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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『ヒストリー・オブ・バイオレンス』

2006年04月24日 | Weblog
クローネンバーグの新作を昼間見てきた。
以前見たもののなかでは『クラッシュ』(96)が印象に残っている。交通事故に遭ってから、トラウマに悩まされて事故を繰り返してしまう話だったか。事故→セックス→事故→セックス……と続くので、事故が起こると「次またセ?…やっぱそうかい!」とつっこんでしまう(orボケてるように感じさせさえする)映画だった。意味なく盛り上がる反復がファット・ボーイ・スリムを連想させたり。

遺伝子関連の論考を書こうとして最近、鬱々としていたのだけれど、彫刻論にしちゃえばいいじゃんとひらめいて、早朝すっきりな気分になったところに、知り合いのOさんから「イーストウッド+北野武だよ」とのメールが届いていて、「久しぶりに映画行こう!」と思い立って見に行った。確かに「謎の露呈と和解の話+座頭市(絶対に死なないヒーロー)」(?)という意味ではそうともとれた。

新しい広くなったユーロスペースがガラガラだった。クローネンバーグ人気ない?お暇な人には是非見に行ってみてほしいので、ネタバレなことは言いません(ちょっと言っちゃったか?)。気になったのは、「死」をどう表象するのかということ。物語の進行のために誰かが死ななきゃならない場合、死の瞬間ないし死体をどう表象するのかは、難しい問題。適当な死体だと、物語進行上の約束事(記号)としてしか見えない→醒める、ということになる(大抵の映画はそうなので、醒めていることさえ忘れてしまうのだけど)。この映画の死体は丁寧に死ぬ。死体は寸前までぴくぴく動き、血しぶきと肉片を相手にぶちまけ、顔が吹っ飛ぶ、それらがもうこのまま世界には居られないと告げる。異形になってしまったことがこの世からの離別のサインになっている。あるいは、動かぬ首の下から血溜まりが広がるとか、死の表象でも動きがないと説得力がない。これらの光景をカメラアイは超至近距離で見つめるので、観客はまるでゴーストとなってつきあうことになる。