東アジア歴史文化研究会

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なぜ中国はかくも傲慢なのか? そして、なぜこの国は「中国は一つ」「日中友好2千年」などと、虚妄のスローガンを叫び続けなければならないのか(国際派日本人養成講座)

2020-09-21 | 中国の歴史・中国情勢

■1.中国の王毅外相、チェコを恫喝


8月30日にチェコのビストルチル上院議長が企業家やメディア関係者ら約90人を率いて、台湾を訪問した事に対して、中国が凄まじい反応を見せました。王毅外相は「中国政府と人民は絶対に座視することはなく、近視眼的な行為と政治的なばくちに高い代償を支払わせる」と強く警告した、と中国外務省のホームページ上で発表されました。「警告」というより「恫喝」です。

単なる言葉だけの「恫喝」ではありません。前任の上院議長は、台湾訪問を目前にして、今年1月に心筋梗塞で急死しています。その妻は、夫が中国大使館から訪台を中止するよう脅迫されていたと明かしています。後任のビストルチル氏は、それを恐れることなく、見事に遺志を引き継いだのです。

今回の訪台の大義は「ハベル元大統領の精神を示すこと」でした。ハベル氏は、チェコスロバキアの共産党一党支配を打倒した1989年の「ビロード革命」の指導者でした。反体制の劇作家時代には何度も逮捕と投獄を経験し、大統領に就任してからも民主主義と人権重視を訴えてきました。

当然、中国には批判的で、ノーベル賞委員会に中国人権活動家の劉暁波氏への平和賞授賞を呼び掛け、実現させました。中国の圧力をはねのけて、台湾の李登輝元総統をチェコに招いてもいます。共産党独裁の悲惨さを実体験しているだけに、自由を護ろうとする台湾の苦闘も他人事ではなかったのでしょう。

王毅外相の「恫喝」に対し、フランス外務省はすかさず「欧州連合(EU)の一員に対する脅しは受け入れられない。われわれはチェコと連帯する」と批判しました。ドイツのマース外相も、「脅迫はふさわしくない」と述べ、フランスと歩調を合わせました。やくざまがいの恫喝で、中国の異質さがますます目立ってきました。


■2.「一つの中国」をアピールし続けなければならない自信のなさ


「この国はなぜ傲慢なのか」とは、中国近代史専攻の岡本隆司・京都府立大学教授の著書『歴史で読む中国の不可解』[岡本a]の序章のタイトルです。その中にこういう一節があります。

中国はたとえば台湾や香港との関係で、必ず上から目線の態度を持し、「一つの中国」を呼号している。つまりは字面と違って、無二の存在ではない。だから自他にアピールが必要なのであって、よほど自信がないのである。[岡本a, 133]

なるほど、弱い犬ほどキャンキャン吠える類いでしょうか。しかし、これほど巨大な国が「自信がない」というのも、不思議です。岡本教授は、この点を中国人の持つ異様な「正統」の概念で説明しています。

「一つの中国」を訴え続ける背景には、「正統」は一つしかありえない、台湾が「もう一つの別の中国」であったら、それはとりもなおさず、自分たちが「正」しくない、偽りの存在であって、永久に蔑視、批難されてしまう、と考えるようです。

同じ理屈から、日本が建てた満洲国は「偽満州国」と永久に批難し続けなくてはならないのです。しかも念の入ったことに、本来の「洲」を、地方にはどこにでもある普通の「州」の一つであるかのように、字まで変えています。


■3.ヒステリックな「自己中心主義」


そもそも「正統」が一つしかない、という強迫観念そのものが異様です。たとえば、ドイツ民族はドイツのみならず、オーストリアでもドイツ語を母語とする人口が90%以上ですが、ドイツこそ「ドイツ民族の正統の国家」で他は「偽の国」などと主張したりはしません。「一つのドイツ」としてオーストリアを併合したのはヒトラーくらいです。

中国の建国はわずか70年ほど前ですが、台湾はその時から分離独立していたので、ドイツとオーストリアのように、別々の国家として仲良くすれば良いのに、それができないのは、「正統な中国は一つしかない」という脅迫観念によるものです。この観念を生み出したのが中華思想である、と岡本教授は指摘します。

中国は古来、世界・文明の中心と自任し自称してきた。それは主観的な認識であると同時に、史上ある時期までは客観的な事実でもあったから、そこに住む人々の間では、血肉にひとしい観念となっている。

しかも加うるに、儒教という自分本位のコンセプトがあった。こうして自分こそ中華・中国、中国こそ至上、ほかはみな低劣な「夷(野蛮人)」、という自尊と自己中心主義に転化する。[岡本R02、117]

「自己中心主義」、すなわち自分だけが世界の唯一の中心なのですから、それを脅かす存在は徹底的に排除しなければ、逆に自分が否定されたと感じてしまう。なんとも、厄介な自己中心主義です。

しかも、中国が実際に唯一の世界の中心であった時期は、それほど長くはありませんでした。多くの時代では、大陸内部で分裂抗争をしているか、北方の遊牧民族国家に脅かされたり、完全に支配されたりしていました。だからこそ、逆にヒステリックに「中国は一つ」と叫び続けなければならないのです。


■4.中国独自の「領土」概念


この自己中心主義は、現在の国際社会の常識には全く合致しません。現代の国際法の仕組みは、多くの独立した主権国家が、対等の存在として同盟を組んだり、交渉したり、というものですが、これはヨーロッパ近代の歴史の中から生まれてきました。たとえばチェコは人口1千万人、面積は静岡県程度の小国ですが、政治的にはあくまでも独立した主権国家なのです。

中国の自己中心主義はこの国際体制になじみません。互いに対等な独立主権国家という概念がないからです。自国が世界の中心におり、他国はすべて従属するものだと見てしまうのです。

この世界観では他国との境界が曖昧になってしまいます。中国はモンゴル、チベット、朝鮮、ベトナム、琉球など、朝貢という名目で実質的には貿易をしていただけの周辺国も、自分の服属国であり、それら属国の領土も、自分が間接的に支配している領土であると思い込んでいるからです。

これは現代の国際秩序における、独立国の「主権」のおよぶ「領土」とは違う観念です。「領土」も「主権」も日本人が西洋の概念を翻訳して創った漢字熟語ですが、それを中国人は「服属国」の領土も自分の領土と、すり替えて使っています。

だから、モンゴルもチベットも琉球も中国に朝貢していたから、中国の領土である、という主張をするのです。1930年代の地図を見ると、朝鮮もベトナムも本来、中国の「領土」ですが、戦争の結果奪われたもの、と表示しています。

中国が尖閣諸島を、自分たちが「主権」を有する「領土」と言いつのる背景には、嘘をついている意識はなく、こうした歴史から当然の主張をしている、と信じ込んでいるようなのです。


■5.「イデオロギー理論をわかりやすく説くのが、史学の役割」


現実とはどれほど食い違っても中国の正統性を主張してきた伝統から、歴史学もその手段たらざるを得ません。

過去に実在した出来事を例にとって、経典に記すイデオロギー理論をわかりやすく説くのが、史学の役割であり、存在理由だったのである。

中華人民共和国の憲法の「序言」に、中国共産党が政権をとるに至った近代史を述べるのは、その典型である。その叙述が客観的に正確かどうか、あえて問うには及ぶまい。[岡本a、633]

中国の憲法の「序言」の冒頭部分を見てみましょう。

中国は、世界でも最も古い歴史を持つ国家の一つである。中国の諸民族人民は、輝かしい文化を共同で作り上げており、また、栄えある革命の伝統を持っている。

1840年以降、封建的な中国は、次第に半植民地・半封建的な国家に変化した。中国人民は、国家の独立、民族の解放並びに民主と自由のために、戦友の屍を乗り越えて突き進む勇敢な闘いを続けてきた。[WIkisource,「中華人民共和国憲法」]

1912年まで中国を支配した清朝は満洲族によるもので、漢民族はその下で植民地支配を受けていただけなのですが、そういう史実はおくびにも出しません。

ここで言う「国家の独立、民族の解放並びに民主と自由のために、戦友の屍を乗り越えて突き進む勇敢な闘い」の主な敵が日本です。日本という「敵役」が、共産党政権の正統性を証明するのに、不可欠の存在なのです。

だから日本に反撥する意識や感情は、決して厳密正確な事実経過と因果関係から帰納されたものではない。あくまで「反日」というドグマが先にあって、その理由づけとして、適合する事実を後から刷り込んでいるにすぎない。[岡本a、637]

「適合する事実」ばかりか、「南京大虐殺」などあることないことまででっちあげて、「抗日戦争」を分かりやすく説きました。したがって、どれほど日本が謝ろうと、「水に流す」ことはありません。日本がどれだけ友好的に接しようと、「反日」のイデオロギーを下ろすこともありません。それは中共政権にとって、自己の正統性を否定する破滅に他ならないからです。


■6.「官民一体」の日本、「官民乖離」の中国


もう一つ、日本人に理解しがたいのは、中国における官と民の距離でしょう。我が国では古来から朝廷や幕府、諸藩が領民を治めており、明治以降も「官民一体」となって、近代国家建設に取り組んできました。これは近代的な国際社会に適合した国民国家の在り方でした。

しかし、中国は岡本教授が「官民乖離」と呼ぶほど、距離がありました。清国は18世紀半ばの人口が1億人弱だったのに、経済成長と人口爆発によって19世紀半ばには4億人に達します。それに対して満州人を中心とする官僚機構はほとんど増えていないのです。

では行政の数少ない仕事は何かといえば、せいぜい税金の取り立てと犯罪の取り締まりくらいです。その徴税も、「包攬(ほうらん)」と呼ばれる、地主や大商人のようなコミュニティの、ごく少数の顔役が取りまとめ、支払っているのが実態です。

これが今日にも通じる中国政治の基本的なスタンスです。日本人の感覚でいえば行政サービスとされていることの多くは、民間が独自に行っているのです。民間からみれば、政府は無用どころか、敵でしかないでしょう。[岡本b、2474]

中国人が機会さえあれば、国を捨てて世界のどこにでも移住してしまうのは、この「官民乖離」で政府なぞ信用せず、頼りにもしていないどころか、「敵」そのものだからです。


■7.日中関係は「政冷経熱」が伝統


この「官民乖離」をベースに、過去、日中関係は「政冷経熱」、すなわち冷たい政治関係と熱い経済関係が常態だった、と岡本教授は指摘します。

日本と中国の経済関係が深まるのは、平安中期から鎌倉中期の日宋貿易の時代でした。遣唐使廃止以来、両政府間の関係は絶えて久しかったのです。元寇では激しい戦いとなりましたが、その背後では日元貿易が盛んでした。16世紀の倭寇は日中貿易を行っていましたが、明は貿易を非合法化して弾圧したために、倭寇は武力を用いたのです。

豊臣秀吉の朝鮮出兵では、明が朝鮮に援軍を出したので、日明戦争となりました。その一方で、日明貿易は盛んに続いていました。江戸時代は日本が鎖国し、政府間関係もありませんでしたが、長崎を通じて、貿易は続いていました。明治以降も日清間では不可分の経済関係を発展させながらも、やがて中国側の排日運動で対立を深め、ついには満洲事変、日中戦争に至りました。

こうして見ると、日中関係はほぼすべての時代で「政冷経熱」が続いていました。「一衣帯水」とか、「日中友好二千年」などというのは、中国政府が日本の投資を呼び込むためのプロパガンダでした。

下部構造・民間の経済と上部構造・権力の政治とが一致しないのなら、どれほど経済的な関係が深まったところで、政府間の関係がそれに比例するはずはない。むしろ、距離の遠い民間をいかにつなぎとめるかに腐心する中国政府が、その民間と関係を深める外国に良い感情を持つはずがない。かくて日中対立は、往々にして必然となる。[岡本a、720]


■8.「官民衝突」と「愛国無罪」


「官民乖離」と言っても、両者がまったく無関係という事ではありません。経済発展が続くと、貧富の差が拡大し、官の腐敗も進んで、ついには「官民衝突」となっていきます。

明末の「明変」は17世紀初めに頻発した都市住民の反政府暴動です。清末の「教案」は19世紀に多発したキリスト教徒や教会に対する襲撃事件で、義和団事件もその一つです。正義の暴力なら、法を破っても構わない。悪逆無道なら天子でも殺しても良い、という「革命思想」があり、現代の「愛国無罪」もその一環です。

コロナ禍の前から、米国は中国との冷戦を始め、コロナ禍で中国の正体を知った欧州諸国も豪州やインドも、対中包囲網を築きつつあります。さらに洪水やイナゴの害で、食糧危機も迫っているようです。いよいよ、明末や清末のように、中共政権の末期が近づいている様相に見えます。

その際には、清末の義和団事件や排日運動のように、日本人を含めた外国人居留民が暴力の標的にされる恐れが大です。中国は日本や欧米諸国の国際常識が通用しない異境です。この点を理解して、今後の動乱に備えなければなりません。これが「賢者は歴史に学ぶ」ということです。


(文責 伊勢雅臣)


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