昨日の補足。山崎村の戦いで伊庭八郎が率いたのは、凡そ150~160人(第三軍は予備なので除く)、これに対して小田原藩兵は正確な人数は判りませんが、恐らく800~100人くらいかと。五倍以上の相手の攻撃を、切り通しの地形を活かして防… twitter.com/i/web/status/1…
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年11月25日 - 11:05
繰り返しになりますが、しかし伊庭にとって不幸だったのは、五倍以上の小田原藩兵の攻撃を防いだと思ったら、同じく五倍近い約800人の鳥取・長州・津・岡山の四藩兵を、歴戦の河田左久馬が率いて攻撃を仕掛けてきたのですから、地の利を得ていたと言えども、伊庭に防ぐ事は出来ませんでした(汗)
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年11月25日 - 11:09
余談ですが、河田率いる小田原藩、及び遊撃隊討伐の軍勢が派遣されたのは、上野戦争の勝利により新政府軍に戦力の余裕が出来たからです。上野戦争で彰義隊を殲滅した新政府軍は、これを期に江戸周辺の反新政府勢力を駆逐しようと考えます。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年11月25日 - 11:12
そこで箱根の遊撃隊と、それに同調した小田原藩兵、そして飯能の振武軍の討伐を決定。この指揮官にそれまでの戦いと上野戦争で戦果を挙げた、河田左久馬(鳥取藩士、東山道軍内参謀)と渡辺清(大村藩士、東海道軍参謀添役)の両名を抜擢し河田を箱根に、渡辺を飯能に向かわせます。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年11月25日 - 11:17
両名とも見事遊撃隊と振武軍を撃破し、これで新政府軍は江戸周辺を完全に掌握します。そこで新政府軍は江戸周辺の掌握で得た余剰兵力を、白河に増援を送る一方で、新たに一軍を編成して海路平潟へ向かわせます。そしてこの平潟軍の参謀には、先の戦いで戦果を挙げた河田と渡辺が抜擢されました。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年11月25日 - 11:22
河田と渡辺、そしてもう一人の参謀の木梨精一郎(長州)に率いられた平潟口軍は、6月16日に平潟に上陸、そのまま浜通りを北上し、白河で新政府軍(白河口軍)と対峙していた奥羽列藩同盟軍の側面を脅かす事になります。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年11月25日 - 11:26
この平潟口軍の進出を知った、白河口軍参謀の板垣退助は、別働隊を率いて棚倉城を攻撃。その後も北上を続けて、7月27日には奥州街道本宮宿を占領して、これにより須賀川宿に健在だった同盟軍も、補給線と後方連絡線を断たれて瓦解します。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年11月25日 - 11:31
その後、白河口軍と平潟軍の一部(渡辺指揮)は、母成峠を経て鶴ヶ城城下に突入し、遂に会津藩を降します。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年11月25日 - 11:34
一方平潟口軍の残り(河田指揮)は更に浜通りを北上し、最終的には仙台藩を降しますが、その間に磐城で戦ったのが遊撃隊。こうして磐城の地で、伊庭と河田は再び激突する事になったのです…。
申し訳ありません。磐城で遊撃隊を率いていたのは人見だったかもしれないので、現在確認中ですm(_)m
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年11月25日 - 12:08
訂正します。磐城で遊撃隊を率いていたのは人見でした。ですので磐城の地で河田と遊撃隊は再び激突しましたが、その時に遊撃隊を率いていたのは人見でした。謝罪訂正させて頂きます。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年11月25日 - 12:30
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