日本のどこかの港に着いた密航者たちは、受け入れ兼輸送役を担っていた日本のヤクザの車で東京や大阪といった大都市にやってくるのだ。
密入国者が蛇頭に払う費用の相場は200万~300万円であったのに対し、当時の中国人の年収といえば大都市においても5万~7万円である。月収ではなく年収だ。
蛇頭の「日本に行けば大金を稼げる」という甘い誘惑に乗り、ケタ違いの借金を背負ったうえで来日する者も多かった。しかし身分はどこまでいっても密航者だ。就ける仕事なんて皿洗いや解体工など薄給の肉体労働くらいしかなかった。
当時、中国残留孤児二世たちによって結成されたマフィア「怒羅権」(ドラゴン)のメンバーであった汪楠氏は、自著である『怒羅権と私』(彩図社)の中で次のように語っている。
「怒羅権と蛇頭は完全に別の存在ですが、怒羅権がマフィア化し始めた90年代、両者は協力関係にありました。具体的には、蛇頭が日本に密入国させた中国人たちの一部を、私たちが一時的に管理していたのです」
警察に捕まり、中国に強制送還にでもなれば、借金の返済は絶望的だ。日本語などひとつも話せないので、不法就労先では散々こき使われ、いじめられる―。そんな彼らに犯罪行為であるとはいえ、大金を稼いでいる怒羅権はまぶしく見えた。そして、彼らは怒羅権や日本のヤクザの下働きという形で次第に不良化していった。
密航者たちは使い勝手がよかった。何しろ犯罪の相場を知らないし、借金を抱えているので何でもしたのだ。中にはたった30万円で人殺しの依頼を受ける者までいた。そんな彼らの拠点となっていたのが、現在も歌舞伎町に存在する「思い出の抜け道」(以下、抜け道)という路地裏の飲み屋街だ。
当時、抜け道に出入りしていたという怒羅権の元メンバーであるウェイが話す。
「盗品をスーツケースに入れて売りさばく中国人グループが、抜け道にある店を売り場として使っていた。扱っていた商品はブランド物の時計や服で、強盗して得たものだから仕入れ値はゼロだった。盗品ではあるけれど偽物ではないからね。元値の2割引で売られていたので、ホストや風俗嬢など歌舞伎町の住人たちには大人気だった」
94年8月、上海出身のマフィアグループが、抜け道にあった中華料理店「快活林」を襲撃し、従業員と客の2人が死亡。頻繁に抜け道を出入りしていた上海出身のマフィアと北京出身のマフィアの抗争だと言われている。
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