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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

カンギレムの「健康」

2006年04月20日 | Weblog
最近、今年最大の難事のために、生命倫理、特に遺伝子学関連、優生学関連のテクストを渉猟している。結論のでない、未来に向けた不安と空想に満ちたテクスト群。ここから自分なりの見解を導き出さなければならない。んー、どうしようか。

ともかく、読む、読む、読む。そのなかで、ちょっと面白い考えを発見。カンギレムの「健康」概念。

「健康を特徴づけるものは、一時的に正常と定義されている規範をはみでる可能性であり、通常の規範に対する侵害を許容する可能性、または新しい場面で新しい規範を設ける可能性である」(『正常と病理』)

健康とはふつう、ひとつの基準値、規範に適った状態と考える。けれども、カンギレムはむしろ一定の範囲から自由にはみ出ることができることこそ、健康の状態とみなす。エレヴェーターじゃなく階段でも大丈夫、とかそういうことだろう。逆に、「病気は、規範からの逸脱ではなくて、むしろ一つの規範に忠実でありすぎること、そこから逸脱したり、はみ出たりできないこととして定義される」(市野川容孝)のであって、「病人は、一つの規範しか受け入れることができないために、病人である」(『正常と病理』)ということになる。

これは規範でなくゲームを優先するウィトゲンシュタインのアイディアみたいだ。確かに、病とはひとつのところに停滞してしまうことなのだろう。痛みとかは、それ以外のことを考えさせなくするものだし、例えば。健康であることは、様々な改変に、異なる考えを持った他者の出現に柔軟に対応できること、ゲームが膠着しないこと、なのか。なるほど。

合間に、小島信夫『抱擁家族』を読む。このおもしろさはいったい何だ?