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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『日本におけるダダ展』

2005年06月18日 | Weblog
に行った(@東京芸術大学陳列館)。

展覧会よりめあてはダダの映像関連、ということで上映される映像群を見にはせ参ず。でも、どんなねらいで集められているのかは、今一歩不明(ぼくの知識不足が大きいのではあろうが)。


ヴィッキング・エッゲリング「対角線交響曲」(1921)
ハンス・リヒター「リズム21」(1922-24)「リズム23」(1923-24)
オスカー・フィッシンガー「スパイラル」(1926)
マルセル・デュシャン「アメニック・シネマ」(1925)
ジェルメーヌ・デュラック「Disque957」(1928)
マン・レイ「ヒトデ」(1928)
ポール・ストランド/チャールズ・シーラー「マンハッタン」(1921)

アンリ・ショメット「Cinq Minutes de Cinema pur」(1925-26)
デスラウ・ウージェーヌ「La Marche des Machines」(1928)
オスカー・フィッシンガー「スクエアー」(1934)

オスカー・フィッシンガー「ラブプレイ」(1931)
ラースロー・モホイ=ナジ「光の遊戯、黒・白・灰」(1930)
ハンス・リヒター「フィルムスタディー」(1926)
ルネ・クレール「幕間」(1924)

どれも基本的には一発芸的な構成主義的動きの単発(5~10分程度)、そのラッシュ。最後の「幕間」はかなり面白かった(以前教育テレビの何かの特集で見た覚えがあるな)。最後の最後、「fin」と書かれた紙を破いて主人公が飛び出してくるシーンは、村上三郎?と思いもしたが、その飛び出したからだが地面に着く手前で頭を誰かに蹴り飛ばされ、また元の位置に戻っていくところなんかは、もうただただギャグ。この作品には前面に渡って程度の低い(知性的の反対、ようするにお馬鹿な)笑いが漂っているのだけれど、こういう笑いのセンスとダダやシュルレアリスムの関係は、かなり重要だろうと思う(ダダとシュルレアリスムの違いは笑いの角度にある、なんて証明できたらかなり面白そう)。

なんて、しばらく暗闇の中で、実験的映画の目に全然優しくなーい映像を見て、すっかり疲れた後で、てくてくと散歩。御徒町あたりで、地下鉄に乗り、久しぶりに表参道近辺をぶらぶら。