をみる。
学会発表の後、以前からチケットを買っていたこともあり、学会を途中で抜けて新宿へ。いつもよく行く回る寿司やで昼食。昼にはあまり来たことがなかったが、ネタが随分よかった。ひと皿136円の快楽。
そこから新宿文化センターへ。
バウシュ(ブッパタール舞踊団)の日本初上演作品は、ぼくには本当になにも「こ」なかった。もはや、これはバウシュおばさんとファンの集いなのではないか、ということはもう随分前の公演の日記に書いている覚えがあるが、やはりそうとしか思えない。観客に批判的意識なんてない。なのに、妙にハイソな雰囲気。「わたしたちみたいなビンボーニンが見に来ちゃ行けない代物なのよ」(Aさんのご意見、聞き覚え書き)まあ、そういうことなのかな、要するに保守層の知的な娯楽。いや、どこが知的なんだ、でもさ。
おどろくのは、多種多様なダンサーの扱い方。背の低いのから高いのまで、華奢からグラマーまで。若いのから年期様まで、カラーも様々。が、印象的なシーンを作っていたのは古のこと。いまは、何か嫌みなくらいに、それぞれの個性はそれぞれの配置に小さくまとまっている。背の低い女性ダンサーは、空中浮遊などをするのにかり出される。その時の、男女関係が、おじょうちゃんをいいようにあつかう男達、な感じがどうしてもして、いやだ。なぜこれを、グラマーな女性達を使ってやらないのだ?重い、からか?いや、だったら、重いからこそやるべきなのであって楽しちゃいかん。そこに、何かクリティカルな意識を欠いた配置を感じるのは、ぼくだけではないだろう?!
唯一ぼくにとって印象的だったのは、前半の最後のあたり、インド系?の白いドレスが濃い肌の色に映えている女性ダンサーがインド舞踊(足さばき以外はエッセンス的にバリ舞踊に近い)をモダン(モダンダンス的にというよりも、最近のブッパタール舞踊団的に)に換骨奪胎した踊りを踊った、それはよかった。よかったんだけれど、ね。でも、「伝統」を洗練させる、ってことにどんだけ意味があるんだろうという気にもなってくる。「洗練」(これはぼくのカント研究の一部でもあるのだけれど)の意義はいまどこにあるのだろう、「西洋的芸術」のこういう側面を受容するのにぼくらはどういう意義をみいだせばよいのだろう。「かぶれ」じゃないレヴェルで。
ああ、でも、クリティカルな意識は、本当に消えた。ただ、あるのはひたすらな子供っぽい欲動の発散。女達十人くらいに若い男の子がナデナデして貰うシーンとか、様々な「ちちくりあい」の場面とか。とくに気になるのは、女の女性性が平凡なのと男の男性性がやはり単調なことだ。バウシュおばさんに変な期待をするぼくがバカなのか。そうなんですよね、きっとそうだ。
でも、それならば、本気で次回見に行くべきか否かと言うことは、ぼくにとって、クリティカルな問題になってきた。
さて、そんなこんなのおしゃべりのためにも、打ち上げ気分で、新大久保へ。
新宿文化から結構近いところにあるのね、松屋。ほんとにスゲーうまい。カムジャタン(ぐるっと見渡すとほぼすべての卓でこれが食べられている)。なんかの打ち上げでいつか大勢で来たい。え?いまから?ほんと?代々木上原まで?あるくの?ここから?
一時間半ほど闘ったでしょうか、ヒメというのは気紛れであることが信条ということをAもぼくも全うしまして(いや途中まで、か)。ノートパソと資料などを両手に、参宮橋まで歩いたところで、ギブアップ。コーヒーフラペチーノで息を吹き返して。帰路。
学会発表の後、以前からチケットを買っていたこともあり、学会を途中で抜けて新宿へ。いつもよく行く回る寿司やで昼食。昼にはあまり来たことがなかったが、ネタが随分よかった。ひと皿136円の快楽。
そこから新宿文化センターへ。
バウシュ(ブッパタール舞踊団)の日本初上演作品は、ぼくには本当になにも「こ」なかった。もはや、これはバウシュおばさんとファンの集いなのではないか、ということはもう随分前の公演の日記に書いている覚えがあるが、やはりそうとしか思えない。観客に批判的意識なんてない。なのに、妙にハイソな雰囲気。「わたしたちみたいなビンボーニンが見に来ちゃ行けない代物なのよ」(Aさんのご意見、聞き覚え書き)まあ、そういうことなのかな、要するに保守層の知的な娯楽。いや、どこが知的なんだ、でもさ。
おどろくのは、多種多様なダンサーの扱い方。背の低いのから高いのまで、華奢からグラマーまで。若いのから年期様まで、カラーも様々。が、印象的なシーンを作っていたのは古のこと。いまは、何か嫌みなくらいに、それぞれの個性はそれぞれの配置に小さくまとまっている。背の低い女性ダンサーは、空中浮遊などをするのにかり出される。その時の、男女関係が、おじょうちゃんをいいようにあつかう男達、な感じがどうしてもして、いやだ。なぜこれを、グラマーな女性達を使ってやらないのだ?重い、からか?いや、だったら、重いからこそやるべきなのであって楽しちゃいかん。そこに、何かクリティカルな意識を欠いた配置を感じるのは、ぼくだけではないだろう?!
唯一ぼくにとって印象的だったのは、前半の最後のあたり、インド系?の白いドレスが濃い肌の色に映えている女性ダンサーがインド舞踊(足さばき以外はエッセンス的にバリ舞踊に近い)をモダン(モダンダンス的にというよりも、最近のブッパタール舞踊団的に)に換骨奪胎した踊りを踊った、それはよかった。よかったんだけれど、ね。でも、「伝統」を洗練させる、ってことにどんだけ意味があるんだろうという気にもなってくる。「洗練」(これはぼくのカント研究の一部でもあるのだけれど)の意義はいまどこにあるのだろう、「西洋的芸術」のこういう側面を受容するのにぼくらはどういう意義をみいだせばよいのだろう。「かぶれ」じゃないレヴェルで。
ああ、でも、クリティカルな意識は、本当に消えた。ただ、あるのはひたすらな子供っぽい欲動の発散。女達十人くらいに若い男の子がナデナデして貰うシーンとか、様々な「ちちくりあい」の場面とか。とくに気になるのは、女の女性性が平凡なのと男の男性性がやはり単調なことだ。バウシュおばさんに変な期待をするぼくがバカなのか。そうなんですよね、きっとそうだ。
でも、それならば、本気で次回見に行くべきか否かと言うことは、ぼくにとって、クリティカルな問題になってきた。
さて、そんなこんなのおしゃべりのためにも、打ち上げ気分で、新大久保へ。
新宿文化から結構近いところにあるのね、松屋。ほんとにスゲーうまい。カムジャタン(ぐるっと見渡すとほぼすべての卓でこれが食べられている)。なんかの打ち上げでいつか大勢で来たい。え?いまから?ほんと?代々木上原まで?あるくの?ここから?
一時間半ほど闘ったでしょうか、ヒメというのは気紛れであることが信条ということをAもぼくも全うしまして(いや途中まで、か)。ノートパソと資料などを両手に、参宮橋まで歩いたところで、ギブアップ。コーヒーフラペチーノで息を吹き返して。帰路。