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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『帝国、エアリアル』

2009年01月05日 | ダンス
『帝国、エアリアル』 「現実」という名のアトラクション
文=木村覚

 開演前から終幕まで、ゴミ(ペットボトル、弁当の容器、ビニール袋)があまりにびっしりと舞台上に散乱しているので、そのノイズに翻弄されていた。ノイズは身体を癒さずむしばむ。むしばまれることで、ぼくたちは自分の身体を感じる。ただし、その意識化された身体は、後半、ノイズの洪水に自分を閉じてしまうこととなった。この経験が意味することとは、いったい何なのだろう。
 楽屋裏でじっと息を潜めていることを拒む大橋可也は、自らが支配者であることをあえて隠さない支配者である。今日において帝国とは「空気」のことではないか、と彼が新国立劇場のむき出しの天井にあらわれ、マイク越しに説くとき、支配者の見下ろす舞台は、彼がコントロール下に置く世界であることを明かす。この世界は、イリュージョンなのかそれとも現実的な何かなのか、ひとびとの欲望を見透かしたファンタジーなのか(今日その頂点に君臨するのがディズニーランドだとして)ひとびとの欲望を切り裂いてあらわれる血しぶきをあげる肉のごとき現実なのか、まだこのとき判然とはしていない。
 舞台にひとりの女がすでにあらわれていた。くしゃくしゃな髪、動作は一貫性を欠き、見る者を不安にさせる。絶叫した。するとそれを合図に、舞台にひとりずつあらわれる、役者?ダンサー?ひとりひとりの動作は自閉した人間のそれであって、とはいえ特殊な人間というより、ヘッドフォンをした、携帯電話やゲーム機を手にした、どこにでもいる人間のどこででもやっている動作の延長のように見える。各人はばらばらに髪をかきむしったり、倒れたり、ひとつの動作にこだわったり、歌を歌ったり、駆け出したりする。そこには、視線のあからさまな交差はない。街中でひとを見るともなく見て、ひとから見られるともなく見られているときの状態に近い。無関係と思えた集団には微弱な関係性が詰め込まれていた。誰かが不意に、つまづくみたいに体を落とす。と、その周りの誰かも、似たようなカーヴを描いて体を揺らす、といったような。ここには無数の連鎖が発生している。そう気づくと、散乱するゴミに等しいくだらない動作の溜まり場に見えていた舞台が、途端にダンス的な何かとして立ち上がってくる。
 そう思えたときから伊東の演奏が始まるときまでは、見る者の快楽はどんどん上昇していった。バラバラに思えた舞台のひとびとは、互いに微妙な関係の連鎖を引き起こしていて、それに気づきながら舞台のあちこちを眺めやるのは、まるでカメラをズームしたり、パンしたりするようなもので、見る側のとめどない視線の運動が、それ自体ダンスなのではないかと言ってしまいたくなるほど見事に設えられていたのだった。そうした注意の魅力は、大橋が日常的な仕草を舞台に上げていることによって引き出されているものでもあって、見る者が注意を引きつけられてしまうのは、目の前の動作が魅力的な動きのフォルムや躍動感を湛えているからではなく、目の前の動作が仕草的で、その仕草が見る者の記憶を逆なでし記憶を躍動させてしまうそういう装置だからなのだ。それは、不意に見かけた人間の身体部位に過去の記憶を刺激させられる都会での見る経験と重なる。見る行為の今日的リアリティを舞台に上げるというトライアルのひとつの成果として、こうした大橋の戦略を指摘しておくべきだろう。
 こうした光景が20分ほど続いた後、BLIND EMISSIONの伊東篤宏とHIKOが現れ、OPTRONとドラムで視覚と聴覚を過剰に刺激しはじめた。蛍光灯をギターのように抱えてそれが轟音のノイズと繋がっている楽器OPTRONとパンキッシュ?なドラムは、次第に観客の身体を麻痺させていった。それまでの舞台が微弱な関係を追跡するデリケートなものだったとすれば、そのデリケートな庭は、雷雨に激しくかき乱されていった。BLIND EMISSIONの演奏はそれ自体として魅力あるもので、UNITみたいな場所で踊りながら聴くなら申し分ない。ところが観客は、舞台芸術系とライヴ演奏系のふたつの受容のファンクションを同時に起動させるよう強いられた。この贅沢な困難に、ともかく音を上げてしまったのは、ぼくというよりはぼくの肉体だった。
 演奏が30分ほどで過ぎると、舞台には相変わらず自閉した者達の世界が続いていた。誰かがゴミのなかから紙飛行機を見つけはじめる。それが舞台奥に並んでゆく。目の前では、女が結構激しく男に叩かれている。共有する何か(近代的人間性?道徳性?友愛などの理念?)を欠いたひとが曝されることになるのは、他ならぬこうしたむき出しの暴力、ということなのか。そのなか紙飛行機が飛ぶ。そんな癒しに騙されないぞ、と思いながらも、轟音とフラッシュにやられた体でまず何よりすがりたくなるのはそうした(無意味な)希望ではないのかとも思わされる。次第に数が減って最後に残った舞台上の2人は、若い女で、そうした「女神的な何か?」と読み込みたくなる者達を残すことに、いささかの不信感と同時に現実的な癒しの効果も感じてしまう。ぼくたちが欲しいのは現状認識なのか、現実逃避なのか。少なくとも、大橋が行ったのは「現実」というものをテーマにひとつのアトラクションを拵えることだったのではないか。例えば、彼は「生きづらさを感じるあなたたちへ。身体、社会、日本をえぐる。」と副題に付けている(これほど明確にダンス作家が社会にメッセージを発したなどということはかつてあったのだろうか)。「えぐる」という言葉で大橋が伝えているのは、現実を認識するぞという自らの姿勢なのだろうけれど、そこで認識できたらどうなのか、ということが残ってしまう。そこまでがアートの役割と決め込むことも必要だろう。けれども、現実に「生きづら」い状況を生きざるをえないひとにとって、欲しいのは認識よりも生存なのかも知れなくて、少なくとも認識よりも希望なのかも知れない。「えぐる」ことにまつわる快楽が、どこに求められるのか、どこに求めることがしかるべきことなのか。こうした疑問が噴出する。まさにそれ故に、社会においてアートの役割とは何かということを考える基点にこの作品が位置するということは、間違いがない。



乗越さんにあてたメール

2008年12月13日 | ダンス
DC2批評文応募に関する講評や投稿文の掲載は、早急にします。その前に、以下に、ダンス評論家の乗越たかおさんにぼくがあてたメールをアップします。ご本人に直接送った後(そしてお返事をもらった後)で、一旦、乗越さんに悪いと思ってアップを中止していたのですが、乗越さんとのやりとりのなかで(どうしてもアップするようにという命令めいた指示があり)あらためてアップすることにしました。ぼくの気持ちは、下記にあるとおりなのですが、出来れば乗越さんに「連中」「ヤツら」と具体的に議論を交わしてもらいたいという思いが強くあったわけです。いまでもその気持ちは残っているのですが、、、先述したお返事が乗越さんのブログに載るそうです。
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乗越たかお様


突然のメールにて(しかも長文になってしまいました)失礼します。
貴連載『ダンス獣道を歩け』、拝読しています。TENTARO!!について伊藤キムとの違いを通して分析した文章など、刺激を受けることがしばしばで、最近は、ほぼ毎月読んでおります。
以下に書くことは、私として、乗越さんの文筆活動に圧力をかけるという意図はまったくありません。仮に乗越さんにそう思わせてしまうとしても、こちらとしてはそういうつもりではないこと、お断りしておきます。むしろその正反対で、ますます乗越さんのダンスへ向けた考察を明確化して欲しいと思う、『ダンス獣道を歩け』の一読者であり、またダンスについて批評文などを末席から執筆・公表などしている私のような立場から、ひとつご提案を差し上げたく、メールをお送りする次第です。
簡単にもうしますと、「連中」とか「ヤツら」「アレ」「キミら」「プロデューサーやオーガナイザー」などと伏せ字的な表現になさらず、具体的に名前や団体などを明記なさったらどうでしょうか、という提案です。
乗越さんの文の特徴として、「オッチョコチョイ」で「奇形的に肥大した妄想でパンパン」な「どーでもいい議論」に邁進する「連中」を批判することで、乗越さんがお持ちのダンスに対する「自分自身の目」を輪郭づけ、正当化するというところがあると拝察します。その論拠は、以下に取り上げさせていただきました乗越さんの文章などを読むことで、明らかになることと思います。こうした自分とは異なる視点への批判を通して、自らの観点・論旨を明確にしていくやり方は、批評というものの常套手段だと私は考えています。その点では、文章における乗越スタイルに同意する者です。
ただし、残念と思うのは、私が文筆の際に心がけている〈出典を明らかにする〉という点について、私と意見を異にしていると拝察される点です。「残念」と申しますのは、単に私と意見が異なるからではなく、〈出典を明らかにする〉ことが、言説空間において必要な手続きであると一般的に考えられているのでは、と思うからであります。もちろん、このことを「一般的」と考える木村が特殊的なんだと批判を受けるかもしれません。けれども、私が例えば、大学で学生達に口を酸っぱく言うのは、この〈出典を明らかにする〉ことであり、客観的なデータを出すことであります。このことは、私個人の考えではなく、大学というところで論文執筆のスキルを学習してもらう際の不可欠な提案・指示であるはずです。妄想で書いたものは論文とは呼べないからです。
例えば、「これがダンスへの批評だ」「とにかく技術があるのはダメなんだ」というのは、誰のどの文章を想定しての文章なのでしょうか。私は、自分の知る限りこの字面通りの文章を読んだことがありません。いや、私の読んでおらずしかし乗越さんは読んでいるという文章がどこかにあるのかもしれません。であるならば、是非、出典を明らかにした上で、その当の言説をご批判なさることを切に期待いたします。
私が、なぜこうしたことをもうしあげるのかと言いますと、客観的・具体的に出典を示した上での批判であれば、再批判が可能であるというきわめて単純な理由からです。つまり、いわれた人が乗越さんからの批判に応答することが出来ると思うのです。そうして一種の論争が生まれた時に、その場は活性化し、明るくなると思います。
ダンスの批評的言説のなかで、なかなかそうした論争が生まれていないのが、私としてはとてもよくないことと考えています。意見の相違は、どのアートのジャンルを見ても起こっています。大塚英志と東浩紀の新書などは、その一例でしょう。意見の相違は、互いが互いを明示して初めて論争化すると思います。そうではない言説というのは、中傷に対して中傷をもって応じる言論というのは、ダンスシーンという場を暗くしてしまうと思うのです。
あと、いまひとつの理由は、乗越さんが論じられている「研究者」と「ジャーナリスト」のハイブリッドが評論家であるべきとおっしゃられていることに関係しています。「ハイブリッド」の言葉が何を意味し、「評論家」という言葉が何を意味しているのか分からない(とくに私が「評論家」ではなく「批評」と自称している点に関わっています)ところはありますが、私の考えるところでは、一般的・理想的には「研究者」も「ジャーナリスト」も、先に述べた〈出典を明らかにする〉作業を繰り返すことで、自らの論を公表する仕事です。裏のとれた情報に基づいて証拠を重ねていくことが、彼らを研究者にしジャーナリストにするのだと私は考えています(そうではない研究者、ジャーナリストが現実にいるとしても)。
乗越さんの文章のなかで、先に触れた「連中」「ヤツら」「キミ」などの言葉が出てくると、文は批評というよりも扇動の色を帯びてきます。「扇動」と考えるのは私の読書経験に基づいているのですけれど(誤解がありますか)、もし「扇動」が評論家の仕事であるとすれば、それは私の考える批評とはずいぶん異なるものだと思います。乗越さんのなさりたいことは、世間を煽ることなのでしょうか。あっちの水は苦くてこっちは甘いということを、論争的な仕方ではなく語ることで、読者を誘導することが、乗越さんの評論なのでしょうか。私の読む限り、以下の文章は、「研究者」的でも「ジャーナリスト」的でもありません(「勝手な想像」に基づいた文章が、「研究者」的、「ジャーナリスト」的あるいはそのハイブリッドのいずれなのかが正直分からないのです)。
年長の方に対して、突然、不躾なメールを差し上げていること、恐縮です。ここからさらに上を目指していくことが(私の言う「上」が「獣道」とルートを異にしていないと信じています)、ダンスのシーンを明るくすることにつながると、切に信じ、その一心で書きました。どうかおゆるしください。
「論争」という言葉を乱暴に使いました。定義とは言いませんが、「論争」という言葉を使う時、私が毎度思い出す場面があります。2000年頃、原宿フラットというイベントで、まだまだ新人扱いされていた椹木野衣さんに対して、徹底的に厳しい言葉を浴びせ続けた浅田彰が、あるとき、「トムとジェリー、なかよくけんかしな、だよね」と口にしたその場面です。「なかよくけんか」これが、私なりの論争のイメージです。これが出来たらいいのにと思うのです。もしよろしかったら、論争のコーディネート、未熟者ですが私が務めることも可能です(もろちん、乗越さんのいう「連中」が複数グループあるかも知れず、またその「連中」が論争に乗ってくれるかはまた別の問題としてありますが)。

  木村覚

追伸
一、いうまでもないことですが、このメールは、誰かに扇動されてのものではありません。私の判断で、自分自身の目からもうしあげていることです。
二、ひとつ残念と思うのは、「連中」「ヤツら」「キミ」と呼んでいらっしゃる対象に私が含まれていないだろうことです(あくまでも私の勝手な想像の範囲ですが)。もし、私も含まれているのであれば、私と論争してくださっても結構です。
二、このメールは、まさにダンス批評の論争化のために、後日拙ブログでアップするつもりです。ご理解下さい。


「勝手な想像だが、いろんな意味で山賀の持ち味である「何にもなさ」を、「これがダンスへの批評だ」とか「とにかく技術があるのはダメなんだ」と無知を露呈してやまぬオッチョコチョイな連中に担ぎ出されたのではないかなぁ」(『DDD』2008年9月号、p. 117)

「ダンスを頭でばかり考えすぎ、奇形的に肥大した妄想でパンパンのヤツら、仲間内だけで通用する「自称・素晴らしい言説」の傍証にダンサーを利用するヤツら……。」(『DDD』2008年9月号、p. 117)

「オレは「何が人をダンスに駆り立てるのか」にしか興味がないので、こういう連中のどーでもいい議論には与しないが、けっこういるのだ」(『DDD』2008年9月号、p. 117)

「アレとかアレとかあんなのとかがハバを利かせているダンス界の現状を打破するような、じつに骨太の可能性を東野は感じさせてくれた。そしていまや活躍の幅を世界へ広げている」(『DDD』2009年1月号、p. 94)

「こういうダンサーの評価がのちのち高まってきたとき、かつてイチャモンを付けた連中の常套句は、“前よりも良くなった”というやつなのだが、ダンサーや振付の本質なんて、そうそう変わるもんじゃねえよ。変わったのはダンサーじゃなく、見ているキミらの目のほうだ。」(『DDD』2009年1月号、p. 94)

「プロデューサーやオーガナイザーの中には“オレのところに出てから良くなった”とまで言いだす輩もいるしな(ごく一部だけど)。」(『DDD』2009年1月号、p. 94)

「“評論家とは、研究者とジャーナリストのハイブリッドであるべき”と書いたことがある。“すでに評価が固まっているものばかりを対象にしている「研究者」は、しばしば知識ばかりで知的体力がないため、新しいアートが出てきたときに受け止めきれない”という主旨だ。」(『DDD』2009年1月号、p. 94)


DC2+帝国ナイト+GUD

2008年12月03日 | ダンス
いくつかお知らせを。

DC2で募集していた批評文の審査が終わりました。投稿してくださった方には、随分お待たせしてしまいました。締め切り後にご投稿してくださった方も含めると10人超の批評文があつまりました。4000字というハードルにもかかわらず、、、これは、なかなかすごいことです。三日間で二百数十人のお客さんがいらしたとして、20人にひとりが文章を寄せてくださったということになります。観客と公演とのダイレクトなコンタクトを起こしたいという企画・出演者側の思いが実現出来ました。
審査結果は、近々、このブログとDIRECT CONTACT専用ブログで公表いたします。乞うご期待。

大橋可也&ダンサーズ「帝国・エアリアル」のプレイベント「帝国ナイト」が12/9に青い部屋で行われます。そこに私も参加することになりました。超左翼マガジン『ロスジェネ』の浅尾大輔さんと大澤信亮さん、大橋可也さんとトークをします。どんな話になるのか皆目分かりませんが、どうぞこちらもよろしくお願いします。

「grow up! Dance」プロジェクトですが、急な募集にもかかわらず、多くの方が応募してくださいました。ダンス公演の可能性について、率直に意見を交わせる場に出来ればと思っています。かっこをつけずに、いきます。ワークショップ/セミナーなどのイベントも準備しています。こちらも、よろしくお願いします。



GUD

2008年11月17日 | ダンス
桜井圭介さんのブログに、参加意図などが書かれてあったので、ぼくも少し、そのようなことを書きます。

最近、このブログでも書いてきたように、せっかく力があるのに残念と(少なくともぼくは)思ってしまう公演をしている振付家・ダンサーがいて、どうにかならないか、と自分なりに悩んでいました。そこで、たまたまこの企画の話を聞き、参加することに決めました。

踊れるのに、作品として説得力がややたりない。
熱意が、観客にしかるべき形で届いていない。

こうした事態は、恐らく、ダンス界の内部でダンス公演をしている限りでは、出来の良し悪しくらいで片づけられていたと思うんですね(お稽古→発表会のようなシステムの中では)。あるいは、一種のアマチュアリズムがそういう状況を許していた点もあったでしょう。

けれども、いま、吾妻橋ダンスクロッシングなどの展開によって、ダンスをダンスの内輪で消費するのではない枠組みというものがどんどん生まれています。諸々のジャンルがクロスオーヴァーしているときに、ダンスのクリエイターはそうしたクロスに対する体力と知力と説得力をもっていないとつらくなってきている、というのが現状ではないでしょうか。

いま、ダンス業界(振付家・ダンサーのみならず、出版分野、批評・研究、企画制作、観客などなどを含めた意味で)が問われている気がします。君たちには、リアリティある作品を生み出しまた評価する力があるのか?と。もちろん、この問いは自分自身に向けられているものだと考えています。自分に何が出来るのかが問われる機会と考えています。

「grow up!Dance」の「成長」とは、だから、単に振付家・ダンサーへ向けてではなく、ひろくこの業界のリストラ(再構築)へ向けた動きにならなければ意味がないと、ぼくは考えています。求められているのは、すべてのひとが知恵を出すことです。

以上の意味をこめて「ダンスを考える」機会がこの企画とぼくは考えています。一緒に「考える」気持ちのある方の応募を切に期待しています!

「grow up! Dance」プロジェクト

【応募条件・対象】
◎振付家としての成長を目指す方
◎過去に1作品以上、自身の作品を発表したことがある方。(上演時間は問わず)
◎ダンス、または身体を用いたパフォーマンス作品であること。
◎2008年12月20日(土)第1回プロダクションミーティング及び2009年4月15日(水)~22日(木)の集中リハーサルに参加できること。
◎2009年1月10日(土)11日(日)・12日(月・祝)に開催されるセミナー、ワークショップへ参加できること。
◎首都圏内に在住の方。(アサヒ・アートスクエアに自己負担で通える方)
◎応募締切 11月30日(日)必着

【選考方法】
送付いただいた、応募用紙と映像資料をもとに選考委員の審査により、2~3組のサポートアーティストを選出いたします。

【選考委員】
桜井圭介 (AAS運営委員/音楽家/「吾妻橋ダンスクロッシング」オーガナイザー)
木村 覚 (美学研究者・ダンス批評家)
紫牟田伸子(ダンスファン/アート&デザインジャーナリスト)
三上さおり (世田谷パブリックシアター)

【スケジュール】
◎公募締切:2008年11月30日(日)必着
◎サポートアーティスト決定・発表:12月14日(日)(予定)
◎第1回プロダクションミーティング:12月20日(土)(非公開)
◎セミナー開催:2009年1月10日(土)~11日(日)
◎集中リハーサル:4月15日(水)~22日(水)(非公開)
◎公演:4月25日(土)~26日(日)@アサヒ・アートスクエア

【応募申込・お問い合わせ】
アサヒ・アートスクエア事務局
〒130-0001東京都墨田区吾妻橋1-23-1スーパードライホール5階
「grow up! Danceプロジェクト」応募係
Tel 090-9118-5171(10:00-18:00/火曜定休)
E-mail gudp@art-npo.org

■主催:アサヒ・アートスクエア
■協賛:アサヒビール株式会社
■企画協力:JCDN
■企画制作:alfalfa(アルファルファ)

Grow Up! Danceプロジェクトでは振付家を募集しています

2008年11月12日 | ダンス
Grow Up! Danceプロジェクトでは、11/30締め切りで、振付家を募集致します。すでに公演歴のある方で、自分の作品・振り付けの方法をブラッシュアップしたいという振付家の皆さんが対象で、様々なプログラムでサポートし、最終的に4月にアサヒ・アートスクエアで公演を行ってもらいます。今回、この企画の選考委員のひとりになりました。新人を育てる企画はいくつかあると思うんですが、単独公演がある程度のキャパシティで行えるようになることを支援する企画というのは少ない。日本のコンテンポラリーダンスが、他のジャンルの取り組みに対して、他の国の現状に対して、ちゃんと応答出来る水準になることを、ぼく個人としては目標にして行こうと思っています。

奮ってご応募下さい。



サンガツpresents"Hello World!"

2008年10月26日 | ダンス
10/25
えっと、どうもすいませんでした!
ことの発端は、10/22に

「突然なんですが、

今週土曜日1日あいていたら、スーデラでやるイベントにでませんか

ファイファイマーチをやるのですが、参加してくれたらと、、」

と快快のKさんから突如メールが入り、イベントのことは知ってはいたものの明らかに間違いメールだと思ってそういう返事を書こうとして、「い、いや、、、待て」とあらためて考えてみて、「マジか」と疑いつつも、彼らがそうしたいのならば、、、ということでオッケーのメールを返したのでした。当日三時にリハに合流、アニキと快快で1時間練習して、それで本番。「マーチ」は、誰でも参加出来るダンスという狙いがあるのだろうと「吾妻橋ダンスクロッシング」で見て思っていたので、アニキやぼくの参加は(半分はメンバーが足りない故のピンチヒッターなんだけど)、そうした外部も巻き込んで一緒に踊る行進したい、という彼らの意図を示すことにもなる、、、ということになるのでしょうが、まさか自分がこんな形で出演するとは、、、怖ろし快快。

と、自分のことはもうこれくらいにして、このサンガツ主催のイベントは、ちょっと歴史に残る素晴らしいものだったと言っておきたいです。ぼくが個人的に神村恵や快快をずっと評価してきたから、ということも当然あるわけだけれど、そんな彼らをサンガツがこんな風にスーパーデラックスというコージーな空間で並べて見せてしまったということに、感動と正直、嫉妬とが生まれました。DCのストイシズムと吾妻橋のポップとが、こんなにうまくミックス出来るのか!DCとも吾妻橋とも違う面はもちろんあるんだけれど、並べてみることもまた出来る。何より、いいと思ったのは、観客の集中力と楽しんでいる感じが、場を盛り上げていったところで、それが、難解にも受け取られがちな神村のダンスをすんなりと味わえるものにしてたと思うし、快快と神村を並べて見るというぼくからすれば違和感はないけれど多くの人にとってはなかなかそうはなっていない現状のハードルをすんなりと飛びこえさせてしまうことにもなってた。おそらく、演目が快快→サンガツ→神村という順だったことも功を奏していたと思う。つまり、真ん中がサンガツというのが、ちょうどよりポップな快快とより難解な神村との蝶番の役をスムースに果たしていたのだった。ということは、サンガツというバンドのふところの広さ、ポップと難解さとの振り幅をもっているということが明らかになったわけで、いや、サンガツの演奏には本当に興奮した。ドラムが四人でギターが2人でベースが1人という編成は、もうその時点で、なんだか全員がわがままな中学生バンドみたいな風情があり、つまり自分はドラム!俺はギター!と、アンサンブル無視して各自が自分の欲求のままに楽器を持ち寄ってしまった、みたいなところがあって、ギターをはじめて買ってはじめてアンプにプラグを差し込んで「ジャーッ」とコードも押さえずにただ、嬉しくて嬉しくてピックをおろしまくる中学生の熱情が、そのまま「音楽」の体裁をとってしまっている。もうほとんど奇跡みたいに、強情なエナジーを観客が共有出来るものになっているところがまさに「音楽」の体裁をとっている故、その故のなせる技なのだけれど、観客がキャーキャー興奮しながら興奮のヴォルテージを膨らませていきながら、ただそのためにだけ演奏が続けられていることに、演奏というものの可能性がぐっと迫り上がって来た。いや、ほんとに、いまの中学生はこういうバンドをやればいいのに。80年代の中坊がボウイのコピーに勤しんだように、00年代の中学生がサンガツの真似をすればいいのに。

サンガツpresents"Hello, World!"

「排気口」「紙ひこうき」

2008年09月01日 | ダンス
8/24
イデビアン・クルー「排気口」を見た。旅館を舞台に演劇的というかダンサーが役柄をまとった形で登場、もちろんほぼ無言ですすむのだけれど、ダンスやしぐさだけで、人間模様が的確に表現されていて、さすがな演出。客演の安藤洋子は三味線をもって旅館の女主人?ぱきぱきと踊る。その一方で、井手のダンスは小さい。ちょっとした手や腕や体の部位の角度をつけることが、踊りになる。これがたいそう魅力的なのだ。小さい変化の方が効果が大きいというのは、いったいどういうことなんだろう。安藤の方は、自分の思い描いた軌道を十二分に身体がなぞらないと気が済まないみたいに見えるが、井手の方は、思い描いたものと実際にやってみている動きとにギャップが(距離が、マチが)ある気がする。出来ないというのではなくやらないというか。その余裕が余白が、単に動きの形ではなく、間とかグルーヴとかを生み出す。イデビアン・クルーが、日本のコンテンポラリー・ダンスの代表選手(メジャー級)と考えると、救われる気になる。ふわーっとした定まらない各役柄のアイデンティティが、からむ相手によってあっちにいったりこっちたにいったりと揺れるところもダンス的だ、というと、これはそうした「アイデンティティ」の問題を深く鋭く追求してきた井手であるからこそ、出てくるものなのであって、よく言われる「コンテンポラリーダンス」=「なんでもあり」みたいなこととそれはまったく無関係だ。感服。

8/28
ファビアン・プリオヴィユ&バレエ ノアの公演を見た(世田谷パブリックシアター)。二作品。「EDDIE」は、プリオヴィユのソロ。最初の最初、水を飲むと体が変容していくという演出で、それはちょっとベタだよと思いつつ、ごくごくちいさく、右手の人差し指と親指が何やら痙攣的に動いている、それが気になった。人差し指は伸ばして揺らすとバレエダンサーの脚のよう。ぼくは以前から小さく動くべき!と唱え続けてきておりますが(上のイデビアンについても同様)、やはり、こういうのいいと思うんですよね。身体へのデリカシーを感じる。後半は、いわゆる踊りっぽい動きになっていくのだけれど、立たない立てない状況を積極的に設定したりして、それもユニークな身体が生まれる一助をなしていた。手の形とかささいなところで、個性を感じさせるひとだなと思った。最後の蛍光スーツ(部分的)で踊る、べたな変身とかは、なんだか「ご愛敬」って思ってしまいましたが。
後半は、問題作「紙ひこうき」。高崎市のバレエ組織バレエ ノアの若いダンサー達が、プリオヴィユの演出・振り付けで踊った。高校生の日常をピナ・バウシュの方法論で「コンテンポラリー・ダンス」の作品へと仕立てた、といったところか。「女子高校生がバンドをはじめてレッド・ツェッペリンを完コピした」みたいなところがあって、それはよくやったともいえるし、しかしそれを今日の日本のコンテンポラリー・ダンスに一石を投じたみたいにいうのはさすがに言い過ぎになるだろうとも思った。別にバウシュに引きつけて考えなくてもいいが(しかし誰がどう見ても「バウシュ」のべたな応用なのだ)、あえてそうするなら、バウシュの「タンツテアター」のように、観客の方に向きときに観客に語りかけながら、日常的なオブジェとともに日常的な身振りを反復するという点では類似点があるものの、決定的に異なるのは、動きの意味や人間の相互関係が定まらず、あっちにこっちに変容していくという契機がないところ。日常がかなりシンプルな形で舞台に陳列されていく。故に単線的。ただし単調にならないのは、これだけ溌剌と女子高生たちが自分をオープンにしてくれているからだろう。頭を大きく上下にしながら長い髪を振り回すといったバウシュ的な「女性性」を強く意識させるダンスも出て来て、しかし、やはり若いと言うこともあるのだろうが、女性性の深みへと沈潜していくわけではなく、乱れる髪にはむしろ心地よい若いエロティシズムが発散されていった。恐らく、この作品の魅力の多くはそうした若さのエロティックさなのだろうと憶測するが、それが演出家の手腕によるものか、ダンサー達の自分への反省によるものか、あるいは制服というものに貼りついたコードのなせるわざか、よく分からず、そのよく分からないところが、この作品の評価を最終的に不確かにさせるところかもしれない。あと、この作品を作品たらしめたのは、演出家によるものと思われる一貫した音楽のセンスというのが大きいだろう。これもまた、リズムに特徴のある「バウシュ好み」といいたくなる選曲だった。
こうした外国人作家の日本ダンス界進出というのは、今後、増えていくのではないか。ぼくたちは「欧米」という冠に弱い。これほどベタに「バウシュ」な方法論を展開したプリオヴィユに対して「おまえそれ、何考えてるんだ?」と質すよりも、日本人の女の子にバウシュを踊らせてくれたことに、評価が与えられるとしたら、ちょっと!と思う。『DDD』の基調もそうだけれど、お稽古(レッスン)文化としてのダンスが一層ダンスのシーンを席巻していくことだろう。その際、いろいろなことがうやむやになっていくのかもしれない。

せいこうナイト with ADX(@Super Deluxe)

2008年08月03日 | ダンス
8/2
ボクデス×五月女ケイ子/コンタクト・ゴンゾー/康本雅子/鬼ヶ島などが出演。終電が出るくらいの時間にChim↑Pomがパフォーマンスをやるというのだが、残念ながら見ることなく帰宅。客層が明らかにいつものダンス公演とは違う。誰を目当てにというよりは「いとうせいこう」という名に信頼して集まった、というような雰囲気があった。真新しさがないというのは、見る側の欲深さなのかもしれない、けど。コンタクト・ゴンゾーは、とても面白かったな!四人の男たちが、かなり痛さを感じるレヴェルでぶったたき、蹴り飛ばし、乗っかり(=コンタクト)合う。その四人のバトルに、ヴォルビックのペットボトルと使い捨てカメラとビデオカメラが、まさに「飛び」道具として使用され、それが素晴らしく機能しているのだった。康本は、ごく短い出演だったけれど、やっぱり素晴らしい。見る/見られるの関係へ向けた彼女のアプローチについては、ほとんど語られていないと思う、けど、彼女は執拗にお構いなしに繰り返している。見る者は、取りこぼし続けている。

7/30
学生を集めて「批評」についてのレクチャーとワークショップを行う。2度目のバーベキューなので、炭に火をつけるのとか、ホタテをひっくりかえすのとか慣れてきた。

7/26
学生(一年)を自宅に集めて前期の打ち上げ。途中雨になるが、彼女たちが帰る頃には止む。帰り際、一人がYou Tubeで心霊映像を見ようと言いだし、見るとすっかり場が沈み、あっという間にみんないなくなってしまった。

「おやつテーブル vol.3」(Lucite Gallery)

2008年07月26日 | ダンス
7/25
まえだまなみ主宰の企画「おやつテーブル」第3弾、「秘密の応接間」を見た。

せまい現実の空間だからこそ見えてくるものがあって、それは身体の「動く」ということがもつ表情の感触だったりするのだけれど、今回も、そうしたことの可能性を痛感させられた公演だった。たとえばピナ・バウシュは、舞台上に現実のものをしきつめる。対して「おやつ」は、現実の空間をかりそめの舞台とする。見ているうちに、なぜバウシュは「おやつ」のアイディアを採用しなかったのだろうなどと思う。ここに、コンテンポラリーダンスのもうひとつの水路があったのでは、などと思う。いや、バウシュがやらなくとも「おやつ」がやってくれているのだから、それでよいのだ。手がものに触れる。その表情だけでダンスとなりうる。ひとりいるだけでダンス、いや誰もいない瞬間も空間がダンスとでもいいたくなる表情をみせている。そこに、いわゆる踊りはない。あっても滑りやすい床はそれが滞りなく進むのを拒む。あるいは、ソファに座ってしまえば、それは、ダンスとして自律したものではなくなる。けれどもそれでも、そこにあるのはれっきとしたダンスじゃん、とぼくたちに教えてくれたのがピナ・バウシュだとすれば、その視点を実に正しく豊かに展開している「おやつ」という企画が「日本のコンテンポラリーダンス」の代表的な存在でなくてなんなのだろう。歴史は複数形であるはずなのだ。とても誤解されやすいのだけれど「コドモ身体」論が、歴史の複数性への気づきを含んでいたことは、是非忘れない方がいいと思う。10月におこなわれる新しい吾妻橋ダンスクロッシングにも出演する「おやつテーブル」が、まさに桜井圭介的なダンス論のポテンシャルから(純粋に「コドモ身体」論の文脈に乗っているか否かは別として)出てきていること、そして、それがこんなにも豊かな作品を上演してきていることは無視出来ないと思う。

セッションハウス レジデンスアーティスト公演 「4 [four]」

2008年07月21日 | ダンス
7/20
鹿島聖子「17」
杏奈「嗚呼(仮)」
ホン・ヘジョン「Hybrid」
鈴木ユキオ「言葉の先」

鈴木の作品は、ソロ。冒頭舞台奥に尻を突いて倒れた姿から始まる。基本的に四つのシークェンスに分かれており、正面向き、横向き、後ろ向き、舞台奥から前進する。舞台の中央に四角くライトの当たったところがあり、そこに入って出るまで。鈴木は身体の質が問える(動くことの動機へ見る者が関心をもつことの可能な)希有な存在、その身体がじっくりと堪能出来た時間だった。

「金森穣の新作」について

2008年07月19日 | ダンス
7/19
今朝も六時から北野街道。けど、さすがに4日連続の疲れが出ているのか、ジョグというよりウォーキング。今年はあまり夏休みという感慨がない。借りてきた猫みたいな気分、で土地にまだ慣れていないからか。この辺りは、城下町だったこともあるからか、小川が石造りだったりして、とても美しい。バリを透かし見る。

帰って、シャワーを浴びたあと、Realtokyo での小崎さん(面識無し)のコラムをたまたま読んだ。「コラム」という体裁の文章に対して「批評」の水準を求めるというのは問題があるかも知れないけれども、いくつか気になったことがあったので、メモを書いてみようと思う。

読むと、小崎さんが、金森穣を推したいのだが、推せるポイントはどこなのか書きながら探しているという印象をもつ。「探しあぐねている」とまでは思わないけれども、最終的にどこを推したいのかがぼくには明瞭に理解出来なかった。例えば、

(1)「ファン」の「意表を突」く「演劇性」や音楽の扱い、「見世物小屋」という語彙まで登場する「猥雑」さは、それ自体として、推すべきポイントではきっとあるまい。

あるいは

(2)小崎さん曰く「我々は時代の中で踊っているのか、踊らされているのか。前者だとしても、我々に真の主体性があるのかという問いは残る。後者だとすると、我々を踊らせているのは誰なのか?」などという問いを喚起させる「黒衣」の「支配人」と「人形」=ダンサーとの関係が次に説明される。この点は、きわめてバレエ的な主題(クライスト「マリオネット芝居劇場」などのテクストはもとよりロマンチックバレエの政治学というものは、つねにこのあたりのラインが問題になる)であろうと思う。また、その今日的な解釈が今日のダンスが生まれるひとつのトポスであることは間違いない(『ブレードランナー』への言及は新しい身体のあり方が示唆されているようだ)。問題は、「我々は時代の中で」というときの「時代」に対するアプローチだろう。

(3)ゆえに、小崎さんが推すのは、「時代」を映す鏡として、この作品が機能していたという点についてである。「現代日本の病は的確に捉えられていたのではないか。現実を映す鏡は、大人の手できちんと磨かれていた。」と小崎さんは述べている。この文章にあらわれる「きちんと」や「的確に」という言葉がこの文章を批評文ではなくコラムにしていることは間違いないが、つまり、出来ることならば、どう「きちんと」鏡は磨かれどう「的確に」現代の「病」が捉えられていたのか、「きちんと」「的確に」描写するべきだろうと思う。もしそうでなければ、この文章のすぐ上の文こそがその「鏡」を内実を捉えたものとなってしまうだろうからだ。「物語の途中で、「国産」「偽装」「毒」「期限」「CO2」などのカードが説明も脈絡もなく提示されるのは単純すぎて芸がない」。まじめに読めば、「芸がない」ことが「鏡」の本質となり、「子ども身体」(桜井圭介氏の呈示したキーワード「コドモ身体」を指すものだろうと思うのだけれど、わざと何か揶揄をこめて「子ども身体」などと書いているのだろうか、さもなければ編集者の手落ちか、あるいはダンス批評の言説などまじめにつきあわないという宣言か)の定義とさほど変わりのないものになってしまうではないか(と、ツッコミを入れるのは、批判のための批判みたいになってしまうけれど、ぼくが望むのは先のような「きちんと」「的確」という言葉の内実が知りたいと言うことだ)。

ぼくなりに考えてみた結果、小崎さんが金森を推している最大のポイントは、

「何よりも身体が伸びている。すなわち、体力と技術の極限までを用いて踊りきっている。」

というところにあるのではないか。「戯れ」ないで頑張っていると。でも、頑張っていればいいのだろうか?「ある評論家」という文章中の人物がいう「幼くてイタい」という言葉は、そのあたりに向けられてはいないだろうか(推測ですが)。ぼくは頑張っているからそのひとを見に行くという「応援団」的な気持ちで観劇するタイプの観劇はやめました。「応援団」的な観賞がこれまでのダンス公演を支えてきたのは間違いないと思うのですけれど、ぼくはやめました。「体力と技術の極限」というとき、それは主観(各ダンサーごとの極限)にもとづくのか客観(ダンスの極北にある例えばフォーサイスが引いてしまったラインとしての極限)にもとづくのか、ぼくが「頑張る」という言葉を用いているのは、今整理した「主観」の「極限」の方を指して「極限」という語を小崎さんが用いているように思えたからです。もしそうでない「客観」だとすれば、金森はフォーサイスレヴェルに達したという話になるのですが。

(1)も(2)も正直、新しいか古いかで言ったら、「古い」観点だろうから(「見世物小屋」って60年代ですよね、ぼくは『恐怖奇形人間』をまず連想します。そのものズバリをあげるのならおととい見た1974年の『田園に死す』はベタです。「ブレードランナー」は80年代ですか)。手あかのついた新しさを、身体を「伸」ばして「極限」まで踊るダンサーの上ににコーティングして作られた作品?ということならば、いままでの金森作品とそんなに変わらない気がするんです、が。

ぼくがこんな文章を書いたのは、別に小崎さん個人を批判したいためではない。全然そんなんじゃないです(とはいえ、「子ども身体」については、問題があるのではないかと。忙しいだろう編集者の単なる誤植であることを祈ります。あと「戯れ言」と書くのは相当挑発的だなと思います。ぼくは桜井言説の単なる擁護者ではないですが、このような発言の真意はもう少しクリアにして頂けたらと「ダンス批評」を名乗っている立場から思います)。ただ、ダンスを語る言語をもう少し高めていけないものだろうか、と常日頃思っているので、つい、です。あと、金森穣を推す言説をぼくはもっと読みたいです。ぼくはいま金森作品を見なくなってしまったのですが、誰かが的確な批評を書くことで、それを読んだことがきっかけで、また見に行ってみたいといつも思っています(そんな気持ちから「金森穣の新作」も読み始めました)。

新聞に取材された記事

2008年07月17日 | ダンス
7/17
7/16付け朝日新聞朝刊の文化面にインタビューを受けた記事が掲載されていました。昼に大学に行ったら、助教さんが教えてくれました。タイトルが「魅惑の"落第ダンス"」とは。1時間くらい受けた取材で、お話しした5分くらいが紙面化されるわけで、ちょっと事実問題で気になるところもあったりとか、ともかくこういうものは記者さんの文章であって、ぼくのものではないのだなーと感じた。けれども、とにもかくにも「トヨタ問題」なんてトヨタ自動車には迷惑な問いを立てたことが、こうした余波を生んだ、ということですかね。

続「トヨタ」問題

2008年06月30日 | ダンス
パフォーマンスが始まる前、客席をぼくは2階席から見ていたのだけれど、これまでの「トヨタ」と較べてなんだか静かな感じがした。客に身内が多いように思うし、対して美術系とか音楽系とかテレビ系の各「業界関係者」はあまり見かけない。前回はそうじゃなかったよな、などと思い返すと、その穏やかな感じが目立って見えてしまうのだ。

ぼくが重要だと思うのは、この六組をコンテンポラリーダンスの関係者たちが選んだという事実。

つまり、このアワードがいまの「コンテンポラリーダンスの関係者」の考える「ダンス」なのだということ。

もしそんなこと言われちゃ困るよ、というのであれば、セミファイナルの審査後に、自分はこう考えてこう投票したのだが、結果はこうなった云々と公言するべきだったろう。

ぼくは残念ながら審査員に選ばれなかったので、そうした見解を述べたりする立場になかった。そうしてファイナルステージまでにアワードを盛り上げることが出来る立場になかった。(「トヨタ」が選択した関係者として、是非、審査員の人たちにはいろいろと頑張って欲しかったなーと思ってしまうのです。少なくとも、振付家たちダンサーたちは、その動向を見守っていたと思います、彼らはどうこの「お祭り」を盛り上げるのだろう?と)

なぜ審査員同士で論争をしなかったのだろうか。その論争がアワード最大の焦点になったろうに。

多分、ぼくが審査員に選ばれなかったことは、意図的なことだろう。あるいは、そもそも木村という人間の存在を「トヨタ」側が知らなかったこともあるかもしれない、とすれば、それはもうぼくの方としてはどうしようもないことだけれど。(たら、ればを言うのは醜いことと思うけれど)ぼくが選ばれれば、論争をしていたと思う。少なくとも仕掛けていたと思う。そういったことをあらかじめ牽制して、選ばなかったのだとぼくは考える、考える(憶測する)ことしか出来ない立場なので。

鈴木ユキオが受賞したことは、昨年の本公演を見て感動したぼくとしては正当だと思うし、そうじゃなかったらどうしようとも思っていた。ただ、あの上演は、完璧なものではなかったと思う。だから、「受賞者なし」という選択肢もあったはずだ。岸田戯曲賞は、少し前、そういう決断をした。そうした水準の呈示をファイナルの審査員がすることもありえたわけです。

ぼくは「トヨタ」外部の一観客として提案します。

是非、石井氏と伊藤氏でどういった審査をしたのか、いまの「ダンス」の状況をどう捉えているのかについて、対談をしていただきたい。それを、文芸雑誌か『ダンスマガジン』『DDD』かに掲載して欲しいです。文芸誌、ダンス雑誌の編集の方、どうかご一考ください。これが出なければ、「トヨタ」は「単なる内輪の発表会」になるでしょう。「コンテンポラリーダンス」は「同時代の」という言葉の意味が薄れ、単なるそういうダンスのジャンルと化すことでしょう(もうほとんどそうなっている気がしますが)。リアリティのあるアートとして外部の人たちからみなされることがなくなり、単に大学の舞踊科が支える「オーセンティック」なものとなり「現代舞踊~」とさほど変わらない存在と化すことでしょう。

ここまでこう書いてきましたが、ぼくは「コンテンポラリーダンス」の外部に自分はいる、という気がしています。

トヨタコレオグラフィーアワード2008

2008年06月29日 | ダンス
6/28
今年のトヨタが終わった。結果は、
「次代を担う振付家賞」 鈴木ユキオ「沈黙とはかりあえるほどに」
「オーディエンス賞」  きたまり「サカリバ007」
            KENTARO!!「泣くな、東京で待て」
「審査員特別賞」    KENTARO!!「泣くな、東京で待て」

ということに。

山賀ざくろ・泉太郎「天使の誘惑」
巨大な白いボードの前で踊る山賀を、ビデオ撮影したモニターに落書きすることでちょっかいを出す泉というのが、この作品の個性的なところで、しかし、冷静に見る限りでは、その個性は、十分に発揮出来たとは思えなかった。きっと山賀と泉を知らないひとたちには、下手なダンスと下手な絵という以上の化学変化を見せつけられなかったのではないだろうか。残念。ぼくとしては、泉のちまちましたちょっかいは、彼の自宅で自分の家のテレビモニターにツッコミを入れるという設定が全うされてこそ(このアイディアの発端に位置づけられるだろう「キュロス洞」がそうであるように)、出てくる意味があるはずで、つまり、2人の空間は、仮に舞台という空間を共有してしまっているのだとしても、可能な限り分断させて、勝手に踊っているひととそれに対して自宅の部屋からツッコミ入れているひとという「さみしー」2人が対比されるべきだった。そうした極めて「マイクロポップ」なコンセプトが十分に説得的に具現化されて、はじめてこの作品のポテンシャルが、「誘惑」とは何であり、「天使」とはどんな存在なのかが見えてくると思うのだが。

得居幸「Bring Me a PPPeach(もももってきてちょうだい。2)」(yummydance)
日常的な動作がある衝動をともなって思わず不意に勝手に動く、などということへ移行する、と、それが「ダンス」になってくる、というある種の「コンテンポラリーダンス」がもっている概念を丁寧にトレースしていく。わっわっ勝手に動いてしまうー。という自分でも分からない自分の何かこそがダンスの核なのだという思想は、ダンスの「内発性」を信仰する20世紀のある種の傾向にきわめて従順だな、と思い、その生真面目さは尊いがおどろくほどいまのぼくのなかでそういうダンス観はうまく機能してくれない。ヤミーに対して拙ブログの中で書き続けてきたことのように思うのだけれど、その「衝動で動いてしまう」という発想が舞台をきわめて「芝居がかり」に見せてしまっているのだ。モダンダンスのようなスタイルから自由な、しかし、エクスプレッショニズムに相変わらずがんじがらめのダンスは、どうしても「わざとらしい」と気持ちが萎えてしまう。何を自分が見たのか、ほとんど記憶にない。

鈴木ユキオ「沈黙とはかりあえるほどに」
冒頭の、バカ太郎(?「肉体の叛乱」の土方が「馬鹿王」だとしたら)みたいな素っ頓狂な動き、腕や脚がつっぱらかって、思うように動けないー、前に進もうとすると十個くらい余計な動きを経ないとならないーといったあの3分くらいのシーンが圧巻で、ほぼそれに対して賞が捧げられたのでは、と思うくらいそれは強烈だった。残念ながら、その後は、とくに真ん中あたりの鈴木が舞台から消え、代わりに安次嶺のダンスが時間を構成するところは、鈴木のダンスが単に即興的ないし個人的なものではなく、方法を含んだ振り付けであることを告げるという意味では重要な場面だったし、安次嶺のダンスは、鈴木の方法をきちんと咀嚼したものと映り、それ自体見応えはあるにはあるのだれど、やはり鈴木のダンスの極端な面白さにはかなわず、だから頼むから鈴木のダンスを堪能させて欲しいと希望しつつも、そうした冒頭に匹敵する瞬間は訪れぬまま、終幕。

KENTARO!!「泣くな、東京で待て」
ヒップホップ的なヴォキャブラリーを用いつつ、康本雅子的なリズムあてメロディあてのダンス。そこには、一定の快楽はあるけれど、だからといって、康本のような批評性や艶っぽさに並ぶ何かがあるわけではなく、彼の頭の中にあるのは、なにやら路上で自分の絵を売ってたりするような類のアーティストのような何か(に思われた)。こんないきいきとしたダンスを踊るぼくも日々悩んだり迷ったりしながら生きてます、そうした悩みにもめげず頑張って生きていきます、あ、ところでみんな大好きです、、、みたいなメッセージが舞台に充満。すごいうすーい内容に驚くのだけれど、同時に、この薄さがちょうどいいと思うひとも居るんだろうなと考えてみたり(今日のある種の日本語ラップの人たちの薄さに相通じるような)。自分の踊る身体の実存に苦悩するといった初期型にも似た苦悩を感じるが、しかし、その苦悩が初期型のようにこじれるのではなく、実に明快に舞台化される、そのさじ加減に、要はあまり見る者を悩ませない演出に、今日的な何かを感じる、かな。コンドルズがビジネスマンだとすれば、KENTARO!!は露天販売人?これが近々吉祥寺シアターでソロ公演を打つというのだから、「露天」なんて次元ではもうないのかもしれない、けど。

北村成美「うたげうた」
白い服を着た北村が口から赤い薔薇の花を漏らしその花が人生のさまざまなフェイズを照らしていく、、、といえばいいのだろうか。自分の内側に溢れてくる思いが体を踊らせるといった得居のところで書いたようなダンス観がここにも。ぼくはもうそこに何かを感じられなくなっている。不感症になってしまった。傍観してしまう。ひとつ思ったのは、北村はここで何がしたかったのだろう、ということ。トヨタに出ると言うことに対して、何か新しい挑戦とか、アイディアの呈示とか、自分を説得させようとか、野心があったのだろうか。ぼくはそうした強いものが感じられなかった。いつものしげやんが出て来て、いつものようなことをした、というものに見えてしまった。

きたまり「サカリバ007」
ドレスにしろ、マイクにしろ、最後の方に出てくる花にしろ、誰もが思い起こすのは、「これ、ピナ・バウシュじゃん」ということに相違なく、ただし、この作品を締まったものにしているのは、こうしたある意味べただとしてもバウシュの方法論を自分なのに丁寧に応用した、その方法的姿勢にあるとぼくは思う。とくに、最後の方の、ひとりの胸の辺りをひとりが後ろ手に拘束されながら蹴りを入れるシーンは、なんどもなんども繰り返される内に、なんとも言えない充実が起こってきていた。なんていうのは、いかにもピナ・バウシュ的。「キスしたい」という女の子の性欲がときに高ぶり、ときに停滞し、その上げ下げによって舞台が転がっていく。得居や北村のような内面というか、身体の生理への眼差しは共有しているのだけれど、その見せ方は方法論として一貫していて、見るに値するシーンをいくつか作っていたと思う。けれども、もうちょっと言えば、そうした「女の子の性欲」がダンスとして描かれたからと言って、それがなんだというのだろう。批評家は、こう書ける。「きたまりは、激しい情念に揺れる華奢な体を存分に振り回しながら、今日の女の子が抱いている欲望(性欲)に向けて、ストレートな、しかし十分に見応えのある方法的アプローチをもって迫った」。批評家がこう書けるために、彼女がこうした作品を作ったのでないとすれば、彼女がするべきことは、もっと真摯で残酷な視点を設定し、それをダンスの新たな方法を介して(他人のアイディアを単に応用するのではなく)具体化することだろう。

初期型、群々(むれ)

2008年06月28日 | ダンス
6/27
群々(むれ)「あたらしい世界」(@アサヒ・アートスクエア)を見た。
岩渕貞太、関かおり、ミウミウ、尾形直子、原田悠、長谷川寧、松本梓出演。と、初期型同様、これまでの日本のコンテンポラリーダンスを踊ってきたダンサーたちが集まって作ったグループ。ニブロール、山田うん、大橋可也&ダンサーズ、など。振付家というよりも、ダンサーたちが集まった集団という点も、初期型と重ねてみてしまう点である。どうも、アイディアが平板過ぎたように思うよ。つまり、「何かの刺激があって、それに応答する」というのの繰り返し。「群」というグループ名にある言葉を反映したものか、観客は、10人くらいずつ、ホールに入れられるんだけれど、その際に、照明の当たったところへ歩いてください、などと言われ、照明があちこちに流れていくたびに、それを追うように促されたりする。そういった「センサー」的な指令→応答がいたるところに張り巡らされていて、その実行が時間を構成する。ルールを設定するというアイディアは、神村や手塚と似ていなくはない。けれども、結果が大いに異なるのは、ルールを実行するに際しての態度が、クールではないという点に起因する。なんと言えばいいのだろう、指令→応答関係が貧困な気がした。応答の結果が豊かになる余地を残していないということでもあるし、応答のダンス(要は、タスクのダンスでありゲームでありうるのだけれど)であるならば出てくるべき運動の質が看過されているということでもある。残念ながら、タイトルにあるような「あたらしい」要素をぼくは感じることが出来なかった。
ともかくも、ダンスのクオリティが低くて、何を見たのかが思い出せない。いまするべきことは、地道な方法的探究なのではないか、とやはり痛感した。「見せるべきもの」は何なのか、ということが自分たちのなかで不明確なのだろう。それは、ダンサーが作ったグループということの難しさ、弱さが出ているのではないか。つまり、運動をかっちり見るべきものへと仕立てるための方法論が練りあげられていないのだ。すると、例えば、ダンサーが激しく暴れていても、本人達が思っているほどに、「暴れている」というダンスになってなくて、ただ「とっちらかっている」感じに見えるだけだったりする。その暴走が見る者に迫ってこなくて、傍観してしまうのだった。
ぼくは個人的に岩渕くんをよいダンサーだと信じている。今回の公演の中でも、彼の動いている姿はずっと見てしまう。何か希有なみずみずしさがある。一年前の「yawn」のような作品を岩渕はコンスタントに作らなきゃいけないんじゃないか、そこへと捧げるべき熱を、彼はここで消耗してしまうのだろうか。充実したソロ公演が個人的に見たいです。


6/23
初期型「MELEE」(@シアターイワト)を見た。カワムラアツノリ、アゼチアヤカ、カキウチユカリ、シゲモリハジメ、ヒラサワヨウ、フカミアキヨ、ネギシユキ、マツザキジュンらが出演(フライヤーの表記が全員カタカナだったので、、、)。何かを「新しいもの」として呈示することが新作公演の目的であるといった類の思考にもう乗る気になれない、、、というような気分が舞台に満ちている。そのもっともキャッチーなところは、若手の演劇出身というダンサー(名前が分からない)にカワムラが暗黒舞踏を教示する場面だった。パロディは、何かある内輪にいるものを「そのテンションはたからみるとばかばかしいよっ」なんて感じで批判するところで機能する。けれども、そうした「からかい」が機能するのもある内輪にいるものたちなのであって、つまりパロディが成立するには元を知らなければならないわけだけれど、そういう意味でパロディは内輪批判であると同時に内輪を強化する機能ももっている。要は、ばかばかしいことをやっている彼らのばかばかしさは、ある内輪にとってのみ「受ける」ものであって、ぼくとしては、そういう内輪を強化することになる自分たちのアプローチに対して初期型はどういう意識をもっているのか?なんてことが気になってずっとみていたのだった。要は、それをぼくは笑えなかった。けれども、どうも爆笑しているひとが客席にいる。ぼくはなんとなく、そのひとたちはダンスを踊る人たちなのではと思っていた。踊り手にとってのツボに何かしらヒットする身体動作なのか?と思いつつ、笑えないぼくには、それがどんなツボなのか見えてこなかった。総合的には、きわめて荒っぽい身体動作の連続で、そして力が強く入っている身体でもあり、何やら自分の肉体をこの場に見せつけたいという気持ちなのかも知れないのだけれど、そして、そうした肉体の実存とでもいうべきかの肉体性に、何かしらいまダンスの世界で起きているひとつの脈のようなものを感じたりもするのだけれど、簡単に言えば、それは「ギャーギャーなんかやっている」というもので、そのテンションの高さは、ぼくの見るエナジーを萎えさせた。

なんか、すごい、まだろっこしい文章になってしまった、、、
ぼくとしては簡単に言うと、いまなぜカワムラアツノリという日本のコンテンポラリーダンスのなかでとても重要なダンサー(山田うん、高野美和子などの公演でダンサーとして踊ってきた人物)がこのようなダンスへのアプローチを選んでいるのかがよく分からないのだ。コンテンポラリーダンスというものの輪郭を自らの身体を通して極めて正確に実現してきた男が、なぜ、パロディというか、「ギャーギャーなんかやっている」ダンスをやっていなければならないのか。よく分からないのだった。分からない僕の目からは、肉体をもてあましているダンサーの苦悩がじわじわと帰りの電車の辺りで感じられた、ということが印象的で、そうしたダンサーの実存はそれとして問題にすべきだろうけれど、ぼくはそれを見にお金と時間を費やしたいかと言えば、正直そうじゃないのだ。初期型が出て来たときの脇の下をパコバコ鳴らすアイディアには、見る側の楽しめる要素もあったのに。