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Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

石川勇太

2009年06月21日 | ダンス
サミュエル・マチュー・カンパニーGENERIC Xに、Grow UP Dance Projectで公演をした石川勇太がダンサーとして出演します。チェックよろしくお願いします。

昨日、手塚夏子がキュレイターを務めた「ラボ20」を見に行った。

即興・仮設・外部

2009年05月31日 | ダンス
室伏鴻、ベルナルド・モンテ、ボリス・シャルマッツ「磁場、あるいは宇宙的郷愁」(@慶應義塾大学日吉キャンパス)5/28

室伏鴻の魅力が即興にあるのは間違いない。とくに1人ないし複数の共演者がいるとき、室伏はその場に独特の緊張感やスリルを引き出すのが上手い。唯一無二の能力だと思う。そして、そこにいまのぼくの悩みがある。

即興というのは、自分の内側(情念?記憶?イメージ?)ないし外側にあるもの(他のパフォーマー?諸々の視覚的・聴覚的・触覚的対象?)から自分の次の動作を動機づけてゆくものである。あらかじめ固定した設定や振り付けを用意しない即興は、その分、自分の運動の動機をその場その場で仮設することになる。この仮設の作業はとても難しい。あらかじめ固定した何かを実行することよりも場当たり的な仮設作業の方が、パフォーマーの狙いや計略があからさま露呈しやすく、そうなると即興は非即興的な上演よりも非即興的に映りがちだからだ。

「仮設」とは、ないものをとりあえずあるものと見なすことであり、仮に時々刻々解体され再編されるものであったとしても、仮設(という視点から見た場合の即興)は、そうしたないものをあると見たてる演劇性から逃れる手段を用意していないと、即興が本来もっている予測不能の時間をひらくという本質的な力を発揮することは出来ない。

変容し続ける場を感じ、その都度、仮設する。上記した問題から照らし出すなら、この仮設こそが即興の見所になる。雨音を感じ、場の薄暗い空気を感じ、ゆっくりと舞台空間に足を踏み入れる。観客の威圧感とともに、自分がそこにいることを感じる。そこにいる自分はどんな気持ち?その気持ちにどう反応する?そう反省を進めるなかに「仮設」は生まれるだろう。ある程度は、開演前に用意したものも「仮設」の手段になる。衣装や小道具など。光を感じ舞台にいる自分を感じる、自分の身体の履歴をインデックスのようにめくり、いまの自分を「仮設」する。さて、さて。

この「仮設」を可能な限り準備不足の状態から始めようとするパフォーマーに、狩生健志(「国」)がいる。彼は、マイク一つだけ握り、舞台に上がり、用意した台本をすっかり忘却したかのようなまるごと不安のような存在になって始める。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、不意に思い出したこと、自分の喋った言葉から浮かんだ連想、観客のリアクション、それだけを頼りに進む。もちろんそれは、上手く進まない。彼の舞台外での振る舞いからすれば、シャイとは言えても口べたではない。適当なおしゃべりを繰り出せば、見事なマイク・パフォーマンスを披露し場を盛り上げるなんてことは難しくないはずだ。狩生はそうしない。そうしないことで、上手く進まない事態、上手く進められないパフォーマーの性能こそが見所になる。出来ることよりも出来ないことこそが見るべきものになっている。この奇妙な舞台芸術は、ぼくが思うに、そうすることで、パフォーマーの性能を確認することが鑑賞体験となっているパフォーマンスなのである。この確認は、観客とともにパフォーマーもしていることで、狩生の舞台空間では、誰もが平等にこの「性能の観察者」になることが出来る。

ぼくの目は、例えば、狩生のパフォーマンスと重ねながら、「即興ってなんだろう」と思いつつ、目の前の光景を観察し続けている(あるいは、川染喜弘のことも思い浮かべている)。室伏鴻と、ボリス・シャルマッツとベルナルド・モンテは、ともに雨合羽を身に纏い、結構強い雨がガラス越しに見えたり聞こえたりするなか、天井高で石の床や柱が囲む空間のなか、基本的にはかなり激しい動き、「エモーショナル」な動きを見せた。印象的だったのは、ガラスの壁に3人が同時に激突する場面。ポップな音楽を流すとテーブルに座った3人が、ティッシュをつまみ上げそれを顔の穴に突っ込んでゆく場面(泡まみれのような顔)。室伏がソロを踊り、四つ足でうろうろし、スティールの棒を掴んでは落として、床を叩いてリズムを作ったりした場面。その後、舞台に飛び込んでくると室伏を拉致するかのようにテープでぐるぐる巻きにし、ミイラのようになった室伏を跳び蹴りして横倒しにし、不器用な感じで暴れるシャルマッツの危なっかしい狂気/凶器の身体が、椅子をとってガラスに傷がつきそうなほど激しく投げつけ、テーブルを壊しなどした場面だった。

これは、現在のダンスのひとつの達成と見るべきなのだろう。暴力、狂気、ユーモア、、、テーマもさることながらこうした即興のあり方、パフォーマー同士の関係性は、今後のダンス公演のモデルとなるのかも知れない。そうかもしれないのだけれど、ぼくは戸惑いの気持ちのまま見ていた。冒頭の壁に3人が激突する場面は、篠原有司男のボクシング・ペインティングのようだった。「アクション・ペインティング」に見えた。客観的なイリュージョンではなく主観的なエモーションを画布に刻印させる「アクション・ペインティング」の技法は、主観的なものを肯定する方法であり、個性の尊重であると同時にそれは、「私的言語」のように他者に対して閉じて見える。どうしてそうした「エモーション」を暴走させているのか分からない。「分からない」ので「あいつ何だか暴走しちゃってさあ」と一種慈しみの感情とともにパフォーマーをやさしく見つめることは可能だろう。

ところで、この「あいつ」は、あくまでも仮設された「あいつ」だ。室伏がシャルマッツがモンテが、素でガラスに激突したいと思っているわけではない。「激突する自分」を仮設して、「激突」すると立ち現れるだろう「エモーション」を見る者に放り投げている以上でも以下でもないであって、「エモーション」が彼らの素の状態から生まれたものではないことは、当然だけれど確認すべきことだろう。「あいつ暴走しちゃってさあ」と見る者が思うとき、「あいつ」含めその「暴走」や「エモーション」は、作られたもの(演劇)である。終わりの方で、シャルマッツがガラスの壁に椅子をたたきつけた時などは、その演劇性を突き破るかのようなやり過ぎに見え、ちょっと場が揺らいで見えた(「演劇」とは言っていられないシリアスな暴力に見えた)。けれども、そうした過剰な「暴走」の逸脱でなければ場を揺るがせられない、ということではないはずだとも思ってしまった。

現在のダンスは、この公演から見る限り、1940年代ないし50年代的だということになりはしないだろうか。つまり、いまだ表現主義的と言うべきなのではないだろうか。すべてのダンス公演がそうだと思わない。けれども、強調して上記したような「エモーション」の表現は、私的言語を舞台上で語っても許されるパフォーマーの特権的な地位を温存させるものであって、「ジャドソン・ダンス・シアター」と自称する1960年代の若者たちがトライしていた、いかにしてダンスを公共的なものにするかというモティーフからは遠ざかっている。ぼくの目にはそう見える。

いやそうではなくて、そうした60年代の展開は、80年代以降、批判的に解消されたのであって(「美術手帖」が「ミニマリズムから表現主義へ」という時間が逆転してしまったかのような状況を的確に特集化していたのを典型として)、今日は、特権的なパフォーマーの「仮設」を受動的に受容する時代なのだよ、と笑われてしまうのかもしれない。

恐らくここに、ぼくの室伏鴻評価に対する逡巡がある。ぼくの室伏への思いは「Edge」の衝撃の内に集中しすぎていて、そこから彼を見てしまう(それは、「室伏鴻評価」などという大袈裟な話以前に、ぼくの病と言うべき事柄なのかもしれない)。「Edge」の衝撃は、以前「美術手帖」(2005年12月号)に書いたように「切断」のなかにある。場のテンションを高めた後であっさりそれを止めてしまう室伏、あるいは場とともに高まった自分を冷静に見返してしまう室伏。「ハイブリディティ」。ここに舞踏がある(と、かつて室伏がぼくに語ってくれたことに、ぼくはどうしてもこだわってしまうのだ)。いや、室伏からすれば「木村、あそこにあったエッジを見逃したんじゃないの?」とぼくの目こそを批判したくなるかもしれない。あらためて、思い起こしてみよう。「エモーショナル」な公演(祭り)の「外部」への通路があの場のどこかにぽっかり口を開けていたとすれば、それは一体どこだったのか、と。


講演

2009年05月24日 | ダンス
昨日、「ヴィデオを待ちながら」関連企画の講演がおわりました。120名ほどお越し下さったとのこと、5回行われた講演で一番の動員数だったようです。とはいえ「無事に」とはちょっと言いにくい、プロジェクターのショートというハプニングが三十分おきに三度ありましたが、、、ご来場下さった方、どうもありがとうございました。今回、「レディメイド」という概念を調べて、あらためてこれをデフォルトとする考え方が必要だなと思いました。そうしてはじめて21世紀型の芸術論、ダンス論、哲学というか人間学が立ち上がってくることになるのではないでしょうか。いずれどこかで、原稿にまとめたいと思います。常勤、非常勤両方の大学の学生のみなさんも数多く来てくれて、なかにはリゲイン1ダース陣中見舞い(?)に持参してくれた学生もいて、感謝です。お疲れの泉太郎君と学芸員三輪君にあげておきました(前日の金曜日には、泉君に大学に来てもらってトークしてもらったりなんてこともありました、人気者の泉君は、急いでタクシーに乗り、原美術館の「ウィンター・ガーデン」オープニングバーティに向かったのでした)。


2009.5.23@東京国立近代美術館(「ヴィデオを待ちながら」)

ダンスとレディメイド               
:1960-70年代のダンスと美術の交点
担当 木村覚

1 イントロダクション 1960年代のダンスと美術
 1-1レイナー「トリオA」
 1-2レイナーのチャート
2 レディメイドと人間の身体
 2-1デュシャンの「レディメイド」概念
 2-2 50-60年代アメリカにおける「レディメイド」概念の受容
  2-2-1 デュシャンの考える「ポップの芸術家」
  2-2-2 オルデンバーグとレディメイド
 2-3 ケージとレディメイド
3 ダンスとレディメイド
 3-1 Merce Cunningham Walkaround Time(1968)について
 3-2 ジャドソン・ダンス・シアターと「レディメイド」
  3-2-1最初のコンサートからの作例「Daily Wake」「Proxy」「Transit」
  3-2-2その他の作例「Flat」「Two Satie Spoon」
  3-2-3マイブリッジとジャドソン・ダンス・シアター「Huddle」「Room Service」
    「Waterman Switch」
 3-3タスクとレディメイド

主要な参考文献
Carrie Lambert-Beatty, Being Watched: Yvonne Rainer and the 1960s, MIT Press, 2008.
Ramsay Burt, Judson Dance Theater: Critical Traces, Routledge, 2006.
Liz Kotz, Words to be Looked at: Language in 1960s Art, MIT Press, 2007.


話が出来ずに残してしまったのは、美術評論家・ロザリンド・クラウスが、ジャドソン系のダンスについてヴィトゲンシュタインを介しながら論じている文章について。プライベートな次元からパブリックな次元へとひとが移るためには、語の意味を語の意味像ではなく語の使用の内に捉える必要があるということ。いわばそれは語を上演してみること。例えばそれは「歩く」などというタスクを、身体を通して実際にやってみることであり、そうすることでのみ、芸術はパブリックな次元を獲得することが出来る。「公共的」というと堅苦しく感じられてしまいそうだけれど、特殊なひとのみが語り手に(作り手側に)なりうるという考えから自由になって、誰もがプレイグラウンドの一員になりうるような装置を生み出すこと。「タスク」のアイディアは、そうした装置として構想されたものなのではないか。そうそう、これも言い忘れましたが、歩く動作、走る動作がバレエやモダンダンスの運動よりも好きだったわけではないと思うんですよね、ジャドソンのダンサー達は。好き嫌いではないんですよ。デュシャンが趣味批判として「レディメイド」を展開したように、趣味とは別の次元で「歩く」動作をコピー&ペーストしていたのではないか、そう考えるべきじゃないか。

「「日常の運動」のダンスを採用することで、ジャドソンのダンサーたちは「日常言語」の観念との結束を明らかにした。それは、いわば、心/身体の区別を言語の行動主義者的な見方へと分解する哲学である。語の意味はその使用である。彼らは格言としてウィトゲンシュタインを引用したものだった(彼らがウィトゲンシュタインを読んだことがあったかは定かではない)。語が意味するところを知るとは、ひとが参照する、語の「意味」の像を心の内にもつことではない、それはむしろ、語を用いて語を実演するperformひとの明白なる能力の一機能なのである。心の内にある想像上の像がもし全く主観的で、個人的でprivate、私だけがアクセス出来る何かであるとすれば、語の実行は公共的publicである。すなわち、私がそれを正しく用いたか、用いなかったかである。」(Rosalind Krauss, The Mind / Body Problem: Robert Morris in Series, in Robert Morris: The Mind / Body Problem, Guggenheim Museum, 1994, p. 6)

こちらは講演中紹介しましたが、パクストンはこんなことを言ってます。

「歩くことは、あなたが勝手にいじったり出来ない何かなのです。もし「普通に歩く」と言うならば、膨大な素材を抱えることになります。いじろうとすればするほど、普通に歩くことは当の事柄の持つ質を減少させるでしょう。」(Paxton: Sally Banes, Democracy's Body, p. 60)

パクストン→高円寺

2009年05月18日 | ダンス
昨日(5/17)は、Steve Paxtonの「Night Stand」を見た後で、高円寺に直行し、Chim↑Pom展「捨てられたちんぽ」を見に行った。高円寺のガード脇では、キュレイターのAさんがメンバーと飲んでいて、なんだか楽しそうだ。お酒が過ぎると謹慎を余儀なくされる(芸能人さんのいる)息苦しい日本で、こんなに楽しそうにお酒を飲んでいると罰せられてしまわない?なんて気持ちは、展覧会の素晴らしいプロローグだったと後で気づいたりして、いつも躓きそうになる階段を上ると、真っ白い狭い空間に、若い男の子とか、キュレイターの女の人とかがなんか酔っぱらってくつろいでいる変な空気の中にあれはいた。
白い壁からピョイと飛びでていたあれは、見慣れているはずのものであり、確かに似たようなものを自分も持っているのだけれど、最初は、なんか赤い独特の肌色が醜く見えにくく、ちょうどおへそくらいのところで浮かんでいるので、なんだかあれに見えなくて、「あれなんだ、そーかー」とおもった次に自分がついしそうになるのは、それを掴むことだったりした。普段、人前にあらわれない、人前に見せてはならないと頑なに思っているものが目の前にある。するとひとはともかく隠してしまいたくなる。あるいは、どうにか使用して(使用すれば隠せるから)しまいたくなる。キュレイターFさんは酔っぱらっている。こりゃ、確かにしらふではいられないよな。なぜあれが浮かんでいるだけでしらふではいられなくなるのかは分からないけれど。Fさんは、目の前で息を吹きかけてみてくれた。すごい反応する!萎縮したり膨張したりが甚だしい。パクストンの会場で会ったSさんは、見るのに1時間かかったと言っていたけれど、これは確かに見てしまう。こんなに激しく変化するというのも驚きだが、しかもその変化がこれほど自分の身に置き換えられるオブジェはないだろう。本人は、壁の裏にいて見えない。見えない向こうにあれだけを差し出すというのはどういう気分なのだろう。また、あいつら、バカやって、、、というひとは美術に対してそれほど興味のない人かも知れない。世の中には、ギャラリーの床下に忍び込んで、そこでひたすら自慰行為を続けた男もいるのだ(その男の作品は「ヴィデオを待ちながら」の最初の方のブースを飾っている)。その作品は、パフォーマーも観客も互いが「見えない」というところで起きることにねらいを定めている。さて、この高円寺の作品は、両者の目は合わないが、観客の目とあれとは見つめ合う。なんだか、よく動くので、生きているようだし(実際生きているけれど、自律して)、なんだか言葉くらい喋りそうな人格を持った存在にしばらくすると見えてくるから、また気持ち悪い。「陳列」という点だけだと、最近の事例ではポツドールが思い浮かぶ。けれど、そういうセンセーショナリズムよりも、あれをじっと見続けるという希有な経験を見る者に与えるところに、この作品の力を感じた。会場奥には、5人の表札が展示してあった。かつてChim↑Pomが制作した作品。真ん中の表札には、リアルの立ち位置通り、「中居」とあった。

artscape0905(0904)レビューと「ヴィデオ」講演

2009年05月11日 | ダンス
artscape4月分+5月プレビューがアップされました。どうぞ、ご覧下さい。


来週の土曜日には、東京国立近代美術館で「ヴィデオを待ちながら」展関連イベントとして1960-70年代のダンスと美術を巡る講演があります。14:00からです。いまその整理をしているのですが、おおよそこんな感じになりそうです。タイトルは変更させてもらって「ダンスとレディ・メイド 1960-70年代のダンスと美術」です。

ぼくとしては、いままで考えずにおいたことをこの際一挙にいろいろと考えてみようと思ってすすめています。企画の三輪さんには、時間におさまるんですか?と聞かれてしまいましたが、最大の問題は、内容がありすぎることになりそうです。「レディ・メイド」という20世紀のアートにおける最大のキーワードは、ダンスにとってもやはり相当キモになっていたのだと、あらためて気づかされています。「タスク」の話もするし、上手くいけば、現代のダンスの状況ともからめてみようと画策しています(それこそ、そんな時間あるの、ってところなんですけれど)。今後も、ちょっこちょっこ準備の経過報告をしていけたらと思っています。よろしくです。

1イントロダクション 1960年代のダンスと美術
1-1レイナー『トリオA』(1966)
1-2レイナーのチャート「「見出された」運動」(ダンス)と「工場の製作」(オブジェ)
2レディ・メイドと人間の身体
2-1デュシャンのレディ・メイド概念(+アンフラマンス)と身体
2-2-1ラウシェンバーグのパフォーマンス 身体とレディ・メイドのコンバイン
2-2-2カニンガムの『ウォークアラウンド・タイム』(1968) 
2-3「知覚的レディメイド」 
2-3-1ブレクトのスコアとインストラクション
2-3-2ネオダダ、ポップにおける「レディ・メイド」
2-4オルデンバーグとレディ・メイド
2-4-1ソフトスカルプチャー、「ストア」、『ロンドン膝1966』(1968)
2-4-2パフォーマンス作品『フォトデス』(1961) 人間的な物/物的な人間
3ダンスとレディ・メイド
3-1パクストン『Flat』『Proxy代用品』、サマーズ『デイリー・ニューズ』
3-2フォルティ『ハドル』とマイブリッジ
3-3レイナー『トリオA』タスク 人間の身体の存在仕方/知覚のあり方を確認する
3-4レイナー『Lives of Performers』のタブロー・ヴィヴァン(活人画)
3-5キャラクターと身体性 グランド・ユニオンとパクストンのコンタクト・インプロヴィゼイション

グロウ・アップ・ダンス

2009年04月22日 | ダンス
久しぶりです。

来る、金、土、日と浅草のアサヒ・アートスクエアでいよいよ「grow UP! Danceプロジェクト」が上演されます。捩子ぴじんの「sygyzy」、石川勇太の「Time Difference」の二本立てです。公演前から、あまり大げさなことは書かない方が良いのでしょうけれど、是非、楽しみにしてて下さい。2人とも、今後を注目したくなる作品が用意出来そうです。


詳細はこちらでご確認下さい。


今日は、石川のリハーサルを見学に行ったのだけれど、その前に、清澄白河のギャラリーを見てきた。小山登美夫のジェラティンは、予想通りおもしろいです。あと、伊藤存も、ヒロミックスも、遠藤一郎もみられてなかなか。あと、さらにその前に、午前中、編集の方と打ち合わせしていた。ようやく初校を手にしました。『フィジカル・アート・セオリー入門』。もう、すぐ、です。

ところでこの番組とても気になる。美の今日的展開(「バックラッシュ」?それとも)という意味で。美女でなければ人間ではないという美女信仰、ここに極まるって感じなのだ。

artscape三月分

2009年04月02日 | ダンス
artscapeレビュー三月分がアップされました。よろしくです。
三月に見た中で、ここに抜けている公演が結構あります。手塚夏子「プライベートトレース2009」、手塚夏子+神村恵「神村の手塚と手塚の神村」など。いずれメモ程度でも残しておこうと思います。

GUDPの2人

2009年03月03日 | ダンス
artscapeの連載、2月分がアップされました。ご覧下さい。

昨日(3/2)は、GUDP(Grow Up Dance Project)の稽古を見に行った。夕方、吾妻橋のあたりは突風が吹いていた、さむー。

こちらがGUDPのブログです。本公演は、4/25-27(アサヒ・アートスクエア)です。ただいまフライヤー作成中。

あまり今の段階で詳細を語るのはまずいと思うのだけれど、選考のときに提出してくれた作品と比べものにならない格段によい作品が4月には上演されるのではないかと興奮した。選考から漏れた応募者の方々には申し訳ないけれど(彼ら以外にもすぐれた応募者はいましたから、もちろん)、彼らを選んだのは正解だったと思った。とても前向きに作品の再構築をしている、その姿勢にこちらが励まされた。石川勇太は、作品作りに対して「明確にする」ことを重視していると話してくれた。この調子だととてもデリケートな作品になると思う。微細でありかつ強い作品。最奥のダンサーの右手の親指がちょっとへんな角度で曲がっているなんてことから感情が強烈に揺さぶられてしまう、といったような(伝わりにくい?)。捩子(ねじ)ぴじんは、神村恵と福留麻里をダンサーに作品を制作している。石川もそうなんだけれどこちらも、テーマは活かしつつ内容面ではそうとう新しいアイディアが盛り込まれていて、正直驚いた。こんなユニークなアイディアを思いつくなんてところ、捩子らしいなーと思うと同時に、このアイディアが本当に捩子の目指しているところへと到達するのはもう少し先のことになるだろうとも思った(ってこれだけじゃ分からない?)。2人それぞれ相当ダンス観とか、たどり着きたい地平とか違うにしても、どちらも、今後の日本のダンスの未来を予感させるものを作ってくれることだろう。ともかく、2人にワクワクさせられた一日だった。

合間に、夕食として、浅草で何か食べたいと思い、アサヒ・アートスクエアのスタッフの方に聞いたところ、「あづま」がいいと教えてもらい、寒風のなか街に出た。DXラーメン(800円)。醤油スープがとても澄んでいて、中華料理店で味わうような全部飲めるやつでした。チャーシューがサイコロ状だったのも特徴。あと、純レバ炒めがおいしいそうです。店のおじさんが二枚目でいいひとです。もうひとりのおじさんとの仲がちょっと気になりました。水がセルフ、おしぼりがセルフまでは分かるんだけれど、ビールもセルフで驚きました(入り口にある冷蔵ケースから自分で取り出して店主に栓を抜いてもらう)。

今朝、この展示のことを知った。この本の話は以前から卯城くんから聞いていた。期待したい。

「広島!」展

一つ手前の(つまり下の)記事でリンクだけしておいた、リチャード・ムーヴ、ちょっと面白いですよね。ヨーロッパでもダンス・アーカイヴを繙くことで、ダンス作品を作る趣向がひとつの流れとして出てきているという話をあるひとから聞いた。アメリカでは、彼がこうした「なりきり!マーサ・グラハム」とでもいったらいいような作品『MARTHA』をかなり以前から上演していて、しかもかなりの評価をうけている。軽薄なパロディにしないところがいいと思う。ただ愛し過ぎた結果マーサになってしまいましたといった風でもなく、よく研究している。奇をてらっているわけではないのだ。ところで、グラハムってスーザン・ソンタグの「キャンプについてのノート」でも取り上げられているくらい「キャンプ」な存在なんですよね、昔から。そんで、そもそも「キャンプ」ってゲイカルチャーと深い繋がりがあるものなわけで、グラハムをキャバレーショーで踊っていたゲイ(恐らく)がとりあげて作品化するというのは、整合的すぎるくらい整合的なアイディアなんですよね。ぼくがムーヴに興味をもつようになったのは、レイナーを取り上げた映像作品『Rainer Variations』(2002年、チャールズ・アトラス監督)で、グラハムそっくりのムーヴがレイナーに「トリオA」を振り付けてもらうという場面があって、それがたまらなくおかしかったからなんだけれど、ムーヴは、、彼が積極的に映像作品を制作している点でも注目に値すると思う(下の記事のリンクで飛べば、新作『Bardo』は部分的にYou Tubeで見られます)。You Tubeの映像で彼は、自分のアイディアについて「デコンストラクション」という言葉を使って説明していたけれど、こうしたデコンストラクションは、流行うんぬんではなく方法の一つとなって、日本でも定着していったらいいのにと思う。

マリー・シュイナール「オルフェウス&エウリディケ」

2009年02月09日 | ダンス
2/8
一応、artscapeに寄稿するので、詳しくはそちらをご参照下さいというところなんですが、マリー・シュイナール、よかったです。なんか「プレゼンス(「身体が観客の前にあらわれるそのあり方」とでもさしあたり訳してみましょうか)」に対する考えが明確だなと思ってしまいました。エロとか下品とかグニャグニャとか美しさとかかわいさとかをどう見せたらいいか、その考え方がきわめて明確でヌケが良いといえばいいでしょうか、舞台上がすっきりしていました。まるっこくてやわらかくて白い、、、厳格なフェティシズムに基づいて選ばれたに違いない身体は、その厳格さの故に、そりゃ見応えあるわけです。

ところで、最近、興味あるのがこの「プレゼンス」という言葉なんですよね。まだ考え中で、曖昧なところがあるのですが、ちょっと書いてみます。
いまここにいてこれを見ているという覚醒とちょっとそれはないんじゃないかと思わされる驚愕とがない交ぜになった感覚といえばいいでしょうか、ちょっと前なら「強度」などといっていた事柄に近いのかもしれないけれど、テクニックとかそれに裏打ちされるフォルムの美とか、そうしたものに向かう目が不意に見てしまう目の前の身体の現前性。オードリー春日みたいな存在に、うさんくさいと思いつつ巻き込まれている感じとか、(音がバンド名)の小林さん川染さんに惹かれているのも一脈あるのだと思うのだけれど、「プレゼンス」がすごいっていいよなあ、と思う今日この頃です。

あ、あとホナガヨウコ×サンガツ『たたきのめすように見るんだね君は』(DVD)を発売(2/18)に先がけ、見せてもらいました。バンドの音とダンスの振りが、主と従の関係を入れ替えながら、その緊張関係を保ちつつ突き進んでいく55分は、見応え十分でした。今、時代のテーマは「自由」ではなく「支配/被支配」(あえてこれを雇用/被雇用と読み替えてみることもできるかも)だよなあと痛感しますね。「コラボ」とかいって互いの自律性を尊重するという建前のもと即興的に行われる上演は、ほぼ100%失敗するとぼくは思っていまして、その失敗の原因は、尊重しているようで実のところ適当に互いを無視している場合が多く、結果、その場で起こることといえば、音のデカイ者勝ちとか(そう大体ダンス側は敗北します)になりがちだからです。「自由」でも「無視」でもなく(どちらとも本当のところ相手を相手としていない)やるとすれば、音が振りに従ったり、振りが音を追いかけたりする「支配/被支配」の関係へ向けて誠実にアプローチする他無いはずです。ホナガさんとサンガツは、そのまっとうなセッションを続けて、繊細で密度の濃いひとつの塊を創り上げたのだと思います。音と振りとの関係のひとつの解答がここにあります。その点でダンス作家を目指す方、見ることを勧めます。

We danceと採点

2009年01月29日 | ダンス
We danceというイベントが、横浜で、今度の土日にあります。伊藤亜紗も参加していることもあり、しばしば食卓の話題になるのですが、個人的に応援しています。黒沢美香、手塚夏子、神村恵、、、の公演やトークを一度にみられるなかなかないチャンスなので、どうぞ、ダンス公演にあまり行かないみなさん、良い機会ですので、是非、足をお運び下さい。でも、なんでタイトル「We dance」なんだろうなー。見る専門のぼくみたいな立場は、疎外されている気になってしまうんですよねえ、若干。「We dance and you see」とかって言ってくれたら、いいのになあ(でも、そういう気持ちに応えるためなのか、伊藤は「おもしろいって言う係」といって若い鑑識眼のあるメンバーと共に、観客代表でいろいろとコメントしていくそうです)。

ところで、今日、ある担当科目のテストの採点が終わりまして、何分210人だったか受講者がいまして、大変でした。そこでは、ルネサンス期から、バロック、古典期、ロマン主義期、20世紀のパフォーマー達(ダンカン、ベイカー、オノ・ヨーコ、マドンナ、松田聖子、浜崎あゆみetc)にいたる女性のパフォーマンスの歴史を見ていきました。見られる存在としての女性達は、いかにしてその受動的で見る者に支配される劣位から自らの利益を得てきたのか、あるいはそうした支配/被支配の関係と闘ってきたのかについて論じました。そこで、いろいろな映像を学生と見たのですが、採点終了記念で、その幾つかをご紹介します。

例えば、ある回では、黒人のパフォーマーは白人の抱いている「黒人」のイメージを忠実に踊ることで、人気を獲得したという問題についてジョセフィン・ベイカーを参照した。その冒頭で見たのが、ビヨンセ「Single Ladies」。この踊り、スゴいですよね。
ビヨンセ「Single Ladies」
ビヨンセのAMAでのパフォーマンス
ジョセフィン・ベイカー バナナ・ダンス
ビヨンセがベイカーへのオマージュでバナナ・ダンスを踊る

例えば、ある回では、80年代にいまの「アイドル」イメージは形成されるが、その典型である松田聖子について、とくにその「ぶりっこ」パフォーマンスとは何だったのか、考えた。途中、しょこたんと比較して、松田聖子を十分意識しているだろうこの曲で、しかし、しょこたんの首は松田聖子のように揺れないのは何故か、なんて問うてみたり。松田聖子は、学生たちに人気だったなあ。「ぶりっこ」は、ありなんだそうです。
松田聖子「白いパラソル」
中川翔子「綺麗ア・ラ・モード」

見られるという事態は人気の証拠かも知れないけれど、見てもらえてはじめて見られる訳で、そこにはさまざまな戦略があったはずだし、それをズルイとか、男性中心社会に順応しているだけとか批判出来るは出来るのだけれど、男性中心の社会が崩れないなかでそれでも生きて行くためにどんなパフォーマンスを女性達が行ってきたのか、そういう視点で考察することは必要だとぼくは思っています。権力志向でも反権力でもなく対権力といいますか。そうそうマドンナも取り上げたのだった。

マドンナ「マテリアル・ガール」
これはモンローのこの曲へのオマージュでもあるのだけれど、単にマドンナは「物欲少女」を賛美したのではなく、そうとしか生きようがない女性に対して憂いの気持ちも含ませている。それはビデオの最後で、農作業用の車で野の花をプレゼントしに来た男と本当の愛(キス)を交わす(それもまた男の側の戦略だったのかもだが)というラストシーンに暗示されている。けれど、もっと明確なのは、このライブの後半。マドンナは、こんなもの全然欲しくなんかない、全部くれてやるとばかり、ネックレスとか札束とか客席に投げつけるパフォーマンスを見せた。

artscape0901(0812)レビュー

2009年01月16日 | ダンス
今月から、artscapeにてレビューを連載することになりました。こちらをご参照下さい。
今月は12月の公演、神村恵『配置と森』、大橋可也&ダンサーズ『帝国、エアリアル』、金魚(鈴木ユキオ)『言葉の先』、HARAJUKU PERFORMANCE +(PLUS) SPECIAL(1日目~3日目)、イデビアン・クルー・オム『大黒柱』について書きました。同じページでは、五十嵐太郎さんや村田真さん、酒井千穂さん、深川雅文さん、松田達さんら建築、美術、デザインなどの専門家がレビュアーとなって執筆されています。

ぼくはこの誌面で、ダンスのみならず、演劇やパフォーマンス表現、音楽演奏など、広くパフォーマンスに関する上演・表現について書いていこうと思っています。ひとりでやることですから、どうしても個人的な関心や問題意識にレビューのラインナップは引きずられることでしょう、その点は、おゆるし願いたいところです。こうした時評的なレビューの限界(誌面が限られていることや締め切りがタイトなこととか、公演を見ていない読者への手短な紹介になっていた方が良いだろうとか)はあるにせよ、さしあたりぼくはここでこの分野の批評を書いていくつもりです。ただし、こうした誌面に書きたいこととブログに書きたいこととは異なる場合があります。両者の内容が異なっていたり、対立したりすることさえあるかも知れません。そういうことの可能性も含めて、時に応じて、ブログでも批評的なあるいは批評に準じた文章を書いていこうと思っています。

よろしくです。

(ちなみに、デザインがこのブログのとなんだか激似なんですが、たまたまだと思います)


ところで月曜日、綱島に黒沢美香&ダンサーズの公演「家内工場」を見に行く途中、すばらしい瞬間に遭遇した。昼間の南武線(という徹底的にとぼけていて、神からほっとかれている気さえするそんな場所であり時間)の府中本町辺り、全身黄色のトレーナー姿のおじさんが車内にふらっと入ってきた。その歩みは、まさしく絵に描いた「ふらっと」という振る舞いで、「よっ、ひるまっからすまんね、空いてる?」と居酒屋の暖簾をくぐっているかの存在感・演技性があった。黄色いトレーナーの小男がそんなプレゼンスを見せていることがまずおかしい。空いているぼくの目の前の席に座ると、ぼくはその瞬間からおじさんに釘付けになってしまう。「なんか体のリズムが変だ。すごい自分発信のルールで周りを支配している。手に、何か持ってる、、、単行本だ、きっとどこかの図書館で借りたんだ、それにしても、バッグはもちろん財布ももっていなさそうな男が一冊、単行本をもっているなんて、なんて意味ありげなんだろう」と思うと、その本のタイトルがどうしたって気になる。座ったまま脇に抱えている、タイトルが見えない、何だろうタイトル、、、とその瞬間、「あいよ」とばかりに、男は本を隣に置いた。この「あいよ」はぼくの気持ちに気づいてのことでは断じてないとしても、どこかへむけて絶対どこかへ気持ちを向けて発せられた「あいよ」のはずで(もちろんそんな声は、ぼくの心の中にしか響いていないのだけれど)、その「あいよ」の合図につられて本の表紙を覗いてしまうそんな自分に、我慢出来なず爆笑しそうになって、ちょっとうつむく。いろいろなタイトルがよぎり、その度に笑いそうになる。しぱらくして半ばの平静を取り戻し、気を取り直して前をむき直すと、現れたタイトルは『苦悩』。「『苦悩』とともに電車に乗る男、おれ、五十二才、独身、よろしく」ってなナレーションがぼくのなかで危うく響きそうになる。あわてて顔を下にし笑いを隠す。さらに、二駅程進んだ辺りで乗ってきた中学生に、突然おじさん、席を譲った。このおじさんの心遣いは、部活帰りの快活な中学生にとって明らかに予想だにしなかった状況で、けれども、おじさんのシナリオに従わなきゃと強迫的に思いこんでしまった中学生は、一人が座るとなぜか座ったもう一人が強引にスペースを作り、1.5人分に2人で座るという暴挙(→演劇)を演じてしまうのだった。中学生のひとりはバカボンみたいな顔だった。