著者の星亮一が思い描く、史実を無視した文字通り「偽り」の明治維新史です。今までも歴史捏造を繰り返してきた星ですけれども、本書では新たに「言質を他者に押し付ける」と言う卑怯さを身に付けています。本感想では、このように他者に責任に転換しようとしている星の「偽り」を検証したいと思います。
まず全体の構成から書くと、「偽りの明治維新」と大層な書いているものの、要はいつもの「会津こそ正義!、薩長は悪!」といつもの星の願望を書き連ねているだけです。その為に幕末維新史全体を書いているものの、星自身に幕末維新史の知識が無いので、通史としては極めて薄っぺらい中身の無い物になっています。
しかし話が会津戦争に及ぶと急に饒舌になり、会津がどれだけ新政府軍に略奪されたかを強調しています。しかし一方で会津藩兵が行った搾取や略奪には触れないのは、相変わらずこの男が「公平な歴史観」とは程遠い人間と言うのを表していると言えましょう。私は白河口・日光口戦線の会津藩兵の搾取・略奪には詳しくはないので、話を越後口に限定させて頂きますが、会津藩兵が越後の民衆から搾取・略奪し、越後の民衆から会津藩兵が憎まれていたと言う史料が無数に残っています。郷土史だけでも新潟市・新津市・水原町・五泉市・小千谷市・十日町・燕市・見附市等の市町村史に、会津藩兵によって民衆がいかに搾取・略奪され苦しんだのかと言う記述がされているのにも関わらず、星はこのような「史実」から目を背け、会津の被害のみを主張する様は醜悪としか言えません。越後における会津藩兵による、民衆への略奪・搾取については、詳しくはこちらを参照下さい。
また星は孝明天皇が新政府側によって謀殺されたのではないかと本書で書いているものの、あくまで石井孝氏が「孝明天皇暗殺説」を主張しているのを紹介しているだけで、自分の意見は何も述べていません。これが本書で星が新たに身に付けた「言質を他者に押し付ける」です。歴史小説と史実の区別が付かない人達からは未だに信じられている「孝明天皇暗殺説」ですけれども、今や学会では完全に俗説扱いされているのが現状です。かつては星と同じく東北贔屓の佐々木克氏も暗殺説を支持していましたけれども、原口清氏の暗殺説否定を受けて、その考えを改めています。また現在は評判が悪い、マルクス史観の井上勝生氏でさえ病死説と暗殺説を併記していますし、学界的には暗殺説は相手にされていないのが現状でしょう。しかし星はそのような「学会の現状」からは目を背け、少数派の石井説を盾に、暗殺説を主張するもののその責任は石井氏に押し付けています。これを卑劣と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。尚、前述の佐々木氏はその著書「戊辰戦争」にて、自分の誤りに気付いた後も、あえて暗殺説の支持を訂正せずに自分の誤りを反省する文章を追記し、自分が誤った考えを持っていた事実からは決して逃げずに、歴史家としての責任を果たしています。この佐々木氏の高潔さと比べると、責任からひたすら逃げ続ける星の何たる醜悪たる事か。
そして最後は原爆発言。これはかつて会津郷土史家の故宮崎十三八が鶴ヶ城落城を、広島の原爆被害以上の悲劇と記述した事を転載して、鶴ヶ城の落城の悲劇ぶりを強調しています。しかしこの言動により宮崎氏は研究生命を絶たれ、晩年は自分の識見の無さを反省していたと伝われています。ところが星は、この宮崎氏の晩年の反省を無視して、自分にとって都合の良い部分だけを転載して、その言質は宮崎氏に押し付けると言う、正に死人に口なしの所業を行っているのです。これは被爆者の苦しみと宮崎氏の晩年の反省の双方を侮辱していると言えましょう。
この様に本書は、星にとっての理想の明治維新史を書いているものの、それに対する批判は他人に転換出来るように巧妙に書かれた著書であり、その姿勢は卑劣としか言えません。
しかし実際には星の著書は一部には多大な支持を得ています、これは何故でしょう。私が思うに、これは歴史小説と歴史の区別が付かない人が多いからだと考えています。敗者の会津を絶賛し、勝者の薩長を誹謗する星の文章は、歴史の啓蒙書としての価値は無いものの、負け組みにシンパシーを感じて、勝ち組に嫉妬する日本人の特性に合っているのではないでしょうか。残念ながら歴史と歴史小説の区別が付かない人が多い状況が続く限り、星の著書はこれからも売れ続ける事でしょう。
そのような意味では、星は歴史に対する識見は皆無ながらも、商業的な識見には優れているのかもしれません。