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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ジェリー・ルイス

2006年11月29日 | Weblog
知人からドゥルーズの『シネマ2』(法政大学出版局)が発売されていることを教わる。不覚。早速購入。なるほど、理解するのは簡単ではない、いい加減なことは言えないけれど、次のような文章に出くわすとなにやらわくわくした気持ちが沸いて出てくる。

「ダンスはもはや単なる世界の運動ではなく、一つの世界から別の世界への移行であり、別の世界への入り口、侵入、探検なのである」

「ダンスはもはや世界を描く夢の運動ではなく、みずからを深め、ますます激しくなり、別の世界へと入るための唯一の方法となる。その別の世界とは、ある他者の世界、ある他者の夢あるいは過去なのである」

第3章は、後半、こうしたダンスの話題へとスライドする。土台をなすのはベルクソンの二種類の再認、自動的あるいは習慣的再認と注意深い再認。前者が延長(習慣に基づく対象の確認)に関わるのに対して、後者は別の特徴や輪郭を引き出すために何度も零の時点から対象に戻り見直す。この注意深い再認に関連づけられて、ダンスは、上に引用したような常に別の世界へと関わっていく方法として語り明かされていく。

ミュージカルが取り上げられると、テクストはフレッド・アステアやジーン・ケリーの舞台になる。

「運動的な歩行(pas)とダンスのステップ(pas)との間には、アラン・マッソンによって「零度」とよばれるものがときおりあって、それは、ためらい、ズレ、遅れ、一連の予備的な失敗のようなもの、あるいは逆に突然の発生である」

『バンド・ワゴン』のアステアの有名な散歩から徐々に変貌して生まれるダンス、『雨に唄えば』のケリーのやはり有名な歩道の起伏から(軽く足を滑らせることから)生まれるダンス、二人の奇跡のような移行は、慣習的で自動的な運動に亀裂を与え、一層大きな世界の運動の渦中に巻き込んでいく。

「彼らの個人的な行動と運動は、ダンスによって、運動的状況を逸脱する世界の運動へと変貌すると考えられる」

けれど、こうした奇跡的な瞬間を取り上げたとしても、アステアやケリーのような天才的なダンサーのみがそうした運動を引き起こすと結論づけるのではない。ドゥルーズ!彼の視点は、ジャック・タチへ、またその前に喜劇俳優たちへ向けられる。

例えばジェリー・ルイス(『底抜けもててもてて』)へと。

「彼の足取りはことごとくダンスの失敗のようであり、延長され刷新され、可能なあらゆる仕方で変化する「零度」のようであり、それは完璧なダンスが生まれるまで続くのだ(『底抜けいいカモ』)」

って例えば、河童次郎(ボクデス)じゃん!
(おとといドゥクフレ「ソロ」を見ている間ずっと、河童次郎(ボクデス)がドゥクフレ並みに愛される世界を夢想していた。あり得ないの?)

ダンスは「移行」「ためらい」「ズレ」「失敗」にある。あらゆる世界に関わっているようでいてそれをすべて自動的で習慣的な運動へと還元してしまうすべてのダンスには、ドゥルーズのダンスはないっていうことだ!