カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ミサのはしご

2020-04-26 14:33:46 | 教会

 2020年復活節第3主日(4月26日)のミサは「はしご」をした。最初に9時からイグナチオ教会のミサに与り、10時から山手教会のミサにでて、10時半過ぎからは関口教会のミサにもでた。計3箇所の教会のミサに出たことになる。

 昔は同じ日に二度告解したり、聖体拝領したりしてはいけないと教わった気がするが現在どのようなルールになっているのか知らない。今は新型コロナウイルス感染拡大という緊急事態だし、聖体拝領もないのだから勘弁してもらえるだろう。
 考えてみれば、複数の司祭が共同でミサを挙げるというのも現在は見慣れた光景だが、不思議といえば不思議だ。トリエント・ミサが懐かしいわけではないが、菊池大司教が言われたように、今回の事態が教会共同体とはなにであったかをもう一度考え直す機会になるのだろう。少し大げさに言えば、教会に行かないでもミサにあずかれることの神学的な意味が問われてきているのかもしれない。教会がない、司祭がいないなかで信仰を守り通した潜伏キリシタンを思いおこす。

 「聖書と典礼」は昨日教会に行ってもらってきた。「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」のカードももらってきた。この祈りは今日のどの教会のごミサでも祈られていたが、まだ手元にない方もおられるだろうから、ここに載せておきたい。

 

 三つの教会のミサは復活節第3主日のミサだから同じといえば同じだが、お説教が対照的で興味深かった。この苦難の事態を復活節のなかでどう意味づけるか、神父様によって異なってくるのは当然だ。イグナチオ教会の神父様が原稿なしで熱弁を振るっておられたのが印象的であった。
 関口教会のミサは歌ミサということもあり時間が長いが、画面に文字が表示されるのでとてもわかりやすかった。参加できたのは菊池大司教のお説教の部分からだが、ごミサらしいミサであった。

 

 イグナチオ教会でのミサは英神父様の司式かと思ったがそうではなく、お二人の司祭の共同司式だったが侍者はいなかった。カメラが固定されているらしく、動きがなかった。十字架が復活のキリストで印象深かった。お説教では神父様が「イエズス」「イエズス」と発音されていてなにか懐かしい気がした。イエズスがイエスに変わってもう何年になるのだろう。私が知っているイグナチオ教会は昔の建物なので現在のお聖堂にはあまりなじみはないが、イエズス会はあまり変わっていないのかもしれない。


(イグナチオ教会)

 

 私は現在は横浜教区所属なので山手教会のミサに久しぶりに与ったが、梅村司教の司式ではなかった。横浜教区では、今月予定されていた助祭と司祭の叙階式が延期されており、特に神奈川第4地区としては残念なことだろう。早い時期の実施を祈りたい。

(山手教会)

 

 ということで、ミサのはしごをした。また機会があれば、他教区のミサにも出てみたいものだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネット・ミサに与る(復活節第2主日)

2020-04-19 15:33:08 | 教会

+主の平和
関口教会からの復活節第2主日のごミサに与りました。今年(A年)4月19日午前10時からでした。今回はテレビのYouTubeでしたので、よく見え、よく聞こえました。便利な世の中になったものです。視聴者数も5000を超えていたようです。

 

 

「聖書と典礼」は手許にはありませんでしたが、「教会暦と聖書朗読」を持っているので、朗読箇所はわかります。福音朗読はヨハネ20:19-31でした。イエスが弟子たちに現れ、トマスに「見ないで信じる人は幸いである」と言う場面です。といっても画面にはすべての式文が文字で表示されるので、困ることはありませんでした。

菊池大司教様の司式でした。岡田大司教様とは違った個性をお持ちのようで、お説教もわかりやすいものでした。お説教(の原稿)は、司教様のブログにも掲載されていますが、復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められていたことを思い起こさせてくれましたし、教皇フランシスコが、2015年に「いつくしみの特別聖年」を始められたことも思い起こさせてくれました。お説教の最後は「いま、困難に直面する世界の直中にあって、わたしたち自身がまず、神の愛といつくしみに身をゆだね、それをあかししなければなりません。分かち合うものとならなければなりません」ということで、今日のお説教のキーワードは「いつくしみ」のように聞こえました。

「共同祈願」も現在の苦境からの救いを願うもので心を打つものでしたし、閉祭の歌はグレゴリオ聖歌でした。こういうごミサのライブ中継が、いつまで続けられるのか、続けざるを得ないのか、はっきりしませんが、こういうネット中継や動画が病人や老人をどれだけ力づけてくれることか、関係者の皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖体拝領のない復活祭

2020-04-12 13:39:33 | 教会

4月12日ご復活祭。関口教会からの10時のライブ配信のごミサに与った。
菊池大司教様はわれわれがいま危機的状況のなかにいることをご自分の言葉で話され、良いお説教であった。聖体拝領がないのが残念だった。司教様によれば

「現存されるキリストとの一致を求めながら霊的に聖体を拝領することも忘れてはいけない教会の伝統です。……ミサの映像配信がある場合は、通常通りミサの進行に従い、拝領の場面では、心の内に主を迎えながら、霊的に拝領します」

とのことであった。

(関口教会)

画面には視聴参加者数がでていた。わたしは横浜教区だが、ミサのライブ配信・動画配信があることを私の小教区ではホームページでも、メーリングリストでも連絡がない。教会委員たちはいつも若い人が教会に来ないと嘆いているが、情報さえきちんと流れていれば若者もスマホなどで復活祭に参加できるのではないだろうか。ICT(情報通信技術)を毛嫌いばかりしないで、活用するすべを考えたい。

https://youtu.be/91a9rIpWb8w

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キュンク神学の今日的意義

2020-04-10 14:36:32 | 神学

 今日は聖金曜日。もともとごミサのない日だが、これでは毎日が聖金曜日みたいなものだ。復活祭のミサもないと通知が来た。関口教会からいくらミサのライブ配信をするといっても、聖体拝領がないのでは与る気にもならない。霊的聖体拝領ってなんのことなんだろう。

 キュンクの『キリスト教思想の形成者たちーパウロからカール・バルトまで』には実は「エピローグ」がある。前回までで7人の神学者の紹介は終わったので、おしゃべりの会(神学講座2020)ではここでエピローグを中心にキュンクの評価で盛り上がりたいところだ。ところが、何分、新型コロナウイルス騒動で教会に集まれない。後日のおしゃべりのために、ここにこのエピローグを簡単に要約しておきたい。

 このエピローグは「時代にかなった神学への指針」と題されている。キュンクは取り上げた7人の比較や総括をしたいとは思わないという。7人のキリスト教思想家たちの「多様性」を学んだからであるという。代わりにキュンクは、自分の神学観を整理する。現代(1990年代のこと)どういう神学が望まれているか、どういう神学を営むべきなのか、を明らかにしたいという。

 キュンクは、他の神学を評価する時に、三つの「判断基準」を使うという。それは、神学の①エトス ②スタイル ③プログラム性 だという。少し整理してみよう。新しい神学はこれらの判断基準にかなうものであってほしいということのようだ。おのおのにつき詳しい説明がなされているが、ここでは要約してある。

Ⅰ 神学のエトス(倫理・思想の基礎)(1)

①日和見主義的ではない誠実な神学
②権威主義的ではない自由な神学
③伝統主義的ではない批判的な神学
④教派主義的ではないエキュメニカルな神学

Ⅱ 神学のスタイル(十戒)

①未信者でも理解できるわかりやすさ
②護教的ではない学問的厳密性
③イデオロギー上の敵を批判的同感的に解釈できる力
④学際的であること
⑤批判的でかつ対話的であること
⑥過去ではなく今日の諸問題を優先していること
⑦教会組織ではなく福音、つまり、キリストの使信に方向付けられていること
⑧専門用語ではなく一般に理解できる言語で語られること
⑨信じられる理論と生きられる実践が結びついていること
⑩教派主義的閉鎖性ではなくエキュメニカルな開放性をもっていること

Ⅲ プログラム性

①カトリック的かつ福音主義的であること(教会と聖書の両方に関係づけられていること)
②伝統的かつ同時代的であること
③キリスト中心的かつエキュメニカルであること
④理論的・学問的かつ実践的・牧会的であること

 なんとも贅沢な判断基準で、なかなかこの眼鏡にかなう神学は少ないだろう。本書はJ・モルトマンとお弟子さんのエーバーハルト・ユンゲルに捧げられているようだが、弁証法神学や実存主義神学を乗り越えようとした「希望の神学」の終末論に期待していたのかもしれない(2)。

 キュンクの主著は『教会論』だが、この本はエキュメニズム論と教皇至上主義批判が中心だという。H師は、第二バチカン公会議後の1970年代には上石神井の神学校(日本カトリック神学院)では若い神学生たちにこの本ははよく読まれていたと言っておられた。エキュメニニズムの思想がいかに強烈な訴求力をもっていたかをうかがわせる。

 だが、キュンクの言うエキュメニズムとは結局はカトリックとプロテスタントの教会一致のことではなかったのか。仏教や儒教や神道やイスラムやヒンディーが本当に視野に入っていたのだろうか。入っていたにせよ、「キリスト中心」と「他宗教との対話」をどのように実現するのか、もう少し議論を展開してほしかった(3)。


1 エトス Ethos 概念も複雑でさまざまな用い方があるだろうが、結局はM・ウエーバーの用法に立ち戻らざるを得ない。つまり、倫理や思想の内容そのものというよりは、それが人間の内面に働きかけて行為を方向付ける生活態度をさす。『プロ倫』でいうなら行動の駆動力とでも呼べようか。
2 希望の神学は1960年代から70年代にかけて、青年の異議申し立て、学生運動を背景に生まれた新しい神学。モルトマンの『希望の神学』(新教出版 1968)が代表作。この本の副題は「キリスト教的終末論の基礎づけと帰結の研究」となっており、終末論を中心に神学を建て直そうとした。ブルトマンの実存論的神学、バルトの超越論的神学はともに啓示が持つ終末論的性格(終末がもつ約束と復活が希望である)を無視していると批判したという。
3 H師はよく言っておられた。「キュンクって、結局、ヨーロッパの話でしょ」。キュンクが、M・スコセッシ監督の映画「沈黙ーサイレンスー」をみて遠藤周作の「日本泥沼論」にどのような印象を持つのか聞いてみたいものである。


 キュンクは最近の著書『7人の教皇』では、諸宗教間の平和がなければ世界の平和は実現できないと主張して「世界のエトス」を掲げ、世界中の諸宗教に共通する倫理を標準化しようとしているという。病気を抱えているとはいえ、92歳にしてまだ元気なようでなによりである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルトマンかバルトか ー カール・バルト(完)

2020-04-09 15:19:39 | 神学

聖木曜日。新型コロナウイルスの終息を祈る。

 

Ⅹ なお残る挑戦 ー ルドルフ・ブルトマン

 キュンクは、今日ではバルトからブルトマン(1)に「寝返る人」がいるが、それは愚かだという。バルトは、ブルトマンの「使信の神学」「非神話化論」は確かに「実存論的」だが、その方法がハイデッガーに縛られて「還元論的」である点を「短所」とみなしていたという。
 キュンクは、バルトにもブルトマンにも長所と欠点があるという。問題は、キュンクによれば、二人がエキュメニズム(2)にどのように向き合うかだという(3)。

 バルトはブルトマンを次の点で批判したという。

1 ブルトマンは、宇宙・自然・環境を人間の実存に都合が良いように和らげてしまった
2 ブルトマンはリアルな世界史を人間的な歴史性へと、リアルな将来を人間的な将来性へと還元してしまった
3 ブルトマンは具体的な社会的・政治的次元をハイデッガー流の「世界ー内ー存在 In-der-Welt-Sein 」の神学のなかでなおざりにしてしまった

 これだけでは何のことだかよくわからない。実存主義を、普遍的真理や人間の本性を問題にするのではなく(バルトのように)、私にとっての真理、単独者としてひとりの人生を生きることの意義、を強調する哲学と理解するならば(ハイデッガーやキルケゴールのように)、バルトはブルトマンに無神論的実存主義の傾向をみたのかもしれない。

 逆にブルトマンはバルトの弱点を早くから指摘していた。とにかくバルト神学は「教義学的に複雑すぎる」という決定的欠点を持っているというのだ。

1 バルトは解釈学的議論から距離を置いているが、それは「できるだけ独断的な」議論をするためである
2 バルトは、ブルトマンと約束していた大学での講演を断り、友情を断ってしまった
3 バルトは、神学的解釈は歴史的・批判的釈義なしに遂行できると考えていた
4 バルトは、批判的教理史を遠ざけて三位一体論を論じている
5 バルトは、教会をことさらに強調して、教義学を復古的に再構成して近代以前なみにしてしまった

 ブルトマンのバルト批判は正鵠を射ていた。つまり、キュンクに言わせれば、バルトは「16・17世紀または4・5世紀の正統派教義学のアルプス砦に立てこもって」しまったのだ。バルトのこの「防衛戦略」は成功だったのだろうか。
 キュンクは、バルトはポストモダン神学を「創始」したが、それを「完成」させようと望んだら、バルトはバルトではなくなるだろうと言う。バルトはもういちど「出発点」に立ち戻り、「最初から始める」道を選ぶだろうと言う。バルトを擁護する、好意的な評価だ。

 バルトがもう一度やり直すなら、かれは、マリア論や教皇論、キリスト論や三位一体論を、「歴史的批判に基礎づけられた釈義から、歴史的・批判的に責任を負った教義学」を作ろうとするだろう、と言う。つまりバルトは史的イエス研究を活用することによって、新たな道に進むだろうと言う。

「引き返すのではない・・・シュライエルマッハー、ルター、トマス・アクイナス、アウグスチヌス、オリゲネスに帰って行くのではない・・・むしろかれらと共に、バルトらしく、豪胆さと決然たる態度、集中と首尾一貫性を持って、前進するのである」(327ページ)。

 

ⅩⅠ ポストモダンの地平を前にしての批判的・同感的な再読のために

 カトリック神学とプロテスタント神学がともに「前進する」とはどういうことなのか。キュンクはそれを「バルトの『教会教義学』を批判的かつ同感的に kritisch-sympathisch 再読する」ことだという。なぜならこの本は、改革派でもルター派でもなく、「エキュメニカルな神学」を目指しているからであるという。

 このバルト神学はつぎのようなトポス(主題)を持っている。神の固有性の弁証法、創造と契約の関係、時間と永遠の関係、イスラエルと教会との関係、キリスト論と人間論との関係などである。バルトにあってはこれらのトポスが、体系的かつ根源的に展開されている。「これは、いかなる解放の神学よりもラディカルな解放の神学である」。キュンクがバルトをいかに高く評価しているかがよくわかる。

 この書は確かに複雑だし、大著だ(ドイツ語で9175ページ 日本語訳で全36巻)。だがキュンクによれば、この本はバルトが「偏愛する」音楽家モーツアルトについて語った言葉「偉大で自由な簡潔性」に貫かれているという(4)。バルトは言う。

「(モーツアルトの音楽は)全く並外れた仕方で自由である・・・それはあらゆる過剰から自由であり、あらゆる根本的破壊と対立から自由である・・・モーツアルトはすべてのことについて、ある不思議な中心から理解しつつ、音楽をしている。だから彼は、右にも左にも、上にも下にも、限度があるのを知り、それを守る」

 キュンクは、この「不思議な中心」とは「イエス・キリストにおいて人間に恵み深く向き合ってくださる神ご自身」のことだという。バルト神学においては、この世の闇・悪・否定的なもの・虚無的なもの・悲劇的なものも言及されるが、それらが氾濫することはない。バルト神学は、モーツアルトの音楽と同じように、極端なものの前で踏みとどまるのである。

 キュンクは、本章を、つまり、本書を、バルトの著書『アマデウス・モーツアルト』(1956)からの感動的な引用で締めくくる。モーツアルトの音楽を聴く者は、つまり、バルトの神学を聞き取る者は、

「自分が死に陥った者であること、しかもくりかえし生きる者であること ーまさにわれわれすべてがそうなのだがー を理解しており、そして自分は自由へと召されている、と感じることが許されているのである」


1 Rudolf Bultmann 1884-1976 ドイツのプロテスタント神学者。バルトとならぶ20世紀神学の巨人。実存論神学と呼ばれるらしい。キリスト教を近代的合理主義的に理解することを批判し、実存論的理解(使信の理解、非神話化された聖書理解)を主張したという。「史的イエス」研究に「様式史批評」という手法を導入し、聖書から史的イエスを再現することは難しく、聖書はむしろケリュグマ(宣教)の書であることを明らかにしたという。

 

 

2 エキュメニズム ecumenism とはわかりにくい言葉だが、キリスト教の教派を超えた一致を目指す運動や思想のこと。カトリックでは「教会一致」と訳されることが多いが、プロテスタントでは「世界教会運動」とか「教会一致促進」とか訳されるらしい。普通はキリスト教と他宗教(仏教、イスラム教など)との対話や相互理解の運動は含まないようだ。それはカトリックでは「諸宗教との対話」と呼ばれる。

 

 

 

3 佐藤司郎 『カール・バルトとエキュメニズム:一つなる教会への途』 新教出版 2019
元になった論文(2017)などはネットでも読むことができる。
4 バルトもキュンクもモーツアルトの専門的研究者らしい。この二人がベートーヴェンよりモーツアルトを好むことが神学的には何を暗示するのか興味深い。職人と芸術家という比喩的対比がふさわしいのだろうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする