Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

井手茂太『井手孤独』+水と油『不時着』

2005年05月28日 | Weblog
を見た。

午前中は、同居人Aさんが学会に赴くというので見送り、一人で世田谷シアタートラムへ。世田谷線の中で、突然無表情で大きな声を上げる御婦人。ipod越しにも聞こえる声。なにいってんのかは分からない。前の女子高生二人組はそっち見て笑っている。どうも聞いていると「どうせわたしはちえおくれよ、わかってんのよ、わるいわねえ、、、」といったことを暴走気味に誰かに(?)向けて発している。多分、具体的に誰かが今何をして、ということではないようだ。こういうとき、とまどう。このとまどいは、広い愛などというものが彼女を抱擁することで昇華してくれるものなのか、否か。御婦人の叫びは個人にではなくひろく人間一般にむけられている、そこにとまどいの強い核がある。多分。でも、彼女もそういうこと一般に向けて叫ぶということをする甘えのなかにある(あるいはそういうこと発してしまう自分をもう彼女も自分で止めることが出来ないのか、、、ならば「甘え」というよりも「苦痛」を読みとるべきかも知れないけれど)。頭がパニックになる。前の女子高生の笑いもとまどい故の、致し方なしのものだろう。御婦人が降りる。また静かになる。

ということがあったり、日常は微弱にさまざまな出来事を抱えて進んでいくんですよ。

井手茂太『井手孤独』(@シアタートラム)
ダンスの「中音域」にあるツボを連打する井手の動きは、ギャグでというよりシグサの一発で見ている体を笑わせてしまう。腕がちょっと前にピッと振れる、それだけで体が「ブフッ」と反応してしまう。ダンスはこういうツボの発見をみんなでギャハハ言いながら和気藹々交換しあって、できあがってきたものなのじゃないかな。そういうあったりまえの基本地点をしっかり見失わない人、ということで、井手茂太はもっと普通に評価されていい人だろう。野村萬斎とかをひとびとが口にするくらいには。
「俺」という掛け軸があのトラムのどでかい後ろの壁のどでかい赤いジップの上に掛けられる。これは、実はなかなかに凄い一言になってくる。そういや、ぼくが20くらいの頃、ぴあのアワードを取った園子温の『自転車吐息』という映画には、「俺」という旗を掲げた男が街をさまよい走るシーンがあった。なんてことを思い出しながら、これは静かにしかしがっちりと世間に対して、井手の孤独を語る公演に他ならなかった。この点を強調しすぎるのも良くないことだとは思うのだが、それは端的に言って彼の「性的なアイデンティティ」に関すること(ぼくの過剰な読み込み、勘違いがなければいいのですが)。「炊飯器」を手にあらわれ、踊り出す。これは間違いなく「おかま」だ。それは最後には、猛烈な蒸気を噴き出して舞台を真っ白にする。あと、最後の最後、ひととおり踊って歌った(?!)後、汗かく背中を剥き出しにしてしかし、おもてを見せずに佇んだあたりは、男性ダンサーがしばしばイージーに上半身裸になってしまうことへの静かな抵抗のようでもあり、また丸い背中のセクシーさを訴えるエロティックなシーンともとれた。最初の、舞台にゆっくり上がって、足さばきに没頭し、盛り上がってきてさあ踊ろうか、と言う時に、フトンをたたく「お母さん(?)」が現れて邪魔される当たりなどは、意外にさまざまなイメージがかきたてられて重要な一場面だったようにも思える。
ともかく、本気の一発を見せられたと思って感動しました。

次、は、新大久保まで。まず渋谷まで歩いて、ツタヤ寄って、てくてく。

水と油『不時着』(@グローブ座)
基本は、翻弄されるひとを中心に、翻弄する人がめまぐるしくものを動かしあったり、体を動かしあったりしていく、という感じ?
普通、パントマイムで翻弄されるのは、舞台上の誰かではなく観客でしょ。でも、翻弄され役は、舞台上にいる。あれあれあれ、さっきここにあったものがない、はて?、、、というわけだ。それを「八時だよ全員集合」のように、観客はだまされ男とだまし組の関係を眺める。その回路を見ている感じ、機械をスケルトンのケース越しに眺めているようなもの。そういう機構を眺めること自体は、人間の欲望に備わっているものだから、ついつい見ちゃうのはそうなのだけれど、ハッとするほど面白くはないのだ正直。でも、そういう約束事のもとで転回されているということは、ひとを安心させる。観客は安心している。ひとは案外安心したいものなのだろう。そういう意味で、固定ファンはいるのかな、土曜の午後の娯楽、であった。

その後更に中央線乗って40分ほどのところへ。海の幸三昧をごちそうになる。庭で取れたというイチゴの酸味にうなる。膨らんだ腹押さえながら最終電車に間に合うか?と走る。長い一日であった。