1879年12月14日、フランスの陸軍軍人だったC・E・ミニエーが死去。幕末日本で多用されたミニエー銃の開発者。ただし、欧米での普及後に各国が口径など独自のものを採用していたため、日本では戊辰戦争の際、弾薬補給で混乱が生じたらしい… twitter.com/i/web/status/9…
— 太田鳴雪 (@zasetsushirazu) 2017年12月14日 - 11:43
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— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年12月14日 - 21:36
ああ、昔のお正月時代劇の白虎隊やってるんだ。
— はつゆきかずら (@motonyari16001) 2017年12月14日 - 19:32
俗説まみれで史実のかけらも無い人物造形の世良修蔵さんが、悪口言われてるんだろうなあ。彼、英語もオランダ語もできる兵学のエリートで、長州藩家老の家臣で、その家老の私塾で教授やるくらいのインテリなんだけどね。国学系で万葉調の和歌も詠むし。
ちなみに世良修蔵暗殺事件は、「奥羽越列藩同盟の成立」と裏表の関係だから、彼が悪逆非道だったとか、彼の書いた手紙の内容が仙台藩士の怒りを買ったという単純な理由で暗殺されたわけではないよ。
— はつゆきかずら (@motonyari16001) 2017年12月14日 - 19:38
暗殺の日と奥羽越列藩同盟の成立の日を確認するとわかる。
RT>まあ、「会津は正義を貫いた」事にするには、世良は悪逆非道の人間だった事にするしかないですからね。間違っても、明治新政府の方針に従っていた世良を仙台藩と共謀して謀殺して、同時に白河城を攻撃した計画的な行動とは認めては、会津の正義が成り立ちませんからね(汗)
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年12月14日 - 23:08
ちなみに後日改めて書きますが、棚倉では「新政府に通じた三春から嫁を取るな」と言われていたそうですが、三春が新政府に恭順しようがしまいが、棚倉が攻め落とされたのは変わらないので、三春を逆恨みするのはお門違いかと。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年12月14日 - 23:11
棚倉が攻め落とされたのは、三春藩が新政府に恭順したからではなく、新政府の板垣退助隊と比べて、指揮官・装備・兵力・兵の質のどれもが劣ったからであって、三春藩は何の関係もないと断言したいと思います。これについては、詳しく後日書かせて頂きます。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年12月14日 - 23:15
ちなみに、これは二本松藩も同じ。二本松藩が少年達を駆り出して抗戦せざるを得なかったのは、三春藩が裏切ったからではなく、板垣退助隊に二本松城と、二本松藩の主力が居た須賀川宿を分断された戦略的失敗が原因で、三春藩は何の関係もありません。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年12月14日 - 23:22