日本統治時代には『川中島』と呼ばれていたです。
ここには、『第二の霧社事件』で生き残った人たちの末裔たちが住んでいます。
【第二の霧社事件。興味のある方は、一番下に【ウィキペディア】よりの文章を貼ってあります。ご参照下さい。】
いつ来てもすごくのどかな場所です。
最近では『霧社事件』を題材にした『映画セデック・バレー』の影響もあって、こちらのにも観光客が訪れる様になりました。
現在、このには目立ったお土産屋さんは私の友人宅しかないのでけっこう繁盛しているみたいです。
週末には観光バスなんかも来ていますが、昨日は平日だったのでご覧のとおりほとんど観光客会いませんでした。
友人のお土産屋さん。どちらかと言うと、この辺で収穫された野菜や果物なんかの’野外販売所’と言った感じですね。
新鮮な地鶏の卵なんかも買えるので、私は重宝しています。
これは、かぼちゃですね。最近では日本から入ってきた『栗カボチャ(向かって右)』も普通に栽培されています。
香りのすごく良い『キンモクセイの花』を干したものです。
紅茶なんかに少し入れて合わせると、けっこういい感じになりますね。
私の大好物のサツマイモ。もらっちゃいました!
こちらのオーナーの奥さんが自分で栽培したと言っていたので、その事を私が褒めまくったらくれました...。
(本当は払うつもりだったのですが、最終的にお金もらってくれませんでした。何か申し訳ないですね。)
『昨日は、家に戻ったらただちにいただいたお芋をいただきました。』
私が発明した’≪超短時間で食べられる方法≫’ですが、厚めにスライスして、そのままフライパン(蓋を必ずする)で焼き上げます。
味付けに関しては、お芋の味が既にしっかりしているので『塩』だけ。濃厚な味で最高でした。
その他に『炊き込みご飯』も美味しかったです。
【第二霧社事件と川中島遷移】
1931年(昭和6年)4月25日、蜂起(日本人を大量殺害)に与した後に投降した霧社セデック族生存者(保護蕃と呼ばれた)をタウツア社(タウツア社はセデック族と対立しており、味方蕃として日本に協力した)が襲撃し、216人が殺され、生存者は298人となった。襲撃側のタウツア社の死者は1名であった。これを第二霧社事件という[
首を狩られたセデック族保護蕃と、首を狩ったタウツア族。警察官の姿も見える
1931年(昭和6年)4月25日、蜂起に与した後に投降した霧社セデック族生存者(保護蕃と呼ばれた)をタウツア社(タウツア社はセデック族と対立しており、味方蕃として日本に協力した)が襲撃し、216人が殺され、生存者は298人となった。襲撃側のタウツア社の死者は1名であった。これを第二霧社事件という。
霧社事件の後始末で警察が味方蕃から銃器を回収する寸前の出来事であったが、当時の警察官から、警察がタウツア社に襲撃を唆したとの証言がなされている。タウツア社への処罰はなされず、逆に蜂起部族の土地を与えられることとなった。
1931年(昭和6年)5月6日、最終的に生存したセデック族保護蕃は北港渓中流域の川中島(現在の清流)と呼ばれる地域に強制移住させられた。ここで生存者ら家族は警察からの指導のもとに生活した。強制移住後も蜂起参加者への警察の取調や投獄など責任追及は続いた。反乱に与しなかった霧社セデック族各社に対しても「反乱協力者」として投獄される例もあった。こうして最終的に蜂起有責者として38名が逮捕投獄された。当初警察はこれらを毒殺により処刑しようとしたが担当医師から毒薬注射を拒絶された。38名は留置処分となったが、逃亡を図り殺害された1名のほか全員が1932年(昭和7年)3月までに留置中に獄死した[18]。川中島への移住者には当局からの援助があったものの、労働力の不足やマラリアに苦しめられ、移住から2年後には人口が3分の2まで減ったという。ただしその後は持ち直した。【文章:ウィキペディアより引用】
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