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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

NUDE『自分が殺される日、サン』

2005年05月22日 | Weblog
をみる(5/22@西荻WENZスタジオ)。

目黒大路、金野泰史、三上周子の三人がNUDEと称したグループの一時間。
基本的には黒と白、そして「サン」のイメージなのであろう、強いひとつのライト。シンプルな舞台。真ん中で黒い幕をつけた巨大なユニットを縄で目黒が引き回すところは印象的。
さて、イメージとしてはかなり異なるけれど、作風としてはモディリアーニなどの一時期の近代絵画をなぜか思い出す。作品と踊りを作るものたちとの距離がそういう連想を引き起こす。舞踏というスタンスから出てくる動き、とはいえじっと待つ、ことはなく、するすると滑らかに動いていく。このつるんとした感覚はなんだろう。強力にぶつかってくる他者、強力にぶつかってゆく他者がない、という我々の生きる状況から引き出されてくる動き、なのか。「ロック」という言葉も浮かぶ。ロックはアヴァンギャルドのようで実はその前線的な要素よりもポップだったり明快さだったりに集中する。そしてそこには基本的に自分探しのモチーフが漂う。そんなロックに似ている。体を強烈に痙攣させて、暴れまくる目黒には、はらはらする興奮する。体という最も基本的な「生」の現場をリアルに感じたくてどこまでも追いこんでいこうとする。その確認の猛烈な勢いは、「自分探し」の問題となって舞踏をロック化させていく。

プログラムの言葉がその点で印象的だったので転載させて貰う(問題があったら関係者さんご連絡を)。

「太陽と黒点

 心臓と情念

なぜ踊るのか?
よくよく考えると、生きたいため、という答えしか出てこない
しかも、激烈に生きたい

なぜそう思うのか、自分でもよくわからない
多分、生きている実感がほしいのだろう
なぜ生きている実感がほしいのか?
それもよくわからない
無意味ゆえに、儚いゆえに、激烈に生きたいのかもしれない

生きること以外に縛られたくないし、生きること以外に何ができるわけでもない
そうして生きることに殺されてゆくのだろう」

シンプルで明快なマニフェスト。正直感動してしまった。そしてこの言葉が伝える彼らの閉塞感に驚いてしまった。「生きる」という問題だけが残されている、しかしそれだけ、という閉塞感。そこに真摯に向かう公演はその意味では切なく苦しく儚く美しい。

体は、どこまでも道具として乱暴に執拗に扱われる。金野のカエルのようなロボットのような精巧なムーヴは、切ないほど金属的な無機質を湛える。もう暗黒舞踏はこのラインでしか成立しないと宣言したいかのよう。身体を極端なまでに管理していくこと。これもまた暗黒舞踏のひとつのベクトルではある、確かに。

さて、このように「自分探し」として暗黒舞踏がいわばロック化することは、それ自体としては問題ではないかもしれない。暗黒舞踏の「活用」はいたるところで起きている、事実。だとすれば、願わくば、観客(オーディエンス)もロック化するといいと思う。目黒ファンとでいうべき集団が出来るくらいに一種の市場が確立されるとこのような方向性は活きてくるのではないか。そこんところが、作品の観客への効果を考えることとして、またプロモーションの問題として、今後煮詰まってくると(また荒削りの部分に対して十分な解決が図られるとすれば)面白い。