Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

四谷ダンス教室

2005年05月27日 | Weblog
に潜ってきました。

はじめて体験の桜井圭介「○○ダンス教室」。ヴィデオを駆使して、桜井さんのおもうダンシーな動きを観察していく。JBのヒザあたりのガクガクした痙攣とか、グルーチョの骨なしな足のダンスとか、それにはさまれるピナ・バウシュの手だけのダンスとか。踊りを見て笑ってしまうと言うのは一体どういうことなのか、この問は結構ダンスを見始めた初期にすでに気になっていたことなのだけれど、それは必ずしも単純にギャグのダンスってことじゃないのだよね。ダンスのなかのギャグで笑うんじゃなくて、ダンスで笑っちゃうのだ。まさにそのツボのラッシュ。笑っておなかが痛くなる。

(閑話休題   ああでも、ところで。ピナ・バウシュの魅力は桜井さんが言うとおり、ぼくもシグサのダンスにあると思う。しかもそこで重要なのは、それを戦略的に観客との親密な関係を取り結ぶきっかけにしていることだろう。桜井さんもシンプルな振付でそれを群舞でやると、統一性よりも個々のダンサーの身体の個性が出てくることがあると言っていた。それは、個々のダンサーに観客がいわば没入してしまうのだ。そういうところもそう。またただみんなでぐるぐる舞台上をゆっくり巡る時に、微妙に観客を意識したような、「後ろ髪ひかれる」みたいなところがあって、こういうところじっくり研究してみたいものだ。要するに、観客との関係に自覚的な作家としてピナ・バウシュを評価する。このあたり、ぼくは相当重要な論点だと思っているのだけれど、まだあんまり議論されていないよねえ。フリードが現代美術に観客の問題を持ち込んだように、ぼくもダンスに観客の問題を持ち込みたい、のだ。つーか、振付家の皆さんも是非自分の作品において観客とは何か、考えてみて下さい。多分それで作品が一新することがあると思う)

ってことで、別に桜井さんから何か言われてってことではなく、6/16に始まる「南烏山ダンス教室」行くべきッスよ、楽しいッスよ。きっと。レク、すでにいまから(一回聞いた見たばかりなのに)楽しみです。

そういえば、
ぼくが小四のとき、RCサクセションにいかれてしまったとき(1980年頃)、キヨシローの地団駄踏む、じたばたするダンスが大好きだったのを思い出す。もともとはあれはオーティス・レディングお得意のダンスだった。すでにあのときに、はじまっていたんだなあ、ダンス好きは。

その後、吉祥寺へ。何故?はい、民民というラーメン屋で、餃子とチャーハンを食べに。ときどき猛烈に食べたくなるものってありませんか?その「ときどきメニュー」のひとつが、民民のこれなんですよね。でも、すでに店じまい(8:30クローズのラーメン屋って)。気分を変えて「いせや」へ。なかなか心地よい、風の美しい夜だった。