東アジア歴史文化研究会

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう
歴史の書き換えはすでに始まっている

終戦を遅らせたソ連の秘密工作 〜 江崎道朗『日本は誰と戦ったのか』から

2017-12-10 | 歴史の真実
今こそ「日本は誰と戦っているのか」を問わなければならない。

■1.ソ連の工作員が終戦を遅らせた

昭和16(1941)年、ソ連の工作員がアメリカのルーズベルト政権と日本の近衛文麿内閣に潜り込んで、日米を戦争に引きずりこんだことは、弊誌で何度か取り上げた。

しかし、同じくソ連の工作員たちが、日米の講和を妨害した事はあまり知られていない。その結果、終戦が何ヶ月も遅れ、硫黄島や沖縄での激戦で日米双方での多数の軍民が犠牲になった事、さらに空襲や原爆投下、そしてソ連侵攻による満洲・北朝鮮での民間人暴行、将兵のシベリアへの拉致、北方領土侵略など、戦争末期の被害がもたらされた。

このあたりを、江崎道朗氏の最新刊『日本は誰と戦ったのか』がアメリカでの近年の歴史研究成果に基づいて明らかにしているので、本号ではその一部を紹介して、この好著への誘いとしたい。

■2.「ずっと黙っていた。口を開けば的外れなことを言った」

話は終戦の6か月前、昭和20(1945)年2月4日から11日にかけて、クリミア半島南端、黒海に臨むヤルタで行われた米英ソの首脳会談、ヤルタ会談に遡(さかのぼ)る。

当時、ルーズベルト大統領は心臓疾患による極度の高血圧で、ほとんど執務不可能の状態となっていた。ヤルタへの長旅と時差は、さらなる負担となっただろう。

ヤルタ会談では英国外務次官アレクサンダー・カドガンは、ルーズヴェルトは「会議を主宰するよう呼ばれても掌握も先導もできず、ずっと黙っていた。口を開けば的外れなことを言った」と述べている。ルーズベルトはこの会談の2か月後、高血圧性脳出血で死去している。スターリンはこういう状態のルーズベルトを相手に、交渉したのである。

■3.「背中に鏡を置いたままポーカーの試合をする」

さらにルーズベルトが連れて行った国務長官ステティニアスは外交に関しては全く素人で、しかも国務長官に就任してわずか二か月しか経っていなかった。

元駐日大使で国務次官ジョゼフ・グルーや、モスクワでの代理大使を務めたジョージ・ケナンなどは連れて行かなかった。グルーは早期の対日講和を主張しており、ケナンは後にソ連封じ込め政策を立案する人物で、ソ連にとっては好ましい人物ではなかった。

そのかわりにルーズベルトが指名したのは、無名の一官僚アルジャー・ヒスだった。ヒスは戦後、ソ連のためにスパイ行為を働いたとして、告発された人物である。スパイ行為については有罪にはならなかったが、ソ連のスパイとの関係があったのに嘘の証言をしたとして、偽証罪で禁固5年の有罪となっている。

ステティニアスはヒスに頼りきりで、発言はほとんどヒスが主導した。しかもヒスはアメリカ側のすべての最高機密ファイルを見られる立場にいた。

ソ連のスパイであった疑いの濃厚なヒスが、病人のルーズベルトと素人のステティニアスをリードしていた。ルーズヴェルトは「背中に鏡を置いたままポーカーの試合をする」状況に置かれたようなものだと、戦後、ヤルタ会談の実態を知って怒った共和党のウィリアム・ノーランド上院議員は述べている。

■4.ヤルタ密約

その「鏡を背にしたポーカー」の結果、ヤルタ密約が結ばれた。その原案はソ連側が作成した。ドイツ降伏から2,3か月後にソ連が対日参戦することと引き換えに、多くの領土と権益を与えるという内容だった。日本の領土に関する部分だけを列挙すると:

・千島列島のソ連への引き渡し(南千島(現在、北方領土と呼ばれる北方四島)は1855(安政元)年の日露和親通好条約で日本領土と確認された。明治8(1875)年の樺太・千島交換条約で、日露混住の樺太をロシア領とし、千島列島全体が日本領となった。)

・樺太の南部のソ連返還(樺太南部は、日露戦争の結果、日本に割譲された)

当時、アメリカの国務省はソ連との交渉を念頭に、千島列島に関して次のようなレポートをまとめていた。

南部の諸島に対するソヴィエトの権利を正当化する要因は、ほとんどないように思われる。ソヴィエト連邦へのこのような譲渡は、将来の日本が永久の解決としては受入れ難い事態を造り出すことになろう。それは、歴史的にも民族的にも日本のものである島々と、漁業的価値のある海域を、日本から奪うことになる。
南部の諸島は、もし要塞化されるならば、日本に対して絶えず脅威となるであろう。

現在の日本が抱える北方領土問題を正確に予言している。このレポートはルーズベルトに宛てて提出されたが、ヤルタ会談のための準備資料には含まれていなかった。資料を統括をしていたヒスが外したと推測されている。

そしてルーズベルトはスターリンとの交渉で「サハリンの南半分と千島列島が戦後、ソビエトに行くことについては何らの困難もないと思う」と発言したと記録されている。

ヤルタ密約では、このほかに満鉄と旅順・大連の運営権をソ連に与える事がとり決められた。ヤルタ密約はルーズベルトとスターリンによって署名され、イギリスのチャーチルは同席せず、後に形式的に署名した。文書は一切公表されず、存在そのものが隠蔽された。

アメリカでは外国との条約締結は上院の3分の2以上の賛成による承認が必要である。ヤルタ密約はルーズベルトの越権行為であり、戦後、アメリカ政府から条約としての効力を持つものではないと否定されている。

■5.日本の降伏を遅らせよ

ヤルタ会談で満足な結果を挙げたスターリンにとっての最大のリスクは、ソ連参戦前に日本が降伏してしまうことであった。そうなれば何も得られない。ヤルタ会談の時点では、ソ連はドイツとの激戦を続けており、アジアで日本との戦いに入るためには、もう数ヶ月必要だった。

なんとか日本の降伏を引き延ばしたいスターリンの援軍となったのが、ルーズベルトの無条件降伏要求だった。条件付き講和の道を閉ざされれば、敗色濃厚となっても日本は簡単には降伏できない。ルーズベルトはこの無条件降伏要求を、1943年1月の連合国首脳とのカサブランカ会談で打ち上げた。

自国の国務省に相談することもなく、チャーチルの反対を押し切って、ルーズベルトはあたかも連合国首脳の総意であるかのように発表したのである。

ルーズベルトがヤルタ会談に向けて出発する2日前、マッカーサーからの急報がルーズベルトに届いた。日本側が講和案を5つのルートで打診してきており、アメリカはこの提案を受け入れるべきだと進言するものだった。日本は天皇の安全以外何も求めておらず、これは最終的に日本が受諾した降伏条件と同じものであった。

しかしルーズベルトは「マッカーサーは最も素晴らしい将軍だが、ダメな政治家だ」とこの進言を却下した。

陸軍のマッカーサーだけでなく、ウィリアム・リーヒ、チェスター・ニッミツの2人の海軍元帥も、1945(昭和20)年2月のヤルタ会談の時点では戦争の勝負はついており、ソ連軍の参戦は不必要、かつ望ましくないと考えていた。

これらの陸海軍トップの意見は無視され、逆に「アメリカ陸軍はソ連の対日参戦を必要としている」という全く逆の意見が、あたかも軍の総意であるかのように吹聴された。ジョージ・マーシャル参謀総長の仕業で、この人物は後に国共内戦においてアメリカの蒋介石側への支援を遅らせ、シナ大陸を共産党の手に渡した人物である。

■6.終戦遅延工作による被害者65万人超

ヤルタ会談以降の日米戦争による被害を挙げてみれば、スターリンの終戦遅延工作の影響の大きさを窺うことができる。主なものだけでも以下のようになる。数字は戦死・行方不明者数である。

2月19日〜 硫黄島の戦い 日本軍1万8千、米軍7千
3月10日〜 東京大空襲 以降、各地の空襲により、20〜30万
3月26日〜 沖縄戦、日本軍民約19万、米軍2万
8月6日  広島への原爆攻撃 9〜12万
8月9日  長崎への原爆攻撃 7万
8月9日〜 満洲、南樺太、千島列島へのソ連軍侵攻 日本軍2〜8万、民間人犠牲者多数
8月9日〜 シベリア抑留 6万以上

少なめの推定数字だけで合計しても、約65万人規模となる。米軍も2万7千人の被害を蒙っている。スターリンの謀略工作によって、これだけの人命が失われたのである。

人的被害だけではなく、東アジアにソ連と共産主義勢力が入り込んだことによって、シナ大陸や北朝鮮、北ベトナムが共産陣営に取り込まれてしまった。その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、現在の北朝鮮問題、尖閣問題、南シナ海問題など、現代世界で東アジアが最も危険な地域の一つになってしまったのは、ヤルタ密約に源を発するのである。

■7.手玉にとられた日本

日本にとって、まことに迂闊(うかつ)だったのは、このソ連に和平仲介の依頼をしていることだ。事の次第はこうである。

5月2日のベルリン陥落後、鈴木貫太郎内閣は連合国に対して和平を求めることを決め、仲介役としてソ連が選ばれた。交渉役としなった広田元首相は6月3、4日、箱根にてマリク駐日大使と極秘会談を持った。広田はこの会談は友好裡に行われ、ソ連側の受け方も良好で、交渉の前途は有望と東郷外相に報告した。

ところが、その後、いつまで経ってもマリクからの音沙汰がない。昭和天皇からも「なるべく速かに戦争を終結するように取り運べ」とのお言葉があった。6月29日にマリクから日本側の意向について再確認があり、広田が説明したところ、「本国政府に取り次ぎ、回答があり次第、会談を進める」という返答だった。

その後、いくら督促してもマリクは病気と称して出てこない。やむなく、日本政府は近衛文麿侯爵・元首相を特使としてモスクワに派遣することを打診したが、ソ連側はモトロフ外相が多忙との理由で、回答は遅延するだろうとの事だった。この時点では7月17日からのポツダム会談が迫っていたのである。

結局、ソ連はヤルタ会談で対日参戦を約束し、日本からの和平仲介の依頼をあしらって対日作戦準備の時間を稼ぎ、終戦の6日前に日ソ中立条約を破って、対日侵攻を始めたのである。まさにスターリンは見事に日本を手玉にとったのである。

■8.「日本は誰と戦っているのか」

江崎氏は次のように結論づける。

国際政治の世界では、騙された方が悪いのです。そして先の大戦で日本はインテリジェンスの戦いで「敗北」したのです。

過去に欺された事への恨みつらみを語っても、仕方が無い。それよりも大事なことは二度と欺されないことである。そのためには、前回、どのように欺されたのかをよく調べて、日本に何が欠けていたかを分析することだろう。

わが国の弱点は、あまりにも相手の分析が足りないことである。ソ連に和平の仲介を依頼するなどは、その典型である。

またアメリカの国情をよく分析すれば、ルーズベルトやソ連の工作員たちのように、無条件降伏をテコに日本の降伏を遅らせようという一派ばかりではなく、グルーや陸海軍の上層部のように、妥当な条件で日本との早期講和を図ろうとする一派もいたことが、分かったはずだ。

たとえば、日本を対米開戦に追いこんだのは、最後通牒ともいうべきハル・ノートであった。そしてこのハル・ノートは米国内でも秘密にされていた。日本軍の真珠湾攻撃後、米国共和党リーダーのハミルトン・フィッシュは対日開戦に賛成する演説をしたのだが、戦後、ハル・ノートを知って、こう語っている。

今日私は、ルーズベルトが日本に対し、恥ずべき戦争最後通牒を送り、日本の指導者に開戦を強要したということを知っており、この演説を恥ずかしく思う。

したがって日本政府がハル・ノートを世界に公開していれば、間違いなくルーズベルトは共和党や国民の批判にあって、日本を追い詰める姿勢を続けられなかったであろう。

敵の分析が弱いということは、現代日本についても言える。慰安婦問題で世界に反日世論を巻き起こそうとしてるのは、一体どこの国が、どのような狙いでやってる事なのか。沖縄の米軍基地反対は誰の差し金か。朝鮮危機の最中、一部野党が「もりかけ」問題で国会を空転させ、内閣の足を引っ張っているのは、何のためにやっているのか。

我々は本当の敵を見極めなければならない。『日本は誰と戦ったのか』とは、江崎氏の著書の卓抜なタイトルであるが、今我々は問わなければならない。「日本は誰と戦っているのか」と。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿