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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

宮沢章夫『鵺/NUE』(@シアタートラム)

2006年11月03日 | Weblog
宮沢章夫『鵺/NUE』のプレビュー公演を夕方観た。「プレビュー公演」というものの意味が分からなかったので、世田谷パブリックシアターに電話で問い合わせてみる。すると、ときどき(劇が)止まったりすることもあるけれど基本的には殆ど本番と同じという話だった。実際は止まることはなかったものの、役者がかむシーンは結構あった。「役者がかむ」瞬間はぼくはそんなに嫌いじゃない。むしろ、どうせならちょっと我に返って役者が赤面とかしたらいいとさえ思う、周りの役者が冷やかしの笑みをうっすら浮かべるとかもあったらいい(こういうこと思うってのは、五反田団ショックがまだ尾を引いているわけだ)。そんなときって、演劇が批評にさらされることになる瞬間だと思う。演劇が我に返る瞬間、鏡を突きつけられる瞬間。そんな瞬間はブレヒト-ベンヤミンに倣って言えば、リラックスした状態じゃなきゃ出てこない。リラックスした芝居を見るリラックスした観客としてぼくは客席にいたい。そう言う意味で、すべての公演がプレビュー公演的なものだったらいいのにとさえ思うのだった。

話の内容は置くとして、ずっと面白く見ていられたのは役者のセリフ回しがよかったからだ。音楽を聴いているようにさえ聞こえる抑揚が、個々の俳優の年季に応じて安定した魅力的な響きを湛えていた。イヴォンヌ・レイナーがモダンダンスまでのダンスの動きを「フレーズ」と呼んで批判したとき、フレーズを山なりの「始点、中間点、終点」をもちそのなかにひとつのピークが作るられるものと定義した。そんなフレーズのような一定の言い回し。これはいま日本で見られる若手の演劇がつとめて避けているもので、久しぶりに聞いたという印象があり、だからもはや伝統芸能に近いような、実際、バリのダンスの合間に歌われる奇声の歌い回しとの間に親和性さえ感じたのだった。例えば、五十代が歌う古のロックンロールを今聞いてそんなに悪くないな、と思ってしまうような感覚。とくに天井桟敷にいた若松武史の声振りは楽しかった。もはや殆どふざけているとしか思えない時があり、実際ふざけている時もあり、役柄の反映でもあるのだろうけれど飄々としていた。

けれども、そうした各役者の来歴から生まれるセリフ回しと、切り刻まれて演じられる清水邦夫の戯曲を演じる際の彼らの演技とが、隔てなくベターッとくっついていて、そこが残念だった(少なくともぼくにはそう感じられた)。戯曲上では、宮沢の書いたセリフと清水の戯曲とが異なる響きを生んでいるのかも知れないけれど、それを語るセリフ回しにそれぞれの明確な違いが見えてこなかった。演劇についての演劇である以上、そうした批評性があるべきではないか。そもそも、清水邦夫劇の当時のセリフ回しと天井桟敷のそれとは違うだろうし、また二十代三十代の演出家がいま生み出しているセリフ回しもまた彼らとは異なる。それらが舞台上で競演し、相互に批評し合う場面があってこそ、何が死につつあるもので何がそれを見送るものであるのかが演劇批評のドラマとして明らかになるはずだ。当時の劇のフィルムを上演してみんなで見る場面とかあったりしたら、また各役者の若かりし頃の芝居が上演されるなどしたら、この点ですごい芝居になったと思う。

あと気になったのは、若い役者(若者役)に与えているセリフ。彼らがスタニフラフスキーとか、テオ・アンゲロプロスについて言及する時、それらを十分に理解しあるいは愛好している者たちとして描かれるのだけれど、それはどうだろう。そういうある時代(過去)のものに対していまの若者がもっている距離感が描写されず、まるで宮沢の分身のようになってしまっている。宮沢が仕事をしている早稲田には教養ある若者たちが多いと言うことがあるのかもしれない。ぼくが普段接している学生とは違うということか。五反田団でよく見る、知ったかぶりして自滅するものの静かに周りが無視する、みたいな描写の方にぼくはリアリティを感じる。この距離感とは他者への距離感、とすれば、相手がどう聞くかお構いなしに自分の思いを無邪気にストレートに発するといった宮沢の造型する個々のキャラクターにすでにぼくはリアリティのなさを感じているのだろう。何であんなにストレートに怒ったり叫んだり出来るのか、「あえて」いわばマニエリスティックにやっている気がしなかった。いや「あえて」やっているのであって、そういうストレートに自分を語る芝居自体が死んでしまった古の芝居(清水邦夫?)を反復する仕掛けの一部になっていたのか。