歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

伊豆:山中城址

2012年08月15日 21時26分29秒 | 登城記・史跡訪問



 山中城址の碑。

 今まで相模足柄城址と、伊豆韮山城址と言う北条氏による、対豊臣戦に備えて拡張整備された小田原城の西方戦線の城跡を紹介させて頂きましたが、今回はその最後となる北条氏の対豊臣戦メインの防御ラインとなった山中城址です。


 岱崎出丸部の説明版。

 山中城の特徴は、東海道(箱根街道)その物を本丸部と岱崎出丸で挟んでいる事でしょう。これにより東海道を進む軍勢は、否応でもこの山中城を突破するしかなく、敵軍の迎撃箇所としては理想的な場所でした。その東海道を挟む本丸と岱崎出丸を、障子堀で囲んでいるのも特徴でしょう。この障子堀はとにかく圧巻で、その影響か障子堀は半ば北条氏の代名詞になっている気がします。


 復元された東海道。左手が岱崎出丸跡になります。


 岱崎出丸跡。現在は芝生になっています。


 岱崎出丸跡南側の斜面。見て判るとおり急斜面になっており、ここから軍勢を攻め込ますには困難な地形でした。


 岱崎出丸跡上の土塁跡。


 御馬場曲輪跡横の空堀跡。


 岱崎出丸跡の先端に在るすりばち曲輪跡。


 すりばち曲輪横の武者溜まり跡。


 すりばち曲輪跡から御馬場曲輪跡方面を見て。


 岱崎出丸跡から三島方面を見て。肉眼では確認出来ませんでしたが、韮山城址もこの方面に位置します。


 岱崎出丸の東海道側の斜面に掘られた空堀跡。山中城址の代名詞である畝堀になっています。


 御馬場曲輪北側の土塁跡と空堀跡。


 北条流の築城技術の粋を集めたと言われる山中城ですが、豊臣勢の猛攻の前にあえなく半日で落城します。北条氏としては数倍の軍勢に攻められても耐えきれる自信を持っていたといわれていますが、いかんせん山中城を攻めた豊臣勢の兵力は、山中城守備兵の七倍以上。これだけの兵力差があっては、いかに北条流の築城技術の粋を集めたと言われた山中城でもひとたまりもありませんでした。


 本丸・西の丸・北の丸方面の説明版。


 三の丸堀跡。


 田尻の池跡。


 西の丸横の障子堀跡。この障子堀跡は北条氏築城術の代名詞ですね。


 西櫓を囲む障子堀跡。


 西櫓跡から愛鷹山方面を見て。


 西の丸と西櫓間の障子堀跡。


 西櫓跡。


 西櫓横の障子堀と、その向こうの西の丸跡。 


 西の丸に復元された模擬冠木門。門の向こうに見張り台跡が見えます。


 溜池跡。


 北の丸跡と土塁跡。


 北の丸跡と本丸間に復元された木橋。


 本丸跡。


 本丸横の障子掘跡。


 本丸下の弾薬庫、兵糧庫跡。


 天守台跡。


 三の丸跡に建てられている宗閑寺。


 宗閑寺の境内には山中城攻防戦で戦死した豊臣勢、北条勢の兵士達の墓が並んでいます。


 保存状態が良く、北条流の築城技術の粋を集めたと言われるだけあって、山中城址は本当に見応えのある城でした。豊臣勢の猛攻に耐え抜いた韮山城と比べるとイマイチイメージは良くないですが、東海道を直接城内に取り込んでいる山中城は、豊臣勢にとっては何が何でも落とさないといけない城だったので、これが豊臣勢の猛攻を受けて半日で落城してしまった理由ではないでしょうか。

 訪問日:2012年07月16日


8月14日(火)のつぶやき

2012年08月15日 01時15分06秒 | twitterまとめ
13:26 from web
昨日購入した一太郎を早速使ってみる。凄い本当に段落が書ける!。しまったこんな便利な物と理解していれば、もっと早く導入しておけば良かった…。

13:27 RT from web  [ 1 RT ]
戦争はつらいものだ。戦後のお祝ひの酒は、戦死者の血のやうだ。『ガマ坊の描かれ方 15』 amba.to/PeTWjG
大山 格さんのツイート

17:55 from web
戊辰戦争中の新政府軍の役職である仮参謀と内参謀については何となく判ってきましたが。続いての疑問はでは内参謀と軍監では、どっちが指揮権が上か?です。名前的には内参謀の方が上そうですが、各総督府独自の任命の内参謀よりも、朝廷任命の軍監の方が上なのでしょうか?。

17:59 from web
実際軍監の香川敬三よりも、内参謀の祖式金八郎の方が偉そうなので、ふと疑問に思ってしまいました。そう言えば同じ東山道軍でも、内参謀の河田景与が鳥取藩兵の指揮権しか持っていなさそうなのに対して、軍監の岩村高俊が尾張藩+信州諸藩の連合軍の指揮権を持っていた事ですし…。

by tukaohtsu on Twitter