Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

観念のダンスからの逃走

2006年11月01日 | Weblog
岩渕さん

「吾妻橋」はご苦労様でした。打ち上げの時はあまりゆっくりせずに失礼しました。岩渕さんとは確か「こんばんわー」と打ち上げノリの笑顔を交わした記憶はかすかにあるのですが、砂連尾さんのために何かお祝いをするからともかく来いと言われた手前(ほんとは地点の方たちが今日で帰るというインフォが間違ってぼくに伝言されたようで)ともかく砂連尾さんとはお話ししなきゃと残ったものの、yummydanceの女子たちにも挨拶することはなく、桜井さんともほとんどひと言も交わすことなくそそくさっと帰ってしまったのでした。

いま、wonderland北嶋さんからのご依頼で、その「吾妻橋」のことをまとめようとしていて難渋しています。ポイントは誰が見ても、演劇系とダンス系どっちがダンスだったか、になると思うのですが、軍配が演劇系に上がってしまう場合(どうみてもそうなってしまうと思うのですが、、、)一体ダンスとは何か、あるいは一体ダンス系のひとたちのダンスとは何か、という問いが自ずと沸いてきてしまうはずです。

で、まさに岩渕さんのコメントは「一体ダンス系のひとたちのダンスとは何か」という問いにダイレクトに接続するものではないでしょうか。

>ダンスの舞台をみたり、踊ったりして「いったい何がダンスなのか」ということがとても気になります。選択したこのフレーズ(振り?)がいったいなんだというのか。そんなに「ダンス」に疑問なくフレーズが出来上がっていくものなんだろうか。(例えばですが)回ったり飛んだりしてはいけないということはないけれど、「とりあえず」で選択されているのではと思うことが多々あります。
じゃあ、なぜその振りを選択したの?ということになるとかなり恣意的というかすべて説明できるわけでもなく・・・
すべて自分に帰ってきますね。

「すべて自分に帰ってきますね」のあたりに、切実な岩渕さんのまさにパフォーマンスする身体/言語を感じてすごく気になるのです、がちょっとそこは置いておいて、まずはやはりその確信の持てない「選択」のもどかしさという点についてぼくなりに受け止めてみたいと思います。

とはいえ、まったく踊らない、まったく振り付けなど酔っぱらったときにだけわけのわからぬオルギア的ダンスを自らに振り付けてあきれ顔の妻の前で踊るだけのぼくに「選択」の問題に答える資格があるかと言えば「まったく」ないのです(!)が、図に乗ってちょっと考えたことを少々書いてしまいます。

要するに、ぼくは観客としての立場でしかものが言えないわけですが、その視線からすると、ダンスはしばしばいや実にその殆どが観念的なダンスです。ダンスはフィジカルなものというのは、実際に自分の体を動かしそこに否が応でも快楽を感じてしまう踊る人(ダンサー)にとってはそうかも知れませんが、見る側の身体が揺すぶられる経験というのはほんとに希有なのです。むしろ、たいていのダンスは「ダンスというもの」についてのそのひと(ダンサーないし振付家)の通念をただなぞっているだけに見える。ダンサーにとってフィジカルでも見る者にとっては観念的に見えてしまう。ダンスではなく「ダンスというもの」を見ているだけ、ということです。「このひとのあたまのなかではダンスってこういうものなんだな」という感想をもつとき、ぼくの体は殆ど揺すぶられていません。傍観するというか取り残されているというか。

ここで観念と言っているのは、ダンスをもとめるよりも「ダンスというもの」を追い求めそれを反復するうちにあたかもそれがダンスの実体だと思いこむときの「ダンス」を形容する言葉として使っています。それはある種の保守的傾向であり、そこに観客もダンサーも振付家も安住してしまいたいという欲望をもつことがあります(あることは分かります)。その傾向の存在は分かりますが、ぼくはそこにダンスを感じないので、そこからぼくが享受しうるのは退廃と絶望のみです。

恐らく、この「反復」に対するコンプレックス(こじれた気持ち)のみが優れたダンスを生むのです。反復からしか「ダンス」は生まれないがその反復から自由になる瞬間にしかダンスはない、ということを知っている者ののみが。ぼくの好きなダンサーはどうも皆、そのようなダンスへのこじれた関係をもつひとたち(ダンスのスパルタをくぐり抜けた、ダンスに対するSM的関係をくぐり抜けた、あるいはくぐっている最中のひとたち)ばかりではないか、とお見受けします。

ところで、ぼくが気になっているのは、ぼく(=観客)の体が揺すぶられていないことにどれだけのダンサー(振付家)が気づいているか、ということです。彼らの多くは、そんなことお構いなく「ダンス作品」をこしらえあげようとしているように見えます。そしてこのとき「作品」という概念は、自分の心の底から湧き上がってきたものという、素朴というか似非モダンダンス的な発想に縛られています。自分を「選択」の基準にするわけです。結果、私の心のたけを表現してみました見てみて下さい、というような何かが生まれます。そして、この素朴さはぼく(=観客)を疎外している、と思うのです。

作品の発表する場=発表会というダンス界の文化的保守性--それは、先日書いたダンス・トリエンナーレの斉藤さんが暗転後、拍手と共に空っぽな舞台の真ん中でおきまりなお辞儀を繰り返す時に悪夢のようにぼくを襲ってきたものでもありまして、いまだに頑なに今日のダンス界を支配しているものです。「こんな感じの作品作ってみました、どうでしょう」と、我に返ったダンサーを見ているのがぼくはあまり/とても好きではありません。その瞬間は、舞台前に観客がいたこと、観客としてのぼくがいたことが忘却されていたことを無邪気に露呈する瞬間だと、そう思えて仕方ないのです。

以上のようなわけでして、つまるところぼくは、ダンサーが観客と何かを生み出す時間がダンスの瞬間なのだと考えているわけです。そして、そこに何らかの術策が凝らされていないとフレーズの選択はすっぽ抜けてしまう、というのがぼくの結論です。

演劇系のひとたちはこの点でダンス系のメンツよりも大人、というか仕掛けがないとひとは見ないということにかねてから自覚があるひとたち、だったのではないか。あるいはセルフイメージに自覚的・批評的、といってもいい。「見られている」ことに無自覚なのは無邪すぎです。「見られている」としても何かを「見せている」としても、観客がそれを「見ている」とは限らないのですから。

だからといって、観客のニーズに応えるその意味で「サーヴィス」を目指す必要は必ずしもありません。そうすることは観客の観念のダンスを満足させることを目指すことになるでしょう、観客はそこに脳内快楽を見出すかも知れませんが(=萌えダンス)、そこにゴールを置こうとするがために観客を意識せよと言っているわけではありません。むしろ観客との関係にクリティカルに迫れ!と言いたいのです。ピンクは、その若さとかわいさで危うく単なる「萌えダンス」になりかねないすれすれに立っています。が、その状況をむしろクリティカルに反復する最後の「we are pink!」の曲でチアみたいなダンスを踊る時、かろうじてその脇をすり抜けていきます。

ぼくの目下の理解では、観客との関係は60年代アートにおいては主要な問題だった。ジャドソン・ダンス・シアターと暗黒舞踏は、この点に向けたダンスにおける二つの回答だった。彼らのアイディアはまだ汲み尽くされていない、とぼくは思っています。もちろんぼくがこのことを自覚したのはそれほど古いことではありません。けれども、このことをぼくは六、七年前から、二人のダンサーによって意識させられていたように思っています。ひとりは黒沢美香で、もうひとりは室伏鴻でした。