Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

1秒の質に賭ける

2006年11月14日 | Weblog
ダンスはつねに消えていくものです。ダンスはだから清くそして恐ろしい。かつてDVDやビデオが普及する以前の映画もそうだったわけですが、消えていく表現媒体にとって、記憶に値するものをいかに生み出していくか、あるいは記憶が出来る人間ないし瞬間をしかと見続けることの出来る人間をどう生み出していくか、が生命線になります。つまりパフォーマーも観客も1秒の質に賭ける、体を張ってあるいは目を見張って経過する時間に挑む、ダンスというジャンルの醍醐味は他ならぬこの点にある、とまずしなければならないはずです。

ハスミ先生ならば「動体視力」というところの「運動能力」が観客には問われ、観客の「運動能力」にありったけの掛け金を積み上げながらパフォーマーは勝負に挑む。ぼくにとって面白いダンスとはこの1秒に賭があるダンス、だから1秒も目が離せねえゾと不意に戦慄が走るダンスです。逆につまらないダンスは、次の動作、次の企み、次の筋がおおよそ読めるあるいはそれらを喜んで読み込んでいこうと思わせてくれないダンスです。後者は観念のダンスとぼくが個人的に言っているもので、前者は観念的ではないダンス、リアリスティックな(と言えばいいのか?)ダンスです。

ダンスを見に行くというのは、ほんとにわくわくする行為でした。見るという立場で何かを更新する(革命などとは言えないまでも)、既存の時間性や社会性を転覆させる。そんな幸福な時はいつあったか。手塚夏子の「私的解剖実験地図」とその「2」、室伏鴻の「edge01」、黒沢美香「Roll」、、、(その他色々、速攻で浮かんだものだけ列挙した)最近ならば、横浜ダンス界隈でのひろいようこ「tea time」か(久しぶりに「目が離せない」ってどんなことだったか思い出した)。最近わくわくしないのは、ぼくの目が「運動能力」を失っているのか。それともパフォーマーが賭を放棄したのか。「見る」ことの内に起きる事件(事故)を求めずに、コンテンポラリー・ダンスなるものを反復してしまうからか。

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前件でコメントを書いてくださったugさんへのレスとして。