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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『文学界』

2005年05月11日 | Weblog
最近、派手になってます、ね。

文芸誌で一番面白いのは新人賞の選評。間違いない。今回もかなり面白い。北野武インタビューの聴き手がハスミ先生とは、これも読まないわけにはいかない。阿部×中原の映画対談とか、もうかなり「よみで」あり、なのだけれど、今回ぐぐっと来たのは、高橋源一郎の連載「ニッポンの小説」。これについては、宮沢章夫さんのブログ見てたら話題に出てきて、昨日買ったばかりのこれで読み飛ばしてたと捲り返して、さっそく読み出したら、うお、相当面白い。

猫田道子『うわさのベーコン』

についての書評(?)である。これを読むと「トカトントン」(ダザイ)が聞こえてくるという高橋は、あらゆる「間違い」を含んだこの文章に、「気をつけろ、文学などというものに」という警告音を聞きつける。どうもそれは高橋の整理によれば、「コミュニケートする力」の不在、あるいはコミュニケートの「必要性」を作者が感じていないことに由来するものらしい。

ぼくは、まだ高橋が長く引用した一部分しか読んでいないわけだけれど、この面白さは「へたうま漫画」の魅力に近いように思った。プロがその道を極めようとしてやるような類ではなく、子供のただ誰に見せようと言うのでもなく天衣無縫に描かれる「絵」に近い。そういう絵の、お姫様の顔の輪郭線とかに、もやもや「へんな気持ち」を感じてしまう、そういったものに。あるいは、手癖むきだしの手書きの文章のような。ぼくは講義のあと10分くらいでその日の講義の意見などを学生に書いて貰うのだけれど、そのとき、何人かのレポートの文字に独特の質を感じることがある。なんともいえない、のたうちまわった言葉(あるいはその文字の表情)。

難しいのは、こういう文章を、作為あるもの=芸術(文学)として扱うべきかどうか、と言うことだ。文学を見つめ直すことにはなるだろうけれど、それが文学になる、と即断してしまうのは、いろいろとまずい、と思う。やはり、「コミュニケートすること」をどこか徹底的に拒否しているからこそ、なんともいえない唯一無二のものである、のだから、それをコミュニケートする媒体である文学の冠を被せるのは「困る」のだ。とはいえ、この猫田さんは文学新人賞にこれを送ってそれでここまで話題になったのだから、「コミュニケートする」気が全くないわけではないこともまた事実だ。その辺りが、最終的には焦点になるのだろう。

けれども、ともかく、こういうものをただただくまのぬいぐるみを愛でるようにただただ愛でていればいいのではないか、ぼくのすることってそれくらいしかないのでは、というのが唯一ぼくのほんとの気持ちだったりする。