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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

小説の器量

2006年01月24日 | Weblog
荒川洋治『文芸時評という感想』(四月社)がいま話題である、どこで?いや少なくとも家では。
多分、Aもこの本にはいずれ「ぐび」ブログで触れることだろうけれど、ぼくなりに目に付いたところを拾ってみよう。例えば、

「僕はそれほど立派な人間じゃあない。残念ながらね。ならば実際はどうしているのかというと、いま君の家の家庭教師をしている通り、近頃はもっぱらアルバイトをしているよ。アルバイトばかりなんだ。僕のような人間にはね、それがいちばんふさわしいんだよ!何がって、アルバイトがだよ!」(阿部和重「トライアングルズ」)

この箇所を荒川はこう評する。

「最後の「何がって、アルバイトがだよ!」というのは、この文章ではまったく不要のものであろう。」「だが作者は、それを敢えて書くことになる。この文章(話)を聞いていながら、その内容をまったく聞いていないも同然の人物の存在、あるいは気配のようなものを「創造」しているのだと。これは小説のなかの世界ではない。これを読む人のこと、つまり読者の立場にも触れている、ということであろう。そのあたりにこの小説の「器量」があるのかもしれない。」

ぼくは阿部のこの小説を読んでいないので、純粋に言葉のパフォーマンスとして、荒川同様面白いと感じるし、面白いポイントも荒川と一緒だ。「読者の立場にも触れている」小説、うん。でもそれは「小説のなかの世界」からは少しずれたところを小説に書きこむところで起きている。多分この「少しずれ」は、小説の主人公の意識と主人公が語りかけているもう一人の登場人物の意識とそして読者の意識とがこの短い文のなかで交錯しておしくらまんじゅうみたいなことやっているってことで、だから面白いに違いない。具体的に言えば「何がって、」って言葉は、単に語り手の主人公に誰かが「何がふさわしいと考えているんだい」なんて実際に聞いているというよりは、そんな「気配」がするといったもの、でこの「気配」の内に重なり合うものたちがひしめいている、きっと。そう、そんで、この「少しずれ」たところをきちんと合わせもつものに観客論を認めるってことが最近の僕の興味なのだ、だから一層いいと思わずにいられない。この主人公は怒った風だが、それでも怒る仕方で読者に語りかけ、「読者の立場」をきちんと空けていてくれている。そういう阿部をいいと見つける荒川が、そんで、とてもいいと思うのだ。

それでこの本は、「座右の本」としての価値を帯びたところをいくつももっていて、

「感動をすなおに語ることが批評家たちにはどうしてできないのか。どんな言葉をつかうかつかわないかよりもそちらのほうが問題かもしれない」

なんて言葉は、あまり自分を「批評家」なんて座に置きたくないぼくがそれでも、何かそういう肩書きで書いてしまう文章について、つねに自省しておかなければならない何かを諭してくれる。