎えていました。
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御霊神社の違う一面も見れて、認識を新たにしました
。
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御霊神社(上御霊神社)は、早良親王はじめ八座をお祀りする神社で延暦13年(794)に創建されました。
受付の後、書院で御霊神社の小栗栖 禰宜さま、北之御座 今出川口京極神輿会の大川さまから、神社の歴史、御霊祭の歴史のレクチャーがありました。
最近は、パワーポイントや映像で説明して下さいますので少し知識があると良く解ります。
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御霊祭は、貞観5年(863)に天災や疫病を鎮めるために神泉苑で行われた御霊会を起源とし、ご祭神の御神霊の安らかなること、世界平和を祈るお祭りです。
桓武天皇が長岡京に遷都の詔を出され、その責任者に藤原種継が造営大夫に任ぜられました。しかし、種継が何者にか暗殺される事件が起こり、その首謀者として帝の弟で皇太子であった早良親王が容疑者として捕らえられ淡路島に流罪となります。早良親王は無実を訴え、一切の飲食を断たれ、死去されました。
この出来事の後、帝のまわりに次々と不公な出来事が起こります。世の中は、これらの出来事を早良親王の祟りとして恐れました。それら怨霊を鎮めるため創建されたのが御霊神社であり御霊祭なのです。
京都に千年もの間、都が置かれた歴史を考えると早良親王の霊が怨霊から善神になられ、都をお守りされたのではないかとの思いを強くします。小栗栖禰宜さまのお話をお聞きし少し今までの認識を変えねばと思います。
次に神輿会の大川さまのお話です。
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北之御座の神輿は、後水尾天皇から、先代の後陽成天皇の鳳輦(ほうれん)を下賜されたものを神輿に改造したもので400年の歴史を刻みます。
後陽成天皇が鳳輦に乗られ、秀吉の聚楽第に行幸された様子が「聚楽第行幸図屏風」に描かれています。
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中には畳が敷かれ、上の写真の御茵(おしとね)が置かれいるようです。中は拝見していませんが畳も厚畳なのでしょうか?
神輿を一基担ぐのには当然ながら交代要員が必要で、今出川口神輿の場合、3組の担ぎ手で組織され総勢200人もの人手がいるようです。地域だけでは人手が足りず、例えば伏見稲荷の神輿会のメンバーから応援を貰っているようです。また、伏見稲荷の祭礼時は今出川口から応援を出されたりと、互いに協力し祭りを維持しているのが現状だそうです。また、ご家族も弁当や飲料の手配などのサポートをされています。まさに、家族、地域総出のお祭りなんですね!
祇園祭でさえ、山な鉾の引き手が足らずに募集広告を出されたりしています。今後、人口が減少するなか祭りを維持することが困難な時代が来るのでしょうか?
僕も去年の下鴨神社の矢取り神事に参加させて頂きました。(氏子でもないですが、、、)
今出川口神輿青年部の3名の方が実演して下さいました。
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牛車も見せて頂きました。
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こちら御霊神社は室町時代に11年もの間続いた応仁の乱勃発の地で東楼門横に石碑がありますが、近年、境内に新たに石碑が建立されています。西軍の大将 細川勝元の末裔でもある細川護熙元総理が揮毫されています。
南側の土塀沿いには一初が見頃を迎えていました。
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御霊神社の違う一面も見れて、認識を新たにしました
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