Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

道場破り企画showing(@渋谷ル・デコ)

2007年07月08日 | Weblog
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手塚夏子が主宰するWS、それがいまどのような試みをしているのかについて紹介するイベントを見てきた。Abe "M"ARIA、福留まり、有田美香子、スズキクリ、コリー・ベフォート、エノモト・ユキがこれに参加しており、この日はAbe以外のパフォーマー全てが集まった。

具体的に言えば、それぞれのダンサー(スズキ・クリはこの中で例外的に楽器のプレイヤー)がもつ手法(何の手法なのか、振付を解釈する仕方なのか、即興の仕方なのか、それ以外なのかいささか判然としなかったのだが)を明確にし、他人の手法に触れ、しかも実際にやってみる(それを道場破りといっているらしい)ことで、自分の手法の限界を破る、という企画。各人の手法が実演+手塚の解釈によって明らかにされ、その後、実際に、それぞれが他者の手法をやってみるパート、あと、手法への意識をはずして自由に「かかわり」を意識したインプロのパートと続いた。

個人の方法(手法)というのは、自覚していない面がぼくたち多分多いのだろうと思う。それは、例えば、話し方とか他人への対応を自覚化することに恐らく似ている。それを明らかにしていくこと。バレエとかモダンダンスの場合、外側に身体運動の理想的イメージを置いて、それへと身体を合わせていくところに方法が見出されるとすれば、手塚が引き出そうとしているのは、個々人が自分の身体とどう付き合っているのか、その内的感覚の内に見出される手法なのである。前者が理想的なイメージの具現する場所として身体を捉え、身体がどう矯正されればそのイメージが生まれるのかという点でしか身体は考察の対象とされていないのに対して、後者、手塚の場合には、もっと原理的に、意識と身体の関係が一体個々のダンサーの内でどう把握されているのか、どういった関係が理想的と考えられているのかを問う。

トップ・ダウン式の規範の呪縛から自由になったその後、あらためて、私たちは身体と意識とをどう関係づけるべきか、いや、「べき」といった価値判断はとりあえず置いて、事実どう関係づけているのかに注目することは、モダンからポスト・モダンへと(あるいはバレエ、モダンからコンテンポラリー・ダンスへと)思考を移す際の、ひとつの重要な試みだと思う。それは、自分を知る試みであると同時に、自分という枠を知った上で超える、そこから自由になることでもあるだろう。手法は自分の形であり、自分という名の呪縛の形である。案外、自分に囚われがちなのだ、「私」というものは。とはいえ、そこで、囚われをとくことばかりを目指すと言うよりは、囚われの状態を微細に意識化すること、そこに自分なりの責任を持つことが、手塚のこの道場破りの目指すべきところなのだろうと、ぼくなりに考えながら見ていた。

なかなか、成功しているとはいいにくい点もある。とくに、ダンサー同士が共有する言葉を整理するのにとても苦労していて(表層、深層、意識、自我などなど)、実際のところ、きちんと共有できているのかなと思ってしまったこととか。自分の内的な感覚を言語レヴェルに引き上げること、それが出来ないと手塚の試みは十分に進んでいかないんだけど、でも、それはとても難しいことだ。とはいえ、ここのところで踏ん張らないと、コンテンポラリー・ダンスは「なんでもあり」なまま、地盤をうることが出来ずに、あいまいで怪しいものでしかなくなってしまうように思う。ぼくは、見る側の問題からダンスと関わっている面が大きいので、手塚がぼくのあまり主題としていない踊る者の側からこうした手法への反省を通してダンス言語の創造を画策していることは--きわめてつつましやかな状態であるとしても(お客が10人ほどというのは、どう考えても少ないよ!告知の方法とか、上手くいかないものか)--、尊敬に値することだと思うし、大いに期待していきたいと思ったのだ。