最近、新たに「絵画と見る者」と(仮に)題する論考を書いている。これは最近書いた二つの論考「二〇世紀のダンスにおける観客論」(『上演舞踊研究』所収)、「さりげなさについて」(『ART FIELD』所収、こちらはナディッフのような美術系の書店に置いてあるはずです)の姉妹のような考察になる予定。簡明に言うと、絵画における観客論である。最近は、批評文よりも、研究者としての書き物に集中している。今の自分にとって、しっかりとした足場こそ必要なのである。そんな気がしている。
今の構想では、ルネサンスから現代に至る美術史の流れを、絵画が見る者に対してもつ意識をどのようにして画中にあらわさないようにしてきたか、といった切り口で捉えていく、というものになりそう。ダンスを論じるときにそうであったように、ここでも重要になるのが「さりげなさ」である。マイケル・フリードがシアトリカリティを批判する際に参照するディドロは、まさに絵画の優美を問題にしている。そこで議論になるのは次のこと、見る者の食指を掻き立て見られるものになるには、逆説的なことに、見る者がいないように絵画は振る舞わなければならない。見る者の不在を「至高の虚構」と呼ぶフリード(=ディドロ)の視点が前半のトピックになる。
後半は、むしろ観客なしには成立しない絵画あるいは観客を意識し誘惑することを仕掛けとする絵画を論じる。「アヴィニョンの娘たち」と「アンタイトルド・フィルムスティル」が範例。また最後に、ソンタグのキャンプ論に現れる演劇の問題(「経験の演劇化」)に注目する。ここでは「さりげなさ」に対立する「わざとらしさ」がむしろ重要な価値を帯びてくることになる。
最近は、このことばかり考えている。
今の構想では、ルネサンスから現代に至る美術史の流れを、絵画が見る者に対してもつ意識をどのようにして画中にあらわさないようにしてきたか、といった切り口で捉えていく、というものになりそう。ダンスを論じるときにそうであったように、ここでも重要になるのが「さりげなさ」である。マイケル・フリードがシアトリカリティを批判する際に参照するディドロは、まさに絵画の優美を問題にしている。そこで議論になるのは次のこと、見る者の食指を掻き立て見られるものになるには、逆説的なことに、見る者がいないように絵画は振る舞わなければならない。見る者の不在を「至高の虚構」と呼ぶフリード(=ディドロ)の視点が前半のトピックになる。
後半は、むしろ観客なしには成立しない絵画あるいは観客を意識し誘惑することを仕掛けとする絵画を論じる。「アヴィニョンの娘たち」と「アンタイトルド・フィルムスティル」が範例。また最後に、ソンタグのキャンプ論に現れる演劇の問題(「経験の演劇化」)に注目する。ここでは「さりげなさ」に対立する「わざとらしさ」がむしろ重要な価値を帯びてくることになる。
最近は、このことばかり考えている。